大人のための日本昔話

🐤 舌切り雀（３）雀の舌

「はい？　申し訳ありません。自分がどこの誰なのか、まだ思い出せないん……」

「そんな見え透いた嘘じゃ、あたしの目はごまかせないよ！」

　雀子の言葉を遮るように、豊子が声を荒げた。その目は、今まさに小鳥を襲おうとする猛禽の眼差しだった。

「嘘はついてません。私、何か奥様のお気に障るようなことをしましたか？　もしそうなら、遠慮なくおっしゃって下さい」

　不思議なことに、雀子は豊子の剣幕に気後れする風もなく、淡々と応答している。

「お前、雀子なんて可愛らしい名前を名乗っているが、実はとんだ泥棒猫だね」

「何のことか、分かりません」

「じゃあ、ハッキリ言ってやろう。お前、色仕掛けで夫を誑（たら）し込んだだろう？」

「それは誤解です。先生が腰痛で困っておられるので、時々按摩をして差し上げているだけ……」

　その瞬間、豊子の右の掌が、相撲の張り手さながらの勢いで、雀子の左頬に飛んだ。

　衝撃で、雀子は右側を下にして倒れ込んでしまった。すぐに上半身を起こしたが、口から血が出ている。左手の掌で口を押さえたが、指の間から血が流れてくる。

「さあ、白状しろ。お前、夫と乳繰り合ったんだろ？」

　口の周りを血だらけにした雀子は、咳き込みながら血を吐き出した。

「これ、雀子！　床を血で汚すんじゃないよ。おやー？」

　雀子が床の上に吐き出した血の中に、何か肉片のようなものがある。長さ1cm、幅2cmくらいで、赤い色をしている。

　豊子はしゃがんで、その肉片を摘まみ上げた。

「これ、お前の舌の先じゃないかぃ？」

　肉片を雀子の顔の前に突き出した。

「これじゃぁまるで、お伽話の舌切り雀だねぇ。するとあたしは、意地悪で強欲な婆さんということかぃ？　でも、あたしはそんな意地悪じゃないよ。今、お医者を呼んでやるからね」

