大人のための日本昔話

🐤 舌切り雀（２）雀の誘惑

　午後10時ごろに帰宅し、入浴などを済ませて居間に来た豊子に、一茂は雀子の件について切り出した。

　一茂の予想は的中した。話を聞いた豊子は、あからさまに渋い顔になったのだ。

「あなた、しっかりして下さいよ。あの子、どこの馬の骨やら分からないじゃありませんか。そんな人を家に置くなんて、あなたらしくもないですよ」

「ずっと、というわけじゃない。雀子さんの記憶が戻って自宅に帰るか、あるいは、警察の調査で身元が判明して然るべき処置が行われるか、そのどちらかまでの間だよ」

「どちらにせよ、いつになるか分かりゃしませんよ」

「彼女の料理の腕は大したものだ。葡萄酒の知識も豊富だ。きっと、しっかりした家庭のお嬢さんだと思う。言葉遣いや、立ち居振る舞いからも、それはハッキリ分かる」

「あら、ずいぶんあの子がお気に召したようですね。でも、一日やそこら一緒にいたくらいで、人の本性が分かるものですの？　素性がはっきりしない人をこの家に住まわせるのは、感心できませんわ。申し訳ありませんが、私、賛成しかねます。明日、警察に引き取ってもらいましょうよ、あなた」

　もともと豊子はハッキリものを言う質（たち）だが、今は特にそうだ。

「俺だって、伊達（だて）に歳は取ってないよ。一日一緒にいれば、おおよその人となりは分かる。雀子さんは、素直な、気立ての良いお嬢さんだ。間違いない」

「はたして、それだけですの？」

「何が言いたいんだ？」

「あの子、人が振り向くほどの美人で、しかも、可愛いくて愛嬌がありますわ。スタイルもいいし、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいますしねぇ」

「そりゃ、どういう意味だ？　俺が、あの子の色香に迷ったとでも言いたいのか？」

　いつも穏やかに話す一茂だが、少し気色ばんでいる。

「あれあれ、そんなにむきになって。図星でしたかねぇ」

「おい、豊子。年甲斐もなく焼き餅か？　俺には、妙な下心などない。それは誓ってもいい」

「焼き餅なんて、見当外れですわ。そうではなくて――」

　話はしばらく平行線をたどった。

　普段、豊子とやり合うのが煩わしく、適当なところで妥協する一茂だった。しかし、今回は違った。雀子を家で預かると言い張って、一歩も引き下がらなかった。

　根負けした豊子は、渋々雀子の滞在を認めた。ただし、雀子の身元が判明するまでという条件付きだ。

　結局、雀子を住み込みの家政婦とし、報酬も支払うことにした。

　翌朝出勤前、一茂はそのことを雀子に話した。

「本当によろしいんですか⁈　先生には何から何まで良くしていただいて、お礼の言葉も見つかりません……」

　雀子は少し涙ぐみながら、一茂に頭を下げた。

「いや。いいんだよ。第一、あんなに旨い手料理が毎日食べられるんだから、僕も嬉しいよ」

「奥様、反対なさったのでは？」

「初めのうちはね。でも、すぐに分ってくれた。豊子ももう歳だから、家事の負担を減らしてやらないとね。記憶が戻るまでいていいよ。本当は、いつまでも、いてもらいたいところなんだけど――」

　3人暮らしが始まり数週間が経ったが、警察からは何の連絡もなかった。また、雀子の記憶も戻らなかった。

　豊子は特段、雀子に辛く当たるということもなく、毎日平穏に過ぎていった。

　雀子は時々、一茂の凝った肩を揉んだり、掌（てのひら）を揉みほぐしたりしてくれた。だがそれは、なぜか豊子が不在の時に限られていた。

　そんな平穏な毎日に波紋を投げかける出来事が起きたのは、豊子が友人と習っているお華の発表会に出かけて、一茂と雀子の二人だけになった土曜日だった。

　丹前（たんぜん）姿の一茂が居間で新聞を読んでいると、雀子が部屋に入ってきた。

「先生、腰の調子はどうですか？」

　一茂は、慢性的な腰痛持ちだったが、数日前から痛みが強くなっていた。

「同じ姿勢を続けたあと、動こうとすると特に痛い。このところ、一日中、机に向かって仕事する日が続いたからね。こういう時は、大概痛くなるんだ」

「お忙しいんですね。よろしければ、私がマッサージをして差し上げましょうか？」

「え？　雀子さんは、マッサージもできるの？」

「はい、たぶん。でも、プロではないような気がしますから、無理はしません」

「それじゃあ、お言葉に甘えるとするか。ここでいいかな？」

「畳の上だと体が痛くなってしまいます。お布団、お借りできますか？」

「もちろん。上の部屋には布団があるから、そちらに行こう」

「はい」

　二人は、山之内夫妻が寝室として使っている2階の部屋に行った。一茂は押し入れから敷布団を1枚取り出して敷いた。夫婦の寝室で、若い女性と二人きりだ。しかも布団が敷いてある。一茂は、年甲斐もなく拍動が速まるのを感じた。

