🐢 浦島太郎(2)竜宮城からの遁走
「もしもし、浦島様。もしもし――」
太郎の肩を
気が付いて目を開けると、自分は仰向けに横たわっていて、何者かが顔を覗き込むようにして、自分を呼んでいる。
沖の漁場に行く途中で一艘の小舟が横付けしてきて、そこから女が乗り移ってきたのを思い出した。その女が
<俺はどこに連れてこられたんだろう? まさか竜宮城か? お! 俺を覗き込んでいる女は、小舟にいた女じゃねぇか!>
「おい、お前は小舟から俺の舟に乗り移ってきた女だな? 俺に何をしやがった? ここはどこだ?」
太郎は上半身を起こして詰問した。
「ここは竜宮城です。私の
「なに、竜宮城だと? ケッ! 大方、海賊の一味に違いねぇ。下手な芝居はよせ。お前らの欲しいものは何だ? 言っとくが、俺は一文無しだぞ」
「お疑いは、ごもっともでございます。では、こちらへおいで下さい」
女は、立って部屋の
外は暗い。今は夜らしい。
「さあ、こちらへ」
女に促されて、太郎は女の横に立った。襖の前は廊下で、その向こうはちょっとした庭になっている。
その先に目をやった太郎は、息を呑んだ。
大きくて立派な城が聳えている。城にはたくさんの窓や
「あれが、竜宮城の天守閣でございます。乙姫様は、あそこにお住まいです。ここは天守を取り巻く
「ほう、ずいぶん立派な城だな」
<立派な城であることは確かだが、まさか竜宮城ではあるまい。おそらく、
「申し遅れました。私は、御浜曲輪の女中を務めております亀と申します」
お亀は、太郎の足元で
その時、5~6人の女中が、お膳を捧げ持って廊下を通っていった。いずれも見目麗しいが、お亀と同じように、容貌にはどこか人間離れした印象があった。
「これでお信じいただけましたか? では、お部屋に戻りましょう」
二人は、元の部屋に戻った。
「ここが竜宮城らしき場所であることは、いちおう信じるとしよう。それで? 俺にどうしろって言うんだ? お亀とやら」
「はい。あなた様が私の子をお救いなさったことをお知りになって、乙姫様も痛く喜ばれました。そこで、
「へー、そいつぁ有難ぇこった。ではさっそく、乙姫様のところに連れていってくれ」
「そうしたいのはやまやまなのですが、あいにく乙姫様は血の道の病で
「ふーん。ここにゃぁ、何か
「はい。地上では食すことができない珍味や美酒の数々に、世にも美しい踊り手たちの舞い踊り、それらにお飽きになれたら、城下の街をそぞろ歩かれるのもよろしいかと。あなた様のお世話は、
<ケッ! こりゃぁ危ねぇ。そうやって、仕舞いにゃ妙な箱をよこすんだろ。蓋を開けると中から白い煙がパッと出て、俺はたちまち
「ところでお亀さん。俺がオメエさんの子供を助けたことを、どうして知っているんだい?」
「はい。実は、一部始終を波間から見ておりました。あなた様が我が子・
「なーるほど」
<壁に耳あり、障子に目ありたぁ、このことだ>
「それで、浦島様。一つお伺いしたいことがございます」
「何だい?」
「その後、浦島様はどこで鍋太郎を放して下さったのでしょうか? と申しますのは、鍋太郎がまだ戻ってこないのでございます」
<ぷ! そりゃぁ、戻って来るわけねぇよ。鍋太郎とやらは、とっくの昔に俺の腹を通って、今は
そんな言葉が喉まで出かかったが、何とか堪(こら)えた。
「滝ノ江の浜の、鍋太郎を助けた場所があるだろ? あそこの西にある磯だよ。岩の上から、海に投げてやった」
太郎は、鍋太郎の甲羅や臓物を投げ捨てたのとは、反対の方向にある場所を言った。
「そうでございますか。まだ幼いゆえ、どこかで迷っておるのかもしれません。では、
お亀は、部屋から出ていった。
<こりゃ、厄介なことになってきたぞ。万一、俺が鍋太郎の甲羅や
太郎は、廊下の様子を窺った。
廊下に誰もいないことを確かめて、縁側の外の
あたりは真っ暗だ。
しばらく進むと塀に行き当たったので、塀に沿って下って行った。
いつの間にか、人家が密集する街に出た。外敵がいないためか、竜宮城の警備はないに等しい。
