大人のための日本昔話

🐤 舌切り雀（１）迷い雀

　午後11時ごろ、勤務先の逓信（ていしん）省・通信研究所を退勤したお爺さんは、所長車に乗って自宅に向かっていた。その日は朝から晩秋の冷たい風が吹き荒れ、おまけに夕方から雨が降りだしていた。

「——国際連盟臨時総会での松岡全権の演説全文が新聞に載っていましたが、私は、隅から隅まで読みましたよ。連盟を牛耳ってぃやがる英国や米国に、一矢（いっし）報いましたね。いやぁー、近来にない欣快事です。まったく、連盟なんか糞くらえだ」

　所長車の運転士・稲山（いなやま）は、日頃から新聞をよく読んでいる。送迎の車中で、政治や外交について所長のお爺さんと話しするのが楽しいらしい。

「どうかねぇ。世界の国々が日本を見る目は、ますます厳しくなるだろうね」

「日本は、独立独歩でいけばいいんですよ」

　車は、走行してきた国道を左折し、やや細い道に入った。

　後部左座席にいたお爺さんは、八幡（はちまん）神社の前を通過した時、窓越しに人影が見えたような気がした。

「稲山君、車を止めてくれないか」

「はい、かしこまりました」

　お爺さんが左後方のドアから出ようとすると、素早く回り込んだ稲山が、傘をさしかけた。

「君は車で待っていてくれ」

　お爺さんは傘をさして、八幡神社の前まで引き返した。

　八幡神社は樹木で覆われた丘の上にあり、下を通る道から本殿に上る、50段くらいの石段がある。石段の下は、それほど広くはないが砂利敷きの広場になっている。

　そこに人が倒れていて、降りしきる雨に濡れている。

「どうしました？　大丈夫ですか？」

　お爺さんは、傘をさし掛けながら尋ねた。その人は上半身を起こした。髪が長く、スカートをはいているので女性のようだ。しかし、暗くて表情などはよく見えない。

「ここはどこですか？」

　小さな声だ。声から察すると、若い人のようだ。

「吉田町（よしだちょう）の八幡神社の前です。どうしました？　びしょ濡れじゃないですか」

「よく覚えていないんです。足首が痛いです」　

「それは大変だ。神社の石段を踏み外して、転げ落ちたのかもしれないな。近くに知り合いの医者がやっている医院があります。そこにお連れしましょう。その医者とは親しい間柄だから、もしも寝ていたら叩き起こしますよ」

「ご親切に有難うございます。でも、それには及びません。それほどの怪我ではなさそうですから」

　女性が立とうとするので、お爺さんは手を貸した。

　しかし、やはり痛くて立てないようだ。

「では、あなたの家までお送りしましょう」

「それが……」

「どうしました？　お家はどこですか？」

「思い出せないんです」

「え？　もしかして、転倒した時に頭を打ったのかもしれないな。身分証のような、何か手掛かりになるものは、持っていないの？」

「それが、何も持っていないんです。どこかで落としたのかもしれません」

「困りましたね……」

　そこへ、稲山が来た。

「どうしました？」

　お爺さんは、事情を説明した。

「それでは、所長さんをご自宅にお送りした後、この娘さんを近くの警察署まで送りますよ」

「悪いが、そうしてくれるかね」

　それを聞いた女性は、すぐに反応した。

「あの。警察署には行きたくありません」

「え？　なぜ？　警察に知られるとまずいことでもあるのかい？　遅くまで残業した所長さんを、家まで送る途中なんだよ。あまり我々を困らせるもんじゃない」

「すみません。やましいことはありませんが、とにかく警察沙汰にはしたくないんです」

　女性は見かけによらず、我が強いらしい。

「では、こうしよう」

　お爺さんが間に入って提案した。

「真夜中に、しかもずぶ濡れの女性を、雨の中に置き去りにするわけにはいかない。とりあえず、私の家に来なさい。家はすぐそこで、家内と二人暮らしなんだ。もう遅いから、なんなら今晩泊まっていっても構わないよ」

「え！　有難うございます。でも、ご迷惑ではありませんか？」

「大丈夫だよ」

「そうですか。では、お言葉に甘えさせていただきます」

　所長車は、お爺さんと女性を乗せて、再び走り出した。

　家の前で車を降り、お爺さんと稲山が両側から女性の腕を取って、玄関前まで連れて行った。

　お爺さんが呼び鈴を押すと、間もなく戸が開いて、お婆さんが顔をのぞかせた。

「お帰りなさい。あら、どなたかご一緒なの？」

「さ、お入り」

　お爺さんは、女性を玄関の中に入れた。

「では、私はこれで失礼いたします。あとはよろしくお願いいたします」

　稲山は、車に戻っていった。

「あれ、この方、ずぶ濡れじゃないの。いったい、何があったの？」

　お婆さんは目を丸くしている。

「あそこの、ほれ、八幡神社の石段下で、倒れていたんだ。足が痛いそうだ。もしかすると、石段から転げ落ちたのかもしれない。家の場所を覚えていないというので、今夜はうちに泊めてあげることにした。こちらが家内です」

