大人のための日本昔話

🐤 舌切り雀（４）雀の告白

　雀子が勤める「サロン 雀のお宿」は、銀座の裏通りにあるビルの3階にあった。

　階段を登っていく一茂は、自分の心拍が高鳴るのを感じた。むろん、階段を登っているためだけではない。

　先日、雀子と銀座で邂逅（かいこう）した後、「雀のお宿」を訪れる機会はなかなか巡ってこなかった。

　真面目一方の一茂には、退社後繁華街に立ち寄ったり、夜の巷（ちまた）を飲み歩く習慣はなかった。午後5時の定時に退社すると真っすぐ帰宅して、豊子と二人で夕食をとるのが日課だった。

　だから、いつもの帰宅時刻を大幅に過ぎる場合は、それなりの理由が必要だったのだ。それも、豊子に不信感を抱かれる恐れのない、ごく自然な理由が。

　今夜は、研究所と取り引きのある通信機器製造会社「菱井電機（ひしいでんき）」の重役から招かれて、銀座の料亭で接待を受けるということにした。実際には、そのような予定はない。

　研究所から銀座までは所長車に乗った。

「寄りたい店があるから、四丁目の交差点の近くで停めてくれ」

「かしこまりました」

「それとね。僕を降ろしたら、君はそのまま帰宅してくれたまえ。二次会に誘われるかもしれないから。帰りは、先方が車を用意してくれるはずだ」

「そうでございますか。では、お言葉に甘えまして、帰宅させていただきます。それにしても、酒席がお嫌いな所長さんにしては、珍しいですね。新橋芸者か何かが大勢来て、パーッと派手にやるんでございましょう？　二次会は、お色気があるカフェーかな？　いやー、所長さんが羨ましいですよ」

　当時の「カフェー」にはいくつかの業態があり、中にはお色気サービスを売り物にする店もあった。しかし「サロン 雀のお宿」は、酒や料理を提供し女性が接待するもので、現代のキャバクラに近い。ホステスは「女給（じょきゅう）」と呼ばれた。

「いやいや。そんなんじゃないよ。菱井電機の担当重役と、差しでじっくり話すんだ。それに、こんなご時世だ。芸者なんて、とんでもないさ」

「そうでございますか。だんだん世の中が暗くなってまいりましたね」

「あ、そうだ。言うまでもない事だが、今夜の会合については、くれぐれも他言無用だよ」

「承知しております。不肖・稲山米夫（よねお）、安全運転と口が堅いことだけが取り柄でございまして。光栄にも所長車を任されております理由も、それでございます——」

　稲山は確かに口は堅い。しかし、ちょっとそそっかしいところがあって、豊子に上手く聞き出されると、何を話すか知れたものではない。

　もっとも、今夜の「会合」については、あらかじめ一茂から豊子に話してある。しかも、二次会で帰りが遅くなるかもしれないから、先に寝ているようにとも付け加えた。

　銀座四丁目の交差点近くで所長車を降り、いったん時計店に入った。所長車が走り去るのを確認してから、名刺に記載された住所を頼りに、「雀のお宿」に向かったのだ。

　3階に到着した。重厚な木の扉があり、その横に《サロン 雀のお宿》と書かれた銘板が掲げられている。扉の横には、黒服の男が立っている。

　一茂は、カフェーがどのようなものかおおよそは知っていたが、実際に訪れるのは初めてだった。もっとも、だからといって入店を臆する歳でもなかった。

「いらっしゃいませ」

　一茂が扉に近付くと、黒色のタキシードに黒色の蝶ネクタイといういでたちの男が、恭しくお辞儀をして扉を開けてくれた。

　入店すると、初老の男の出迎えを受けた。こちらも表の男と同じ服装である。側頭部は短く刈り込まれ、頭頂部は七三に分けた胡麻塩頭だ。背は低いが肩幅が広く、ガッシリとした体格で、刈り揃えた白い口髭（くちひげ）や鬚（あごひげ）が、何やら風格さえ漂わせている。