街の家々には、灯が点っていている。夕餉の支度をしているのか、屋根の煙抜きから
当てもなく街の小路を歩いていると、ある家の前庭で、老婆が椅子に腰かけ何やらぼんやりしているのが見えた。
前を通り過ぎようとすると、
「もし」
と、声をかけられた。
「オメエ様、もしかして、浦島様でないかぇ?」
太郎は立ち止まった。
「俺の名前を知っているのか?」
そばの
「知らないでか」
<この婆ぁ、何奴だ?>
「
そう言いながら、一人の少女が家から出てきた。しかし、太郎の姿を見ると、慌ててお婆の後ろに身を隠した。
「へへへ。案ずるな。このお人はな、お前の命の恩人じゃぞ」
<命の恩人? はて。俺はこんな小娘を助けた覚えはないがな>
太郎が不審そうな顔をしていると、お婆が話し始めた。
「オメエ様は覚えていなさらんかもしれねぇが、ひと月くれえ前、磯で女房殿と鱓を獲っていたろ? その時、女房殿が子どもの鱓を捕まえた。しかしオメエ様は、そんな小さな鱓は売り物にならねぇし、食べたって一口分にしかならねぇから放してやれと言ったろ? その子鱓が、ここにいる
そう言われても、太郎には覚えがなかった。
「それよりオメエ様、お城から逃げて来なすったな? 見つかると面倒だから、ウチに入んなせぇ」
お婆に促されて、太郎は家の中に入った。
家は
「さ、こっちへ」
太郎は板敷の真ん中にある囲炉裏端に案内された。お婆は、囲炉裏の脇に置いてあった土瓶から湯飲みに茶を注ぎ、太郎の前に置いた。
「
「そうだ。宇津美の両親は二人とも、人間に捕まって帰って来ねぇ。だから、
宇津美が婆の隣にきて、ちょこなんと座った。お婆はその頭を愛おしそうに撫でている。
「わしらと人間は
「どういうことだ? 教えてくれ」
「わしは昔、竜宮城本丸の奥女中をしておった。だから、今奥女中勤めをしている者たちから、話を聞くことがある。それによればじゃ、オメエ様が助けたという鍋太郎の甲羅が見つかったそうじゃ。乙姫様のご命令で、下手人探しが始まったのじゃ」
「それで、下手人は見つかったのか?」
何食わぬ顔で、太郎が尋ねた。
「うんにゃ。まだ分からねぇそうだ。ただ、オメエ様にも疑いが掛けられていることは確かなようじゃ。蛇の探索
「蛇の探索方だと? 何だそれは」
「乙姫様配下の海蛇と、陸に住む蛇とは、探索について
「いったい何のために?」
「知れたことよのぅ。オメエ様が鍋太郎を食ったか否か、実地検分するためじゃよ」
<何を
「俺は食っていないが、仮に食ったとしよう。しかし、たかが蛇如きが糞壺の糞を調べて、それが分かるとでもいうのか? そんなことは、金輪際あるめぇ」
「どっこい、それがあるんじゃよ。
<婆ぁの言うことは、ひょっとして、本当かもしれん。だったら、ぼやぼやしておれんぞ>
「お婆、頼むから、元の浜に戻る方法を教えてくれ! このままじゃ、俺はとっ捕まるかもしれねぇ」
「さては、身に覚えがあるな?」
太郎は小さくうなずいた。
すると、蝋燭の明りに照らされた鱓お婆の金壺眼が、ギラリと光った。
「浜に戻る方法はただ一つじゃ。来た時と同様、海亀に運んでもらうほかない。ここは、海の底じゃからな」
「海の底だと? それで、あんたたちの主、乙姫様とはいったいどんな人だ?
「それは……、いや、聞かない方がいい。いずれ身をもって知ることじゃ」
「お婆、俺をここに
「恩人じゃと? ハハハハ、嘘じゃよ」
「人間って、思いのほか間抜けなものなんだね。鱓お婆様」
隣にいる宇津美までが、蔑むような眼で太郎を見ている。
その時、家の外がにわかに騒がしくなった。
「お迎えが来たようじゃな」
「婆ぁ、
「言っとくが、この家に裏口はないぞ。逃げようとしても無駄じゃ」
鱓お婆は、耳まで裂けた大きな口の両端を、グィと上げた。すると、宇津美も相似形の笑みを浮かべた。
《続く》
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