🐤 舌切り雀(5)雀は飛んでいく

「馬賊の娘だって? ははは。冗談だよね」

「いえ、冗談なんかじゃありません!」

 一茂の双眸そうぼうを行き来する雀子の視線には、何やら強い力が込められていた。

「いったい、どういうことなの? 話してごらん」

 雀子が語ったのは、概略次のようなことだった。


 私は、満州(中国東北部)に割拠する馬賊(馬に乗って出没した盗賊団)のひとつ、「青竜団せいりゅうだん」の頭目の一人娘なのです。父の名はリン義則ギソク、私の中国名は林雀麗ジャクレイです。

 ご存じのとおり、日露戦争に勝った日本は、南満州鉄道(満鉄)を主軸として満州に根を張るようになりました。満鉄とそれに関連する権益を守るために満州に置かれた軍隊が、関東軍かんとうぐんですね。

 関東軍傘下のいわゆる「特務機関」(戦時・事変において諜報・防諜・謀略などの特殊任務を遂行する機関)のひとつに、「オー機関」がありました。

 O機関は、満州馬賊の中では中規模であった青竜団の抱き込みを図り、父に接近しました。そして、一人娘である私に目を付けたのです。関東軍に協力すれば、新式武器の供与などの便宜を図るだけでなく、私を日本の然るべき家庭で預かり、行儀見習いや高等教育を受けさせると持ち掛けました。

 父はこれを受け入れ、私はたった一人で日本に渡りました。私がまだ4歳のことです。そして私はある財閥一族の家庭に預けられ、日本式の教育を受けました。私が日本人とほとんど変わらない言葉遣いや振る舞いができるのは、そのためです。

 女子専門学校を卒業した私は、財閥傘下の銀行に勤めました。私は日本での生活に満ち足りたものを感じ、自分はほとんど日本人だと思うまでになっていました。

 ところが、関東軍が満州事変を引き起こすと、状況が変わってしまいました。中国のいたるところで、反日機運が高まりました。

 父はすでにこの世にはなく、青竜団の頭目は、兄の林義竜ギリュウが継いでいました。兄は青竜団の方針を180度転換し、抗日運動に加わるようになったのです。

 兄は私に、すぐ帰国するよう命じました。しかし、私は拒否しました。すっかり日本の都会暮らしに慣れ、今さら砂塵が渦巻くような場所には戻りたくありませんでした。

 すると兄は烈火のごとく怒りました。私に売国奴の烙印を押し、さらに、私を亡き者にしようと、密かに刺客を送ってきたのです。

 兄の知人と称する人から、兄からの手紙を預かっているからと、八幡神社に呼び出されました。私は、神社近くのアパートに住んでいました。

 指定された午後10時に神社の前に行ってみると、そこに一人の女がいて、私に話しかけてきました。

「あなた、雀麗さんか? お兄さん、とても心配してるよ。手紙預かってきたから、よく読みなさい」

 女は、私に手紙を渡す振りをしながら、ナイフのような凶器を私に向けて突き出しました。しかし私は、すんでのところで女の攻撃をかわしました。

 実は、私には武術の心得があるのです。O機関の長だった大竹おおたけ大尉さんが退役とともに帰国し、東京にある特殊機関の長となりました。この機関も、非公式ですが、陸軍の傘下にあります。大竹さんは、私の父代わりになってくれて、武術も仕込んでくれたのです。

 女と揉み合っているうちに、私は神社の石段を転げ落ちました。足を痛めて動けなくなっていると、上から女が降りて来て私に迫りました。

 ちょうどその時、車で通りかかった所長さんが、来て下さったのです。女は、姿を消しました。

 

「うーん。そんなことがあったとは……」

「黙っていて、すみません。いつかお話ししなければと思っていたのですが、話せば所長さんのお屋敷から出ていかなくてはならなくなると思って、なかなか言い出せませんでした。それに、所長さんとの生活が楽しくなってしまい、一日でも長く続けたくなりました。どうか、お許し下さい」

「いや。気にしないでいいよ。君は日中の狭間はざまで、苦労してきたんだね」

「ありがとうございます……」

 雀子の目から、再び涙が頬を伝った。

「ところで、今の話で、大竹大尉という人が出てきたね。このお店の店長も、大竹と名乗っていた。何か、関連があるのかな?」

「はい。同じ人です。実をいうと、この『サロン 雀のお宿』は、さっき申し上げた特殊機関なのです。私が奥様から暴力を受けて所長さんのお屋敷を飛び出したあと、大竹さんを頼って、ここに来ました。大竹さんは私を病院に連れていってくれたり、ここで働けるよう取り計らってくれたのです」