　次の瞬間、突然雀子が立ち上がり、両手で豊子を突き飛ばした。そして、玄関に向かって走った。

　豊子は床の上に転がったまま、言葉だけで雀子を追いかけた。

「逃げても無駄だよ！　早くお医者に診せないと、お前、死んじゃうよー」

　玄関の戸が開く音がした。雀子は、冷たい雨の中に飛び出していったらしい。

　それっきり、雀子は戻ってこなかった。

　午後6時ごろ帰宅した一茂が、食堂に入って来た。

「いやー、今日は疲れた。陸軍のお偉方は、頭が固くて困る。あれ？　雀子さんは？」

「朝、出ていきましたよ」

「何だって⁉　何かあったのか？」

「大したことじゃありませんよ——」

　豊子は、朝起きた出来事のあらましを一茂に説明した。ただし、舌の件は言わなかった。

「何てことしてくれたんだ、お前という奴は！」

「あら？　あなた、私にそんなことがおっしゃれるんですか？」

「ど、どういうことだ？」

　一茂の顔に、微かな狼狽の色が浮かんだ。

「証拠物件を取っておきましたよ。ご覧になりますか？」

「何だ、そりゃ」

　一茂の表情が強張（こわば）った。

　豊子は、戸棚から湯飲み茶碗を取り出してきて、食卓の上に置いた。

　茶碗には水らしき液体が入っていて、肉片が一つ沈んでいる。

「これは？」

「あの泥棒猫が床に吐き出した血の中にあった物ですよ。いったいこれは、何でしょうね」

　一茂は茶碗を取り上げ、顔に近付けて観察した。

「これは……、舌の先じゃないか！　お前、雀子さんに怪我させたのか！」

「ちょっとお仕置きしてやりました」

「傷害は犯罪だ。唯じゃすまないぞ」

「なら、どうなさいます？　警察に通報なさいますか？　そうしたら、私、知っていることを何もかも包み隠さず、警察に言いますよ。それでも、よろしいかしら？」

「そ、それは……」

「ほーら、言われたら困ることが、おありなんでしょ？　だったら、このままにしておきましょう。その方が、あなたのためですよ」

「く……」

　一茂は、言葉が返せなかった。豊子を下手に刺激すると、藪蛇になりそうだ。

　しかし、彼は諦めなかった。

「もしもし、稲山さんのお宅ですか？　所長の山之内です……。はい……。いえ、こちらこそお世話になっております。ご主人、お帰りですか？」

　所長車の運転士・稲山は、山之内邸から車で20分くらいの場所に住んでいた。

「あ、稲山君か。寛いでいるところ、誠に申し訳ないんだがね、今すぐ車でウチに来てくれないか……。え？　酒飲んじゃったの？　どれくらい？」

　一茂は、いつになく急き込んでいる。

「お銚子3本？　それだけ……？　構わん構わん。君は研究所の酒豪番付で、東の正横綱じゃないか。お銚子3本なんぞ、お茶みたいなものだろう。事情はこっちに来てから話すから、とにかく急いで来てくれ」

　電話のやり取りを聴いていた豊子が、呆れ顔で一茂に話しかけた。

「泥棒猫が逃げたのは、今朝ですよ。今ごろこの辺りをほっつき歩いているわけはありませんよ。無駄なことは、およしになったらいかがです？」

「いや、分からないぞ。お前が怖くて戻れず、私の帰りを待っているのかもしれない。第一、舌を切るという大怪我をしているんだ。早く医者に診せないと大変なことになる」

「そうですか。では、お気の済むようになさいませ」

　一茂を乗せた所長車は、冷たい雨が降りしきる夜道を走っていた。

「きっと、まだ家の近くにいると思うんだ。路地裏も含めて、くまなく回ってくれ」

「承知いたしました。それにしても、あの娘、いったい何考えてるんですかねぇ。所長さんには大恩があるはずなのに、なんで家出なんかしたのか」

　稲山には、詳しい事情は話していない。

「ひょっとして、奥様と何かあったんじゃないですかね」

「どうも、家内と口喧嘩をしたらしい」

　一茂は、道の両側に忙しく視線を送りながら雀子を探した。しかし、外は暗いうえに、あいにくの雨だ。車窓からの視界はすこぶる悪い。

「こんなこと言っては何ですが、奥様があの子に焼き餅を焼いたんじゃないですかね。あの子、若いのに色気があって、いい女でしたからね。なのに澄ましたところがなくて、愛嬌がある。いやー、女の嫉妬心というものは、実に恐ろしいもんですよ。私もですねぇ、若い時に痛い目に遭ったことがありましてね——」

「稲山君。おしゃべりはいいから、よく周りを見ながら走らせてくれよ」

「はい！　承知いたしました」

　しかし、必死の捜索は、徒労に終わった。

　深夜3時ごろ一茂が家に戻ると、豊子はまだ食堂にいた。

「私が申し上げたとおりでしたでしょ？」

「ああ」

　一茂は、疲労が滲んだ声で答えた。

「ん？　あの茶碗どうした？　あの肉片は？」

「汚（けが）れた舌の先は、私が処分しました」

「どう処分した？」

「ちゃんと処理しましたから、ご安心下さい」

「いや。具体的にどうしたのか、言いなさい」

「あの舌先は……、私が飲み下しました」

「え！　何だって？　飲み込んだだと！　お前、正気か⁈」

　一茂は、背筋に寒気が走るのを感じた。

「ほほほほ。嘘に決まっているじゃありませんか。あんな汚らわしい物、誰が食べますか。この辺りを縄張りにしている三毛の野良猫がいますね。あのドラに放り投げてやったら、嬉しそうに咥えていきましたよ」

「悪い嘘をつくもんじゃない。しかし、猫にやるのも感心しないぞ。ごく小さいとはいえ、人体の一部なんだから」

「いえ。いいんですよ。泥棒猫の舌なんですから、同族に食われりゃ文句ないでしょ」

「だがねぇ……」

　豊子の異様な行動に、一茂は強い違和感を覚えた。

　翌日から、何事もなかったかのように、毎日が過ぎていった。

　しかし、勤めを終えて家路につく一茂の心は晴れなかった。帰宅しても、あの、若くて美しい雀子の姿を愛（め）でたり、旨い手料理を味わったり、楽しくおしゃべりしたりすることは、もう叶わないのだ。それに、豊子の目を盗んでのスリリングなアバンチュールも。

