第5話


「ママ……」


「里砂子?」


 ヒロトはその光景に目を伏せた。


「あは、今日は、仕事終わるの随分早かったみたい」


 何でもないふりを装いながら、ヒロトを気遣う。


 たかしの風貌は、見るからにチンピラのそれで、誰がどこからどう見ても危ない男。

 ママが勤めるスナックの客だが、飲食代はママの給料から支払われているらしい。


 ママが恋するのは別に構わない。


 けど、よりによってあんな男とだなんて絶対に嫌だ。


 部屋に帰れば嫌でも二人の気持ち悪い行為が聞こえてくるのだ。


 ゆきのはいつも大音量のヘッドフォンで耳を塞いで夜を過ごしていた。


 流れる音はなんでもいい。


 現実から逃がしてくれる音なら、なんでも……。


「じゃあね、ヒロト。おやすみ」


 できるだけ元気に明るく、ヒロトにそう声をかけた。


 ヒロトは無言でゆきのの顔を見据える。


 心配そうに、困ったように……。


「そういう事か……」


 なんだかヒロトが一回り小さくなったような気がした。


 ヒロトの中のパパは、今でも母の事が好きだったのだ。


 きっと信じていたに違いない。


 こんな再会なんて、パパがあまりにも可哀そうで、ゆきのはかける言葉さえ見つけられずにいた。


「ゆきのは、大丈夫? 嫌な思いしてない?」


「え? ああ、うん。全然平気」


 ゆきのはヒロトに心配かけたくなくて、嘘を吐いた。

 全然平気じゃない。


「そうか、ならよかった」


「うん。じゃあね。また明日、学校で!」

 そう言って、肩にかけてくれていたダウンをヒロトに差し出す。


「うん、おやすみ」

 それを受け取り、袖を通すと、ヒロトは自転車に跨って、夜の闇に呑み込まれるように去って行った。



 重い足取りで階段を上る。


 こんな家、とっとと出て行きたいが、まだ17歳のゆきのには腐ってても住む家が必要なのだ。


 家は嫌いだけど、学校は好き。

 勉強は苦手だけど、友達とのおしゃべりは楽しい。


 それに、ヒロトとの出会いがゆきのに一筋の光を与えていた。


 明日、学校に行けばヒロトに会える。


 学校に行く楽しみが増えた事で、いくらか心は軽い。


 ドアを開けて、「ただいま」と小さな声で呟いて靴を脱いだ。


 アパートはかつて水商売の人達が、何人かで住み込みをしていたらしく、小さなキッチンとリビング。それから四畳半の部屋が二部屋ある。


 自分の部屋に行くには、ママとたかしがいちゃついてるリビングを通らなくてはいけない。

 今日は幸い、帰宅したばかりの二人は、テーブルの脇に座って缶ビールで乾杯をしている所だった。


「ゆきの、いいところに帰ってきたわ」


 母はなぜか機嫌よくゆきのに話しかけた。


 現在、時刻は0時半を過ぎたところ。


 こんな時間に帰宅した高校生の娘に言うセリフ、間違ってない?


 ゆきのは母に用などない。無視して通り過ぎようとしたところで、肩にかけたスクールバッグを強く引っ張られた。

 不意の衝撃で、体が後ろによろけた。


「何するの?」


「あんた、パパ活してるの?」


 母はそう言って、スマホを操作し、画面を見せた。

 そこには、ゆきのがパパを募集しているSNSの書き込みが映し出されている。


「ママには関係ない」


 再び、部屋に向かおうとした背中に


「今日はいくら稼いだの?」

 と、訊ねられた。


「女子校生はいい値がつくからな。一日で20万ぐらい稼ぐ子もいるらしいな。ゆきのなら30万ぐらいはいけそうだな」


 たかしは、ニヤニヤと視線で舐めまわしながらゆきのに近付いて来る。


「来ないで」


 スクールバッグで体を守るように抱きしめたが。


 たかしの手が伸びて、抵抗の甲斐もなくバッグは奪われてしまった。


 勢いのあまり口を広げたバッグからは、中身が飛び出し、床に散らばった。

 ペンケースにメイクポーチ、それからヒロトにもらったパパの記憶ノート。そして、修学旅行費用だと言って渡してくれた茶封筒。


 ゆきのは慌てて、ノートを拾い上げた。


 他の人には紙くずなのかもしれない。

 しかし、ゆきのにとっては、唯一無二の宝物だ。


「お! けっこう稼いだじゃないか」


 たかしは早速封筒に目を付けたらしく、中身を確認している。


「え? 本当? いくら?」


 母がたかしの肩越しに封筒を覗き込む。


「やめて! それは……」


 ヒロトが生活費を削り、学業の傍らバイトをしながら貯めたお金である。


 こんなクズたちに奪われてはたまらない。


「返して!!」


 ゆきのはたかしの手から封筒を奪おうとしたが、その直後。

 酷く壁に背中を打ち付けた。

 突き飛ばされたのだと理解した時には、鼻の奥にツンと違和感をおぼえた。

 正面から平手で顔を押し飛ばされたらしい。

 喉の奥に鉄の味を感じた瞬間、鼻からぬるっとした液体が流れてきた。


 手の甲で拭って、すぐに液体の正体がわかった。


 鼻血だ。


 ぽたぽたと鼻血を垂らすゆきのに、母はティッシュケースを投げつけた。


「大人しく言う事聞かないからよ。さっさと片付けて部屋にいきなさい」


 痛いのは背中でも後頭部でも顔でもない。


 心だった。



 自室に入り、鼻にティッシュを詰めて、制服のままベッドに体を投げ出した。


 ふつふつと沸き上がる怒りと共に、じわじわと下瞼が熱を持ち始める。


 泣きたくなんかない。


 怒りたい。

 大声で叫びながら暴れたい。

 何もかもぐちゃぐちゃに壊してしまいたい。

 母親の蛮行が一日の疲れにとどめを刺して、感情とは裏腹に、体はベッドに沈んだまま動かせない。


 ただただ、震える拳を握りしめた。


 脳が痺れるほどの怒りは、なぜか悲しみに変わり、ゆきのの頬を濡らしていた。


「親孝行な娘を持ってよかったな」

 たかしと母親の下卑た笑い声が聞こえる。



 時間と共に、怒りは居た堪れない思いに変わる。


 パパのゆきのへの想いが踏みにじられたのだ。


 自然と「ごめんなさい」という言葉が口から溢れ出し、もう何もかもどうでもよくなる寸前だった。


 ベッドからのっそりと起き上がり、小学生の頃からアップデートされていない勉強机に向かう。

 一つしかない引き出しを開けて、手に取ったのはカッターナイフ。

 ギリギリと薄い刃を伸ばす。


 もう何度もそうして自分を誤魔化して生きてきた。


 こんな物で手首を切ったとて、死ねるわけなどないという事もわかっている。


 しかし、ゆきのにできる精いっぱいの抵抗だった。


 手首に刃を当てる。


 真下に向かって滑らせれば、じりついた身を裂く痛みの後に、傷口から噴き出す血液。

 その痛みと光景で、心の痛みはいくらか和らいだ。


 どうせ死ぬ気なんかないんだろう、なんていう奴らには不幸の手紙を死ぬまで送り続けてやりたい。


 こうしないと、死んじゃうんだよ!



 ゆきのにとってリストカットは、もはや生きる術だったのだ。


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