「なるほど。だが、ここのことを僕に話すとまずいんじゃないか? 陸軍の秘密組織なんだろう?」

「いえ、大丈夫です。私、所長さんを心から信頼してますから」

「もちろん、秘密は守るよ」

「それで、大竹さんは私に、日本にいてはまたいつ刺客に狙われるか分からないから、上海シャンハイに逃げた方がいいとおっしゃっています」

「え? 中国に戻ったら、かえって危ないんじゃないか?」

「大竹さんは、上海で事業を営む富豪にがあり、その人にかくまってもらうよう話をつけてくれるとおっしゃっています。上海なら、満州にいる兄も手出しできないのだそうです」

「そうなのか? しかし、上海といえば昨年、日中の武力衝突が起きたね。排日運動が激しくなっていると聞くよ。失礼な言い方かもしれないが、半分日本人のような君が行って、大丈夫かね?」

「その実業家は、日本に協力的な人だそうです。それで……、あの……、先生にひとつ、お願いがあるのですが」

「何だね? 僕が出来ることなら、何でもするよ」

 一茂はそう言ったものの、雀子の願いを聞いて驚嘆せざるを得なかった。

「先生! 私と一緒に、上海に行って下さい。雀子、一生のお願いです!」

「何だって! それはどういうこと? 君を上海に送り届けるということ?」

「いえ、そうではありません。上海にお住まいになって、私をお傍に置いて下さい!」

「な、なんだって! 上海に住むだって⁈ そんなこと、出来るわけないだろう。だって、僕には妻がいるんだよ。それに、研究所所長としての責任もある。君には悪いが、無理だよ」

「あの。大竹さんが言うには、上海の実業家は通信機器の製造会社を経営していて、大きな工場も持っているそうなんです。先生には、その会社の上席顧問の席を用意しているそうなんです。報酬は、現在の2倍、それも、先生の言い値で出すそうです」

「だがね……。カネの問題じゃないんだ。そんなことしたら、日本を裏切ることになる。それが耐えられないんだよ。僕は、大日本帝国の臣民だよ」

 その時、出入り口ドアとは別のドアがノックされ、大竹が入って来た。

「失礼ながら、隣の部屋で、お二人のやり取りを聴かせていただきました。盗み聞きのようなことをして、お詫びいたします」

「いや、ちょうどいい。雀子さんが、僕に無理なことを頼んで来るんで、困っているんですよ。この話は無理だ。あなたからも、言ってやって下さい」

 大竹は、一茂の訴えに理解を示すかのように、日に焼けた顔をかすかに上下させた。

「先生が驚かれれ、戸惑われるのは当然です。ですが、この裏には、これからお話しする事情があるんです」

「え⁈ すると、あなたも雀子さんの仲間なのですか?」

「まあ、お聴き下さい。ご存じのとおり、現在日中関係は急激に悪化しています。このままいくと、戦争に発展するかもしれません。それは、両国にとって絶対避けねばならないことです。幸い、上海の有力者の中には、我々に協力的な人たちもいます。雀子が言った実業家もその一人です。劉兆名リュウチョウメイという人物です。通信機器製造の工場を持っているのですが、日本に比べれば技術水準はまだまだ低い。そこで、我々は劉に、技術指導をする代わりに、日本に協力するよう持ち掛けました。劉は承諾しました。これは、中国の民族資本育成にも資することなのです。もし、先生が了承されるなら、雀子は先生の秘書として同道させます。二人で住める立派な屋敷も用意させます。屋敷では、雀子は先生の身の回りのお世話をすることになります。いかがですか、先生」

「あなたまで、そんなことを……。第一、今の職を放り投げるなんて、そんな無責任なこと、出来ませんよ」

「この話は内々、陸軍技術本部の佐久間さくま中将のご了解を得ています。研究所については、心配ありません」

「何ですって⁈ 佐久間中将もご存じなんですか? 申し訳ないが、にわかには信じがたいですな」

「当然です。これをご覧下さい」

 大竹は、タキシードの内ポケットから封筒を取り出した。中にあった1通の書類を広げて、一茂に手渡した。

 朱色のインクで押された「軍機密」という文字が、まず目に飛び込んできた。一茂は、そこに書かれた文面に忙しく目を走らせた。

《軍機密 逓信省技術研究所所長、上海派遣の件  今般、上海方面における現地住民慰撫及び帝国に対する親和的勢力扶育の為、逓信省技術研究所所長・山之内一茂を上海に派遣することとす――》

 文末に、佐久間中将の署名と花押があった。

「うーん」

 一茂はしばらく、文書を繰り返し読むばかりで、言葉を発することができなかった。


《続く》

 



 

 

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