🐢 浦島太郎(1)亀鍋
ある日、漁師の
また腹が鳴った。このところ不漁続きだし、小さな畑からの収穫もほとんどないので、もう何日も腹いっぱい食べていない。
<岩にはやたらたくさん
少し遠くの波打ち際に、数人の子供が
近付いていくと、子供たちの輪の中心に、1匹の海亀が見えた。裏返しにされ、4つの
子供たちは大きな笑い声をあげながら、棒で亀の腹を叩いたり、足で鰭を踏ん付け
しかし、浦島が近づいてくるのを見て、亀を
そればかりか、浦島が明らかに自分たちの方に向かって歩いてくると見るや、「逃げろ!」と言いながら、慌てて走り去っていった。
<俺は餓鬼どもに嫌われているからな。追い払う手間が省けていいや>
浦島太郎は怠惰で狡賢く、人付き合いもよくなかった。子供ばかりか、村の大人にも嫌われていたのだ。
仰向けの亀は精一杯首を伸ばし、鰭をバタつかせて必死に寝返りを打とうとしている。しかし、どうしても上手くいかない。
左前の鰭から血が出ている。子供が踏んだ時に傷付いたのかもしれない。体の長さは1尺(約30cm)くらいだから、まだ子供だろう。
浦島は亀を拾い上げ、小脇に抱えて再び歩き始めた。
その一部始終を、波間から見ていたものがいた。しかし、浦島はそのことに気が付かなかった。
浦島は、のっそりと自宅の入り口をくぐった。自宅といっても至って粗末なもので、
「どこ、ほっつき歩いてたんだい? ちっとは網の
女房のトラが、不機嫌そうな声で尋ねる。トラは漁師の女房らしく、体格が良くて腕も太い。日に焼けた肌をしており、女ながら、なかなか精悍な面構えをしている。
浦島はトラの問には答えず、亀を裏返して土間に置いた。
「あれ! 亀の子じゃないか。……怪我しているね」
「浜で、
「お前さんが助けたのかい。そりゃあ、いいことをしたね。昔話みたいに、
「
「なに。この亀を食おうってのかい?」
「当たりめぇだ」
「駄目だよー、そんなことしちゃ」
「なんでだよ」
「
「なーんだ、そんなことかぃ。
トラは一瞬困った顔をしたが、強く
「あたしゃ、そんな
「何だと? おれたちゃ、
「それは……。亀は四つ足だろ」
「何を寝惚けてるんだよ。カメも魚だぜ。ほれ、立派な鰭が付いてるだろ」
カメは、土間の上で空しく鰭を動かし、宙を
「とにかく、あたしゃ嫌だね。捌かないし、食べないよ」
「何だとー」
浦島は、トラの横っ面を一発張りたい衝動に駆られたが、かろうじて思いとどまった。
トラは地付きの女だ。浜の女は漁にも出るし、男と同等の労働を担っていた。だから、逞しい女が多い。トラはその中でも、一二を争う逞しさなのだ。
仮に喧嘩を始めれば、太郎が負けることはないにしても、こちらも相当痛めつけられることを覚悟しなければならない。
それに、入り
太郎は、
一方、トラの実家は代々この村に住む漁師の家だ。5人姉妹で、それぞれが婿を取った。だから、トラと一戦構えるとなれば、一族を敵に回すことになる。
太郎の名は、婿入りと同時に改名したものだ。
「ちぇっ。しょうがねぇなぁ」
そう
太郎は、裏返しの亀が思い切り首を伸ばした
首を思い切り引っ張ると、首と裏甲羅(腹側の
次に、首を根元から切断した。切断した頭部をまな板の端に置くと、首がゆっくりと左右に動いている。小さな目が、太郎を
亀の後ろ足を両手で摑んで、持ち上げた。首の切断面から滴る血を、湯飲み茶わんで受け止めた。
「あー、嫌だ嫌だ。見ちゃいられない」
少し離れた所から見ているトラが、溜息交じりに言う。
「この血を酒に混ぜて飲むとな、精が付くというぞ」
「何言ってんだ。あたしをろくに構っちゃくれないくせに、精を付けてどうすんだい。
「うるせぇな。オメエは黙ってろぃ」
太郎は、背中側の甲羅の端に包丁を突き立て、甲羅の外周のやや内側を包丁で切り進めた。ぐるりと切れ目が入ったところで、鍋の蓋でも持ち上げるようにして、甲羅を外した。すると、内臓が現れた。
内臓を取り去り、四肢や尾を切断し、腹甲羅を外し――。
太郎は手際よく捌いていった。
鍋の湯が沸いたところで、
「
トラが離れた所から注意を促す。
「……」
何回か灰汁を
「米の飯がありやぁなぁ。
「さあ、出来上がったぜ。オメエが食わないなら、俺がぜんぶ食っちまうぞ」
「好きにおしよ」
太郎は、部屋の真ん中に鍋を置き、その前にどっかと座った。
まず、湯飲み茶わんの血を、一気に飲み干した。あまり旨くなかったとみえ、太郎は
「さてと」
鍋の蓋を開けると、湯気が盛んに立ち
「いい匂いだぜ」
お椀に肉や葱を取り、頬張った。えも言われぬ旨さが、空きっ腹に染み渡る。
「あちちち……。ふー。こりゃぁ、うめえ! これで、酒でもありゃ、文句なしなんだが」
たちまち、平らげてしまった。
「食っちまうと、あっけねぇな。子亀だったからな。今度は、大人の亀でもとっ
「やめときなよ。
食べ終わった太郎は、亀の甲羅に鰭や臓物などの
それから数日後、太郎が舟で沖に向かっていると、後ろから女の声が聞こえた。
「もしもし、太郎様」
一
女は、薄緑色の
癖のない長い髪を、後で束ねて下げている。ただ、顔に対して目が不釣り合いに大きく、両眼の間がやや離れているため、どこか人間離れした印象を与える。
<こいつ、女のなりをしてはいるが、
「太郎さま。いつぞやは、浜で子供たちに苛められていた子亀をお助け下さいましたね?」
女の大きな目が、ひたと太郎の両眼を見据えている。
「ああ、そうだよ」
太郎は、
「やはりそうでしたか。このご恩は決して忘れません。お礼に、太郎様を竜宮城にお連れいたしましょう」
「竜宮城だ? お
「私は、あなたに助けられた子亀の母です。さ、乙姫様がお待ちかねです」
<何だと? 今度は乙姫だと? ますます怪しい。誰が信じるもんか>
「いや、俺は
太郎は、猜疑心が人並外れて強かったのだ。
ところが、女は音もなく太郎の舟に乗り移ってきた。そして、両腕を太郎に預けると、太郎に
太郎は、体が
太郎は抗いがたい眠気に襲われ、そのまま眠ってしまった。
《続く》
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