🐤 舌切り雀(6)メデタシメデタシ?

 我に返った一茂は、先ほどから募っている強い疑問を、大竹にぶつけた。

「お話の趣旨は理解しました。しかし、腑に落ちないことが多すぎます。第一、こんなに重要な話が、なぜ私の上司である逓信大臣からではなく、あなたから来るんでしょうか? どう考えても、おかしいですよ」

「誠にごもっともなご質問です。これには、そうしなければならない訳があるのです」

「お聞きしましょう」

「陸軍の中には、対中政策を巡って強硬派と漸進ぜんしん派があり、両派の対立は、日に日に深まっているのです。強硬派は、なるべく早い時点で中国本土へ本格的に侵攻し、痛打を加えて国民党を壊滅させ、傀儡かいらい政権を樹立させようとしています。一方、漸進派は、まずは誕生間もない満州国の政治・行政・経済の充実に専念し、それがある程度達成できてから、中国本土への進出を行おうとするものです。私は、漸進派の立場です」

「そのような路線対立があることは、私も聞いています」

「私たちは、強硬派の主張どおりに事が進めば、日中の全面戦争は必至であると考えています。これは、絶対に阻止しなければならない。ところが、山下逓信大臣は、強硬派との結びつきが非常に強い人なのです。先生の渡航計画が山下大臣に知れたら、必ず阻止に動くでしょう。そればかりではなく、あちこちに強硬派やそれに加担する人々がいます。あくまで隠密裏に運ぶ必要があるのです」

「うーん。しかし、なぜ私が行かなければならんのですかね。そこのところが、今一つ分かりませんね」

「先生の頭脳です。先生は、通信技術分野では日本でも五本の指に入る、いや、西洋列強の研究者にも引けを取らない知識と経験をお持ちです。それを、かの国の発展に役立ててみませんか? 中国は列強が寄ってたかって食い物にしたため、工業が育っていません。工業を育成・発展させて、我が国や満州国と手を携えれば、一丸となって西欧列強に立ち向かえるのです」

「それは、そうかもしれませんね」

「恐れながら、先生の個人的な事情もあります」

「何ですか? 私の事情とは」

「先生と雀子のことは、すっかり奥様に知られています。最近、探偵らしき男が、しきりにこの店の内情を探っています。この店は表向きはカフェーですが、実は陸軍傘下の秘密機関です」

「さっき、雀子さんから聞きました」

「我々の手の者が内偵したところ、その探偵の依頼主は奥様でした」

「何ですって! 豊子がそんなことを……」

「奥様は、とても恐ろしい方です」

 先ほどから黙って成り行きを見守っていた雀子が、少し苛立ちの色を見せながら発言した。

「私を殴打したばかりか、千切れた私の舌の先を、血だまりの中から摘まみ上げました。嬉しそうな顔で、私の目の前にそれを突き出したのです。あの時の奥様の目は、尋常ではありませんでした」

 実際、豊子は気性の激しいところがあり、怒りのあまり雀子を殴打しても不思議ではない。しかし、舌先の件は、一茂から見ても異様だ。もっとも一茂は、千切れた雀子の舌先を豊子がどう始末したかは言わなかった。

「雀子にとって、よほど恐ろしい出来事だったようです。それで、先生。奥様の父上は、元代議士で逓信大臣まで務めた方ですね」

「よくご存じですね」

「奥様の身辺は、調査させていただきました。奥様は、先生の浮気について調べていて、その結果を父上に知らせようとなさっているのではないかと思いますよ。それに、奥様の弟さんは、警視庁の公安部にいる。内偵など、お手のものですよ」