「おやまあ、それは大変でしたね。どうぞお入り下さい。風邪をひくといけないから、すぐお風呂に入りなさい。沸いてますから。あなたはその後でいいですね？」

「いいよ」

「あの娘さんは、どこの何という方なの？」

　女性が風呂に入っている間、お婆さんが尋ねた。

「自分の名前も住所も、覚えていないそうだ。それに、手掛かりになるようなものは、持っていない」

「困ったわね……。明日、駐在所か警察署に連れていった方がいいわね」

「警察沙汰にはしたくないと言ってる。そのうち思い出すかもしれないから、少し様子を見よう」

「お先に有難うございました。体が温まりました」

　朗らかな声とともに、女性が居間に入ってきた。家にあった浴衣と半纏（はんてん）を着ている。

「おお、それはよかった。足を痛めてるんだから、正座しなくていいよ。足、崩して」

「有難うございます。足は少し良くなってきました。たぶん、骨や腱には異状ないと思います。何かにつかまれば、ゆっくりとですが一人でも歩けます」

　明るい照明のもとで座卓の向こうに座っている女性を改めて見ると、鼻筋が通っていて、大きな瞳が印象的だ。化粧を落とした素顔のままでも、なかなかの美形といえるだろう。黒くて長い洗い髪から、芳香が漂ってくる。

　顔や首の肌には張りがあり、風呂上がりのためか、ほんのり薄紅色に染まっている。皺と染みが目立つお婆さんが隣に座っているものだから、なおさらのこと、娘の若さが際立って見える。

「あ、名前を思い出しました。竹林（たけばやし） 雀子（すずめこ）です」

「あら、珍しいお名前ね」

「そのほかのことは、まだ思い出せないんです」

「慌てることはないよ。客間を整えておいたから、今夜はゆっくり休みなさい。お婆さん、案内してあげて」

　翌朝、お爺さんが食堂で朝食をとっていると、足を引きずりながら、雀子が2階から降りてきた。

「おはようございます。昨日は大変なご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「なんのなんの。全然迷惑じゃないよ。調子はどう？」

「足の痛みは、だいぶ軽くなってきました。でも、歩いたりして動かすと、まだ痛いです。あの、奥様は？」

「『ラジオ体操の会』に行ったよ。竹林さんにも、ハムエッグとサラダを用意してある。パンは、そこのトースターで焼いてね。コーヒーと紅茶、どちらがいい？」

「何から何まで、有難うございます。では、紅茶をいただきます。これからご出勤ですか？」

「今日は土曜で半ドンなんだけど休んだよ。君のことが心配でね」

「本当に申し訳ありません」

「いや、いいんだよ。昨日だいぶ残業して、懸案だった仕事を片付けたからね」

　二人は、朝食をともにしながら雑談した。

「とても広いお家（うち）なんですね。ビックリしました。すみません。ゆうべは気が動転していて、お名前もお伺いしませんでした。昨夜、門札を見ました。山之内（やまのうち）様ですね？」

「こちらこそ、名乗りもせずに失礼したね。山之内一茂（かずしげ）といいます。家内は豊子（とよこ）」

「山之内さんは、会社の社長さんなんですか？」

「いや、逓信省付属の研究所で、所長をしている」

「研究所の所長さんですか。すごいですね！」

「私自身、研究者なんだ」

　一茂は、いくつかの賞に輝いたこともある研究者で、今も研究の第一線にいる。

「なんの研究をされているんですか？」

「いろいろな分野にわたっているけど、一言でいえば、通信技術に関する研究だよ」

　一茂が所長を務める研究所は、最先端の通信技術に関する研究・開発を行っている。中には、陸軍や海軍と共同で行っている案件もある。

「通信ですか？　電話とか？　あー、私、頭が悪いから、全然分かりません」

「それが普通だよ。かみさんさえ、私の研究についてはほとんど何も知らないんだ。さ、そこのバスケットに果物が入っているから、好きなものを食べなさい」

「はい。遠慮なくいただきます」

　その日の午後、一茂は雀子を自家用車に乗せて、地元の警察署に連れて行った。雀子は、財布などの紛失届を出した。警察署の職員は、記憶が戻らないようなら、月曜日に病院を受診するよう雀子に勧めた。