「丹前を着ていらしてはマッサージが出来ませんから脱いでいただいて、お布団の上にうつ伏せになって下さいますか」

　丹前を脱いだ一茂は、下着のシャツと股引（ももひき）という姿だ。

「では、失礼しますね」

　白いブラウスにグレーのズボンという姿の雀子は、一茂の背中、肋骨の下端と骨盤の上端辺りを指で撫でさすった。

「この辺りには、腰方形（ようほうけい）筋という筋肉があるんです。やはり、だいぶ硬くなってますね。ゆっくり、揉みほぐしていきますね。痛かったら、おっしゃって下さい」

　雀子は、親指の腹を使って、揉んでいく。

「ほー。こりゃあ、気持ちがいいね」

「そうですか。よかった」

　雀子は、腰のあとは尻、太ももの裏、といった順序で揉みほぐしていった。親指の腹を使ったり、時には手の付け根を当てて体重を掛けたりして、なかなか堂に入ったものである。

「いやー、気持ちがいいよ。雀子さん、とても上手いね」

「有難うございます。ただ、あまり長くマッサージを続けるのは、かえってよくありません。今日はこれくらいにしましょう。最後に、太もも裏の筋肉伸ばしをしておきましょうね。仰向けになって下さい」

「これでいいかな？」

「はい。では、左足からやりますね」

　雀子は、まっすぐ前に伸ばした一茂の右の太ももに跨ると、両手で左足を持ち、ゆっくりと上に挙げていった。

「膝は無理のない範囲で伸ばしていて下さいね。太腿の裏には大腿四頭（だいたいしとう）筋などの筋肉があるのですが、それが固くなっていると、腰痛の原因になってしまいます。こうやって伸ばすと、腰痛の予防にもなるんです」

「へー、そうなんだ」

「痛くはありませんか？　男性は、膝下を90度上に挙げられるのが理想ですが、無理は禁物です。これくらいでどうですか？　70度くらい挙げられますね。先生、すごいです！」

「うん。気持ちいいね」

　むろん、筋肉伸ばしは気持ちが良かった。しかしそれより、雀子が跨っている右の太ももから、雀子の温かみが伝わってくるのが、ひどく気になった。

　この温かみは何なのか。一茂の太ももに押し当てられているのは、雀子の秘密の部分ではないのか？　暖かいというより、熱いくらいだ。

　若い女性と二人きりで、こんなに接近した位置関係になったことなど、久しくなかったことだ。しかも、雀子からは何やら芳しい香りが漂ってきて一茂の鼻腔をくすぐった。芳しさの中に、どこか隠微な、蠱惑的なものさえ感じられる。

「それでは、足を替えましょうね。今度は、右足を挙げますよ」

　雀子が跨った左の太ももでは、雀子の熱い部分が、さっきよりハッキリと感じ取れた。一茂は別のことを考えて気を紛らわそうとしたが、無駄だった。顔がほてってきた。

　そればかりか、股間のものがすっかり元気付いてしまい、股引をモッコリと持ち上げているのが、自分でも分かった。ここ何年もなかったことだ。

　当然、それは雀子の目にも入っているに違いない。

「雀子さん、済まない。つい、年甲斐もなく、興奮してしまったようだ」

「え？　どうしました？　痛いですか？」

「いや、そうじゃないんだ。見えてるんでしょ？」

「何がですか？　ハッキリおっしゃっていただかないと、雀子、何のことか分かりませんわ」

　一茂の気のせいか、雀子の話し方は、どこか甘えたような雰囲気を漂わせている。

「分からない？　それならいいんだ。失敬」

「先生、もしかして、これのことですか？」

と言って、雀子は一茂の股間の膨らみを、右手の指で突っついた。

「あ！　何するの！　これこれ、イタズラは止めなさい」

「だって、こんなに元気なんですもの。雀子、びっくりしちゃった」

「ごめん、ごめん。さ、マッサージはお仕舞いにしよう。雀子さん、どうもありがとう」

　その場は、それで終わった。

　しかし、腰痛の改善と予防を理由に、雀子のマッサージは、その後も続けられた。それは決まって、豊子が外出している間に行われた。雀子はいつも、ちょっとエロティックな悪戯（いたずら）を仕掛けるのだった。

　マッサージを受けるたびに、一茂は自分が若返っていくような気がした。精神的ににも、そして肉体的にも。

　そこから二人が一線を越えるのには、それほど時間はかからなかった。

　どちらからともなく求めあい、男女の仲になった。

　それから一か月ほど経ったある日。朝から、冬の冷たい雨が北側の窓を叩いていた。

　朝食をとった一茂は、所長車に乗って出勤した。

　一茂を送り出した二人が、食堂に戻った時だ。

「雀子。お前、いったい何者だ？」

　低く呟くような豊子の声は、氷雨（ひさめ）のように冷たかった。

《続く》