　それに加えて、雀子に暴力を振るった上に、舌の一部を野良猫に食べさせるという「蛮行」を働いた豊子に対する嫌悪感は、そう簡単にはなくならなかった。

　約半年が経過して、初夏が巡ってきた。

　ある日曜日、一茂は豊子と銀座に出掛けた。レストランで昼食をとった後、落ち合う場所と時刻を決めて、いったん別れた。

　一茂は時計店に入って、腕時計を見て回った。ちょうど、大通りに面した大きなガラス窓の前に置かれたショーケースを見ていた時だ。

　ふと顔を上げて、大通りを行き交う人々に、何となく視線を移した。すると、ガラス窓のすぐ前を通り過ぎる女性の姿が、目に飛び込んできた。一茂は、それが雀子であると直感した。初夏にふさわしい、軽快な若葉色のワンピースに身を包んでいる。

　ただちに店を出ると、その女性の後を追いかけた。

　快適な季節で、しかも晴天の日曜日とあって、銀座は人で溢れていた。一茂は人混みをかき分けるようにして、追いかけた。いったん見失ったが、再び見つけて近付いていった。

「もし！　雀子さんじゃありませんか？」

　声が聞こえたのか、女性の足が止まった。

「一茂です！　山之内一茂」

　振り返ったのは、紛れもなく雀子だった。

「先生！」

　そう叫ぶと、雀子は一茂に駆け寄った。

「私……、私……」

　雀子は感極まって、自分の思いを言葉にするのももどかしいのか、いきなり一茂に抱き付いてきた。

「あーん」

　そして、辺りを憚ることなく泣き出した。その大きな声に、行き交う人々が、何事が起きたのかと振り返った。

「よしよし。大変だったね、辛かったね」

　一茂は、雀子の背中を優しく撫で擦ってやった。

「ごめんよ。恐ろしい目に遭わせてしまって」

　一方で一茂は、このような衆人環視の中で雀子といてはマズいと思った。

「ここでは目立つから、道の端に行こう」

　そう言って、歩道の端、ビルの壁面の前に雀子を導いた。

「今日は、先生お一人ですか？」

　泣き腫らした目で一茂を見つめながら、雀子が尋ねた。

「いや。豊子と一緒だ。時間を決めて、別行動しているところなんだ。竹屋百貨店に行くと言ってた」

　豊子という名を聞いた途端、雀子は怯えた顔になった。

「約束の時刻にはまだ20分くらいあるが、ここは目立つから、豊子に見られる可能性はゼロじゃない。ゆっくり話がしたいところだけど、残念ながら今日はそうもいかないな」

「そうなんですか」

　雀子は、落胆の色を隠そうともしない。

　舌先を失ったためだろうか、雀子の発音には、どこか以前とは違った点が感じられる。しかし、会話の妨げになるほどではないようだ。

「それでは、これを」

　雀子は、茶色の革製（かわせい）ハンドバックから名刺を取り出して、一茂に手渡した。

「私、ここに勤めています」

　四隅が丸い小振りの名刺で、《サロン 雀のお宿　すずめこ》と書いてある。

「よかったら、いらして下さい。住所と電話番号は、そこに書いてあるとおりです。私が出勤するかどうか、あらかじめお店に問い合わせていただくと、確実だと思います」

「あー、そうなの。ここに勤めてるんだ。この近くだね。必ず行くよ」

「まぁ、嬉しい！」

「じゃあ、名残惜しいけど、ここで別れよう。あいつに見られたら大変だからね」

「はい。私、先生を信じています。また先生にお会いできると思ったら、生きる希望が湧いてきました。きっと、いらして下さいね」

「もちろんだ。出来るだけ早く行くからね」

　雀子は何回か振り返りつつ、人混みの中に消えていった。

《続く》