　警察署の後、整形外科医院を受診させた。医師の見立てによれば単なる打撲で、骨や腱には異状がないとのことだった。貼り薬を処方してもらい、診察代は一茂が立て替えた。

　帰宅途中、百貨店に立ち寄り、豊子から頼まれた食材などを買った。雀子は、食材の選定について一茂に助言してくれた。

　翌日曜日、豊子は友人と歌舞伎を観に銀座へ出かけた。

「食事は私が作りますから、心配なさらないでください。料理は得意なんです。歌舞伎、楽しんできて下さい」

「悪いけど、お言葉に甘えますね。私は夕食も劇場の食堂でとりますから、私の分は作らなくていいですよ。では、お願いします」

「はい、お任せください」

　この場面だけ見ると、雀子はあたかも以前から住み込んでいる家政婦のようだ。いでたちは、昨日（きのう）洋品店で買ったワンピースだったが。

「お昼、お料理のご希望はありますか？」

「ビフテキがいいな。昨日買った米国産牛肉を使ってね」

「シャトーブリアン600gですね。どれくらい召し上がります？」

「二等分して、二人で食べよう」

「奥様の分は？」

「いや、豊子はあまりビフテキが好きじゃないから、いいんだ。僕はレアで」

「かしこまりました。さっそく、お肉を常温に戻します」

　一茂は大学卒業後アメリカの大学院で学び、引き続きアメリカの研究所で研鑽を積んだ。だから、ステーキなどアメリカ風の料理が大好きだ。

　一方、豊子は和食を好むので、作る料理も和食が多くなりがちだ。一茂には、それが少し不満だ。

　雀子が調理している間に、一茂は葡萄酒選びに専念した。彼は大の葡萄酒好きで、温湿度管理ができる家庭用の葡萄酒保存庫を、フランスから取り寄せるほどの凝りようだった。

　なぜか心が浮き浮きして、葡萄酒選びにいつもの倍以上の時間をかけた。せっかく若い娘と、高級肉のビフテキを食べるのだ。けちけちせずに、豪勢にいくことにした。彼が選んだのは、シャトー・マルゴー、1921年だった。　

　一茂は、葡萄酒の瓶を食堂のテーブルに運んだ。頃合いを見計らって、澱（おり）を除くため、慎重にデカンタに移し替えた。

　雀子も、サラダなど出来上がった料理を運んできた。

「では、お肉を焼きましょうか？」

「うん。頼むよ」

　広々としたダイニングテーブルに着席した一茂の顔が、思わずほころんでくる。若く美しい娘と、高級牛肉のステーキ、極上の葡萄酒……。それに、一茂はすでに食前酒として、辛口のシェリー酒をちびちびやっていたので、なおさら気分がいい。

　葡萄酒で乾杯した後、焼き立てのステーキを口に運んだ一茂は、思わず唸った。

「これは旨い！　焼き加減や味付けが素晴らしいよ」

「いえ、お肉が上等ですから」

「いくら素材が良くても、美味しさを引き出す調理の腕がなくては、これほどの味は出せないだろう。調理を勉強したことがあるの？」

「分かりません」

「そうだったね。まだ過去の記憶が戻らないんだね。それでは、この葡萄酒はどう？」

「素晴らしいですね。黒スグリやバニラの繊細な香りの中に、華やかな花の香りも感じられます。ほんのりとした果実のような甘みが、私にもぴったりです」

「へー、君は葡萄酒にも詳しいんだね。どこの葡萄酒か分かる？」

「そうですね……。ボルドーのメドック地区のものであることは間違いありませんね……。シャトー・マルゴーですか？」

「こりゃぁ、驚いた。ビンテージはどうかな？」

「……、1921年ですか？」

「当たり！　君は、葡萄酒の専門家なのかもしれないね」

「白状します。ちょっとズルしたんです。さっき、先生はデカンタシオンされてましたね。そばを通った時、ちらりとラベルが見えたんです」

「そうか。それにしても大したものだよ」

「ありがとうございます。先生のグラスが空きましたね。お注ぎしてもよろしいですか？」

「もちろんだよ。雀子さんに注いでもらえれば、旨い葡萄酒がますます旨くなるよ」

「先生、お世辞がお上手ですね」

「いやいや、お世辞じゃない。雀子さんのような美しい人と一緒に食事できるなんて、こんな楽しいことはない。食卓に大輪の花が咲いたようだよ」

「まあ」

　酔いも手伝って、一茂はいつになく饒舌だ。若い頃豊子に言ったこともないような誉め言葉が、スラスラと口から出た。昨日出会ったばかりだというのに、二人はすっかり意気投合した。　

　雀子は、夕食も作ってくれた。昼とは打って変わって和食だった。一茂が鰻が好きで、昔名古屋にいたことがあると聞いて作ったのは、ひつまぶしだった。

　これも、実に旨かった。

　一茂は、すっかり雀子が気に入ってしまった。

　少なくとも記憶が戻るまで家にいてもらいたいと雀子に尋ねると、遠慮しつつ承諾してくれた。

　もっとも、自分の独断で決めるわけにはいかない。豊子が帰宅したら、了解を取る必要がある。しかし、豊子には妙に意固地なところがある。うまく持っていかないと、へそを曲げるかもしれない。

《続く》