「いらっしゃいませ。失礼でございますが、山之内様でいらっしゃいますか？」

「はい。山之内です」

「お待ちしておりました！　本日はご来店、誠にありがとうございます。では、ご案内いたします」

　男に先導されて、一茂は店の奥に進んだ。

　店には、およそ10卓ほどの円卓が配置され、客の入りは半分くらいだった。それぞれ、男の客と女給が歓談していて、辺りには煙草の煙がたなびいている。

　一茂は、奥にある個室に通された。

「私、当店の店長をしております、大竹（おおたけ）と申します。今後とも、お見知りおき願います。今、雀子ちゃんがまいりますので、しばらくお待ちください」

　そう言い残して、大竹は部屋を出ていった。一茂が雀子を指名したわけではないが、大竹は事情を呑み込んでいるらしい。

　5分くらいの後、部屋のドアがノックされ、女性が入って来た。

　一茂は、一瞬それが誰だか分からなかった。

「先生！　いらして下さったのですね！」

　そう言いながら女性は、一茂の首に腕を回して抱き着いてきた。その声は紛れもなく雀子のものだ。

　朱色を基調とした振袖に、上半身まである白色のエプロンを付けている。髪は短髪だが、緩やかにパーマをかけているようだ。

　一茂を一番驚かせたのは雀子の顔貌だ。一茂の家にいた頃はほとんど化粧をしていなかったが、それで十分に美しかった。今は職業柄か、厚めの化粧をしている。

　化粧が濃すぎると一茂は思った。素顔のままの方がはるかに美しい。それに、つけている香水の香りも強すぎる。

「来るのが遅くなって、済まなかった。このところ、いろいろと忙しかったものでね」

「遅いなんて、そんなことはありませんわ。雀子、本当に嬉しいです……」

　雀子は、少し涙ぐんでいるようだ。

　二人は、小さな円卓を挟んで座った。ドアをノックして、ボーイが注文を取りに来た。

「お客様、何をお飲みになりますか？」

「そうだねぇ。葡萄酒は置いているのかね？」

　一茂はボーイに尋ねた。

「ありますよ、先生」

　ボーイではなく、雀子が答えた。

「先生は、葡萄酒がお好きですよね。普段は置いていないのですが、先生がいらっしゃるので、仕入れておきました」

「ほう。それは有難いね。どんな葡萄酒？」

「はい。シャトー・マルゴーの1921年ものです」

「え！　あの時と同じもの⁈」

「はい、そうです。せっかく先生にお越しいただくのですから、店長に頼んで、仕入れてもらいましたのよ」

「それは、何よりの心遣いだよ。いやー、嬉しいな」

　雀子が一茂の家に来たばかりのころ、一緒にその葡萄酒を飲んだことで、一茂と雀子の距離が一気に縮まったのを、一茂は思い出した。

「デカンタシオンは、先生にお願いできます？　このお店には、先生ほど葡萄酒に詳しい人がいないんですもの」

「もちろんだ。喜んでやらせてもらうよ」

　一茂の脳裏に、雀子と暮らした心弾む楽しい日々が蘇った。

　その晩、一茂が帰宅したのは、午前1時頃だった。「雀のお宿」で呼んでもらったタクシーで帰った。

　「雀のお宿」で一茂は、雀子を相手に飲食し、歓談するだけだった。しかし、それで十分楽しかった。そういう時、時間はあっという間に過ぎるものだ。一茂はもっと雀子と店にいたかったが、豊子の手前、そうもいかなかった。

　一茂は、その後も定期的に「雀のお宿」を訪れた。最初は月に2回ほどだったが、だんだん頻度が増し、毎週になっていった。店長の大竹が気を利かせているのか、いつも奥の「特別室」と呼ばれる個室を使わせてくれた。

　店に行くときは、その都度もっともらしい理由を付けていたから、豊子にバレることはなかった。ただ、時々ではあるが、豊子には何もかも見通されているのではないかという漠然とした不安が、脳裏をかすめた。舌先の件以来、一茂は豊子の中に、何か得体のしれない不気味さを感じていた。

　一方、雀子と逢うための費用は馬鹿にならなかった。

　雀子のような女給の主な収入源は、客から貰うチップだった。店にはいちおうチップの標準的な額が掲げてあったが、厳密なものではなかった。一茂は、雀子のためと思って、そうとう上乗せして支払ってやった。

　そのほかに、飲食費用があった。特に、高級な葡萄酒やシャンパンは高価だった。これについても、雀子を喜ばせるために、出し惜しみしない一茂であった。

　もっとも、最初の日だけは、一茂が来てくれたお礼ということで、飲食費は雀子が持ってくれた。一茂は、それ相応の上乗をしたチップを雀子に渡した。

　家計の管理はもっぱら一茂が行っていて、毎月一定額を生活費として豊子に渡していたから、すぐに遊興費に困るというわけではなかった。

　ある雨の夜、「雀のお宿」の特別室で、雀子と葡萄酒を飲んでいた時だ。

「私、先生にお詫びしなければなりません」

「え？　何だい？」

「実は私、記憶喪失なんかじゃありません」

「そうなの？　良かったじゃないか、記憶が戻って」

　雀子と再会した後、一茂は、雀子の記憶喪失の状態、そして初めて出会った夜や山之内邸から出奔したあとの経緯について、いっさい尋ねなかった。訊（き）けば、雀子の心の傷に塩を擦り込むようなことになるかもしれないと思ったからだ。

「いえ、そうではないんです。私、八幡神社の階段下で、初めて先生にお目に掛かった時から、記憶喪失ではなかったんです。ずっと先生に嘘をついてきました。ごめんなさい」

　うつむいた雀子の目から、涙が滴り落ちた。

「まあ落ち着きなさい。この歳（とし）になるとね、ちょっとやそっとの事じゃぁ驚かなくなるんだよ。ゆっくりでいいから、どういう事なのか話してごらん。さあ、葡萄酒を飲んで」

　一茂はデカンタを取り上げ、雀子のグラスに葡萄酒を注いでやった。

「ありがとうございます。実は……、私……、馬賊（ばぞく）の娘なんです」

「え⁈　今なんて言ったの？」

「私、日本人ではありません。馬賊の娘です」

　雀子の言葉は、一茂の意表を衝いた。

《続く》