第4話

 店を出て、自転車を押しながら歩くヒロトに付いてしばし歩く。

 吐く息は今にも凍りそうに白い。


 しかし、体の芯はじんわりと温かい。

 目に見えない何かに覆われているかのような安心感。

 もしかしたら、これが幸せというものなのかもしれない、とゆきのは思った。



 20分ほど歩いただろうか。


 辿り着いたのは、ゆきのの自宅よりは幾分マシな三階建てのアパートだった。

 三階の通路の電灯は、一部が時々頼りなげに暗くなっては、息を吹き返したように明るくなる。

 チカチカと点滅を繰り返していて、つい見入っていた。


「ここだよ」

 一階の一番端の部屋。色の褪せたブルーのドアに鍵を差し込んだ。


 中は小さなキッチンとリビングが別になっている。部屋はそれだけだ。


 男の子の一人暮らしとは思えないほど、きれいに整理整頓されていて、殺風景なほど。


 ベランダに続く窓辺には、この部屋に似つかわしくない小さなクリスマスツリーが飾ってあった。


 ヒロトはいそいそとツリーの所へ行くと、コンセントに電源を差し込んだ。

 赤や黄色、ブルーや緑の電飾がチカチカとリズミカルに輝きだす。


「かわいい」

「もうすぐクリスマスだからね。先週買ったんだ。ディスカウントストアの特価品だけどね」


 ヒロトは肩をすくめて優しく笑った。


 家の中にクリスマスツリーが飾ってあるなんて、友達の家でしか見た事がなかった。


 ヒロトはツリーの下に置いてある白い箱を取り出して、蓋をあけた。


 中には赤とゴールドのりんごが並んでいる。


「ゆきのとクリスマスツリーを飾るのが。あの頃の俺の夢だったんだ。一緒に飾ろう」

 ヒロトはそういって、りんごをツリーに引っかけた。


「うん!」

 ゆきのは、父親と一緒にツリーの飾りつけをするなんて、夢すら見た事がなかった。


 ゴージャスでもない。おしゃれでもない、チープでゴテゴテとした昔ながらのツリーは、電気を落とした部屋で、チカチカとヒロトの顔を照らした。


「私が生まれた時の事覚えてる?」


「ああ、覚えてるよ。小さくて、今にも壊れそうで、かわいかった。忘れた事ないよ」


「私が生まれて嬉しかった?」


「当たり前だろ。たった3週間しか一緒にいられなかったけど、親になる喜びを教えてもらった」


 ヒロトはおもむろに立ち上がって、書棚から数冊のキャンパスノートを取り出す。

 それをゆきのに差し出した。


「中学の時から佐倉真守の記憶をこのノートに書いてきたんだ。もう忘れちゃってる事もあるけど、これを君にあげる。君と過ごした時間はほんの一瞬だった。けど俺は死ぬ瞬間、失う物が自分でよかったって思ったよ。ゆきのと里砂子はちゃんと自分の人生を生きていける。幸せになれ! と願いながら目を閉じた」


「パパ……」


 初めて知る父親の愛情に、大粒の涙がぐちゃぐちゃに顔を濡らす。


 投げやりになって腐ってた。


 生い立ちを憎んだ。


 友達が羨ましかった。


 なんで自分だけ? って捻くれていた。


 愛されたかった。


 無条件に抱きしめられたかった。


 そんな気持ちがほろほろとほどけて流れていく。


「ゆきの」


 ぎゅっと強く抱きしめられて、ヒロトの声が、あるはずもない父の記憶と重なった。


 華奢な包容力は温かくて、薄い肩は、取り込み忘れた洗濯物みたいな匂いがした。


 ゆきのにとっては、紛れもなくそれが、父の匂いとなった。




 夜の色を濃くした空が、街を濃紺に包む頃。


「ゆきの。そろそろ帰らなきゃ」


 ヒロトはそう言って、ベランダのカーテンを引いた。


「うん。また来てもいい?」


「もちろん」


 そう言って、パパの記憶が詰まったキャンパスノートを、小ぎれいなペーパーバッグに入れてこちらに差し出す。


「送っていくよ」

 制服の上にダウンのジャケットを羽織って、ゆきのに顔を向けた。


 本当はまだ帰りたくない。


 このままここでヒロトと――


 いやパパと一緒に暮らしたい。


 満たされていた安心感が、引き潮のように流されていくのを感じていた。


 夢の世界から現実までの扉はもうすぐそこにあって、どうやったって逃れる事はできない。


 華奢で頼りなげな背中に、のろのろとついて歩く。


 ヒロトはそんなゆきのに気付いていないようで、さきほど教えたゆきのの住所をグーグルマップで検索している。


「ここからだと、徒歩で30分ぐらいかかるな。タクシー呼ぼうか? ここら辺は空車で流してるタクシーが少なくて、なかなかなくてつかまらないんだ。電話で呼んだ方が速いな」


 ゆきのは首を横に振った。


「歩いて帰りたい」


 もう少し傍にいたい。


 もう少しパパの傍に――。


「そっか。じゃあ行こう」



 外に出ると、吐く息は、ますます白く凍る。


「うーーー、寒い!」


 自転車を押しながら、ヒロトはそう言って肩をすくめる。


 ゆきのはスクールバッグからマフラーを取り出して首元に巻き付けた。


 真冬の夜風は、制服の上に羽織ったカーディガンだけでは到底太刀打ちできない。

 服の繊維をやすやすと通過して肌を刺す。


 こんな時、地球温暖化はどうした?

 こう言う時こそ出番なんじゃないのか。

 そんな不謹慎な事を思い、ままならない世の中に頬を膨らませる。


 その時――。


 背中がふわっと温もりに包まれた。


 顔を上げると、ヒロトが着ていたダウンをゆきのの肩にかけてくれていた。


「ありがとう」


 ヒロトは少し恥ずかしそうに頬を染めて、進行方向を見やる。

 足早に自転車を押しながら、ゆきのの前を通り過ぎた。


「なんだか不思議だね。まだ夢を見てるみたいだよ。パパが私と同じ世代に生まれ変わって、一緒に成長してきたなんて」


「そうだよな。けど、人に言ったら頭おかしいやつだと思われるから、誰にも言っちゃダメだぞ」


「わかってる。じゃあ呼び方もパパなんてダメだね。ヒロトって呼ぶよ」


「うん。そうしよう」




 家に着く頃には、ダウンの中でしんわりと汗ばむほど、体の芯は温まっていた。


「送ってくれてありがとう」


「うん」


「あそこがうちだよ」


 そう言って自宅アパートの部屋を指さして、ゆきのは自分の顔が蒼白に変わるのを感じた。


 ちょうど仕事を終えて帰ってきたらしい母がたかしにもたれかかりながら、楽し気にドアを開けている所だった。

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