一件 4
鏡子はボフンと敷かれていた布団へと身を投げる。
いつもいい時間になると司録と司命が布団を敷いてくれる。裁判所に行く前までは机と椅子しかなかったから、今回も司録か司命が敷いてくれたのかもしれない……。
そんなことを考えながらも、鏡子は天井を見ながらモヤモヤした感情に支配されていた。
――無罪にしてよかったのだろうか。
石井芳子が指輪を渡す気なんてないと知っていたのに。
鏡子は軽く目を閉じた。
その瞬間、コンコンと戸がノックされる。鏡子は布団から上体を起こして布団の上で正座をしてから返事を返す。
「あ、はい」
きっと司録か司命だろう。布団の事お礼言わないと。
だが中に入ってきたのは紅蓮色の着物が特徴的な閻魔大王だった。
「今日はご苦労だった。疲れただろう」
そう言って閻魔大王は手元にあるものを目元まで持ってくる。手に持っているのは徳利のようだ。
閻魔大王は目の前で徳利を軽く揺らす。と、鼻にアルコール特有のきつい匂いが鼻につく。
閻魔大王は布団に正座している鏡子の隣に腰を下ろした。そしてどこからか持ってきた猪口を鏡子の前へ出す。
「……どうも」
鏡子はためらいながらも猪口を受け取ると閻魔大王はお酒を注いでくれる。酒はどうやら熱燗で注がれたすぐそばから掌がじんわりと温かくなっていく。
閻魔大王も自分で酒を注いでゴクリと喉を鳴らしてお酒を飲んでいく。それを見てから鏡子もお酒に口をつけた。
喉がカッと熱くなってその熱さが体全体に回っていく。味はほんのりと甘くて飲みやすい。
閻魔大王はそっと鏡子の左手薬指を手に取る。
「まだその指輪の説明がまだだったからな」
「あ、そういえば」
鏡子はマジマジと指輪を見つめた。
「この指輪は妻も気付いたかと思うが、相手の過去を見ることが出来る」
「どちらかというと『見る』というよりも『行った』の方に近いような……」
「そうとも言う、だな」
閻魔大王は目を細めて酒を一口呑む。
鏡子は閻魔大王と反対に、眉をひそめて酒へ唇をつけた。
「どうも妻は何か気にかかることがあるらしいな」
「……」
「解決できるかはともかくとして話くらいは聞くぞ」
その言葉に鏡子はハッと顔を上げて酒から唇を離す。そして再び重い顔に戻る。
話してもいいものなのかな。でも、この先のことに関わるし話さなきゃダメだろう。やっぱり。
鏡子は一拍の間の後、閻魔大王に向かい合う。
「あの、迷っています」
「迷っている?」
「石井芳子を無罪にしてよかったのかって……」
すると閻魔大王はフッと笑う。その姿に鏡子は閻魔大王を見つめた。それに気付いた閻魔大王は「いや、すまない」と平謝りをする。
「余は地獄に来たくなかったとか、元の世界に戻してほしいとか。そういうことを言われるのかと思ったぞ」
……何を今さらと鏡子は眉をひそめる。
そりゃあ最初にここに来た時は帰りたいと思っていたけれど。ここにいるということは死んでしまったということだし。戻れるわけがない。それに私は石井芳子とか他の亡くなった人たちに比べていい生活をしているみたいだし。文句は言えない。
「さて、それで余の妻は無罪にしてよかったのかと悩んでいたのだったな」
「……はい」
「余は妻の判断は正しかったと思うぞ。私情にとらわれることなく、法に従ったのだ。それでこそ、妻にしたかいがあるというもの」
鏡子は眉をひそめながらチビチビとお酒に手をつける。
閻魔大王はそんな鏡子を見て、またフッと笑う。
「だいぶ昔の話だが、余にもそんな時期があった」
「そんな時期?」
「最初に裁判を担当した時だ」
鏡子はハッとして閻魔大王を見る。鏡子から見た閻魔大王はかなり若く見えた。司令も司録もだ。
閻魔大王は口元を緩めながら「だいぶ若く見えるだろう」と問いかける。
「はい」
「ここでは歳をとらないからなぁ」
「……口調はおじいちゃんみたいですけど」
「それを言われたらきついなぁ」
閻魔大王はガハハと豪快に笑ってから、鏡子を優しく見つめる。
「余は裁判をしていくうちに『迷い』というものがなくなってしまった。これでいいのか、悪いのか。正しかったのか」
「……」
「……妻には辛い思いをさせるがそのままでいてほしい」
どういうこと、と鏡子は首を傾げると閻魔大王は猪口を床に置きながら口を開く。
「余にはもう『迷う』ことが出来ない。だから鏡子、余の妻にはその思いを無くして欲しくない」
「現代の法に従って裁判をしながら、ですか」
「なかなか難しいことだがな」
閻魔大王はそれだけ言うとゆっくりと体を起こして立ち上がる。そして鏡子から離れ扉に向かい、部屋から出ていった。
後には閻魔大王の猪口だけが残っていた。
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