「え! 家内は義弟おとうとまで巻き込んでいると?」

「はい。ついでに申し上げると、所長車の運転士、稲山とかいいましたね。あれも、警察上がりですよ。先生の動静を、事細かに奥様に報告しているはずです」

「あの稲山が……」

「はい。そうです。つまり、このままだと、先生は現在の地位を追われる可能性が高いのです。しかも、不名誉な理由で」

「うーん……」

「先生! 私と一緒に、上海に行きましょう。そして、二人水入らず楽しく暮らしましょうよ」

 雀子は笑顔で腕を伸ばし、隣にいる一茂の腕を取った。

「しかし、旅券は家に置いてあんだ。上海に行くにしても、一度家に戻って、取ってこなきゃならない」

「その点は心配ご無用です。旅券など、すぐに入手できます。我々は、そういうことには長けていますから。これからすぐに出発しましょう」

「これからすぐに? ずいぶん急だな」

「奥様や義弟さんに知られる前に、日本を離れなければ、出国できなくなります。身一つで、大丈夫です。おカネなど、渡航に必要なものや、現地で当座の間使うものは、すでに用意してあります。ただちに、まいりましょう。私も、上海までお供します」

「渡航手段は?」

「ここから車で横浜港に行き、横浜港からは船です」

「先生! どうか決心して下さい」

「……。分かったよ。腹を固めた。一緒に上海で暮らそう」

「先生! 私、嬉しい!」

 雀子は、すぐ傍にいる大竹に憚ることもなく、一茂を抱きしめ唇を重ねた。


 車は、雨の夜道を進んだ。一茂が初めて雀子と出逢ったのも、雨の夜だった。しかし、あの夜は冬の冷たい雨だったが、今夜は生暖かい風が吹いている。

 やがて車は、倉庫が建ち並ぶ横浜港の一角に入った。人影はなく、ところどころに点っている街灯の光が寂し気だ。


 倉庫群をしばらく進み、ある倉庫の前に停まった。

 倉庫の中には、数人の男たちがいて、一茂たちを迎えた。その中から、ダブルのダーク・スーツに身を包んだ、恰幅かっぷくの良い男が進み出た。

「こんばんは、山之内先生。先生を歓迎します。一緒に、上海行きましょう」

 言葉遣いから見て、中国人らしい。大竹が男を紹介し、通訳も務めた。

「この人が、上海の富豪で実業家の劉兆名氏です。先生をお迎えするために、上海から来たのです。この先の埠頭に、劉氏が所有する貨客船が係留されています。私たちはその船に乗って、上海に向かいます」

「そうですか。わざわざ私のために、上海から来て下さったのですか、劉さん。有難うございます」

「先生に対して、失礼があってはいけませんからね。熱烈歓迎します」

「先生。ここまで来れば、後は船に乗るだけです。出航まで若干時間がありますから、ここで一杯やっていきますか。殺風景な所で申し訳ありませんが……」

 大竹がそこまで言った時、突然、一発の銃声が倉庫内に木霊こだました。

「お前たちは、完全に包囲されている。無駄な抵抗は止めて、武器を捨てて出て来い!」

 メガホンを使っているらしい、大きな声が聞こえた。すぐに、倉庫内の照明が消え、辺りは真っ暗になった。

「先生、しゃがんで、身を低くして。じっとしていて下さい」

 囁くような、大竹の声だ。

「何が起きたんです?」

「心配いりません。落ち着いて下さい」

 しかし、閃光とともに、銃声が続けて響いた。

 やがて、目と鼻を刺すような強い臭いがしてきて、一茂は咳き込んだ。息が苦しい。

<これは、催涙ガスだな>

 一茂の意識が遠のいていった。


  *


 翌日の昼ごろ、警察が用意した乗用車から降りた一茂は、自宅の呼び鈴を押した。

 すぐに玄関扉が開いて、豊子が迎えた。

「お帰りなさい。大変でしたわね」

 一茂は、豊子の顔が直視できなかった。豊子の声は無機質的で、怒っているのか、 それとも皮肉交じりなのか、何の感情も籠っていないのか、判別しがたい。


 あの時、倉庫に警官隊が突入し、銃撃戦となった。警察は投降を呼びかけたが、それに応ぜず頑強に抵抗したため、大竹や劉を初め、一茂を除く全員が射殺された。いや、もう一人、雀子は倉庫から姿をくらまし、行方が分からなかった。

 一茂は警視庁公安部から出向いていた刑事から、深夜まで取り調べを受け、その夜は最寄りの警察署に泊った。

 翌早朝から取り調べが再開され、昼前に放免となったのだ。幸い、罪を問われることはなかった。


「昼食、召し上がりますでしょ?」

「ああ、何でもいいよ」

にしましょうか。あのほど、美味しく作れませんけど」


 警察の説明によると、大竹は、O機関の長・大竹大尉とは別人だった。また、「雀のお宿」が陸軍の秘密機関であるというのも、嘘だった。

 劉兆名は、表向きは実業家だったが、真の顔は中国系謀略機関の長だった。大竹はその配下で、主に日本で諜報・謀略活動を行っていた。その根城が、「雀のお宿」だったのだ。

 雀子は大竹配下の諜者(スパイ)であり、馬賊の一人娘云々は、まったくの虚偽だった。大竹の指示のもと、計画的に一茂と出会い、接近したのだった。

 目的は、通信技術に関する一茂の知識と経験だった。その中には、通信傍受や暗号解読など、軍事目的に転用できるものも多々含まれていた。


「あの娘が家に来た夜、私は、そんな簡単にあの娘を信用しちゃいけないと言ったでしょ? はなから、怪しいと睨んだのよ。だから翌日、弟に連絡しました」

 大好きなひつまぶしなのに、一茂にはまったく味が感じられなかった。

「済まなかった。許してくれ」

「許すも何も、弟の側もあなたを利用したんですから、一方的にあなたを責めることはできませんわ」

「どういうことだ?」

「弟のいる警視庁公安部は、雀子について調べるうちに、大竹や、その背後にいる黒幕の存在を突き止めたのよ。そこで、雀子とあなたを泳がせて、黒幕が出てきたら一網打尽にする計画を立てました。公安は、昼夜を問わず、あなたと雀子を監視していた。あなたは、とても上手く立ち回ってくれたのよ」

「チッ。なんてこった。ドジで間抜けなピエロを演じたわけだ」

「大竹ばかりか、黒幕の劉の殺害にも貢献したんですから、大したものじゃありませんか」

「皮肉を言ってるのか?」

「あのまま渡航していたら、国家反逆罪に問われていたかもしれないんですよ。しかし、スパイ摘発への貢献が認められて、研究所の退職で済んだんですから良しとしなければねぇ。しかも、健康上の理由による、依願退職ということですから」

「これから毎日、お前にチリクチリク言われ続けるのかね。これがホントの『針のむしろ』だよ」

「もう、言いません。約束します。そうだ! 雀のお宿から、あなたに贈り物ですよ」

「え? まさか、大きい葛籠つづらと小さい葛籠の、どっちを選ぶかって言うんじゃないだろうな」

「いいえ。小さいのしかありませんよ。悩まないで済みますねぇ」

 豊子は、戸棚から何か取り出して、一茂の前に置いた。桐で作られた小箱で、掌に乗るくらいの大きさだ。

「何だ? これ」

「開けて、ご覧になって」

 一茂は、桐箱の蓋を取り除けた。

 箱の底に白い脱脂綿が敷き詰められ、その上に、焦げ茶色の干からびた断片が置いてある。ヘソののようにも見える。

「ん? お前のヘソの緒か?」

「違いますよ。あの娘の、舌先ですよ」

「おい! 悪い冗談はよせ!」

「冗談ではありませんよ。時々これを見て、自分の過ちを思い出すのね。そうすれば、二度とあんなことは起きないでしょ?」


 雀子は、その後も捕まらなかった。

<まさか、空を飛んで逃げたわけでもなかろうが。いや、ひょっとして、公安部配下の逆スパイだったのかもしれないぞ。何が何だか分からん>

 一茂は、今も時々、雀子のことを思い出す。歳の差など気にせず自分を好いてくれて、いろいろ尽くしてくれた。ワインの話題などで会話が盛り上がり、楽しそうにしていた。そして、二人だけの秘め事。あれらはすべて、任務遂行のための芝居だったというのか。

<いや、必ずしも、それだけではなかった。雀子だって、俺との生活を楽しんでいたはずだ>

 いつかまた、銀座の街で雀子とばったり逢うような気がする。

<その時、俺はどうしたらいい?>

 悩む一茂であった。


《「雀のお宿」完》


【お断り】本作はフィクションです。実在した、あるいは実在する国名・地名・人名・組織名等とは関係ありません。


 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る