第17話 楽しませてくれるでしょ?

「あ、旭が怪我……?」

「そうなの」


 木陰は膝に手をつきながら、息を切らしている。一心を探して全力で走っていたのだろう。夜鶴が足を捻ったことを伝えるために。


「それで、旭はどうしてるの?」

「走ってる」

「走ってる!?」


 ということは、容態的には重傷ではないのだろうか。それにしては、木陰の焦った表情が一心は気になって仕方がない。

 ピタリと足を止める。一心が見据えるのは目の届かない見知った学舎。あの場所へより速く帰ることのために一心は今日まで夜鶴に会う時間も削り、努力を惜しまないできた。全ては夜鶴とデートするために。


 一番はもう無理だと理解している。残りの体力的にもここから巻き返すのは絶望的だ。学校までの距離はまだ半分もあるのだから。


 でも、二十番以内に学校に戻る可能性は残っている。追い抜かれたのも光流を含めても十人だ。

 このままのペースだと成せるかもしれないのに諦めるのはまだ早い。


 ――なんて、諦め悪くしてる場合じゃねえよな。

 膝に手をついて、深く息を吐く。

 ――よし。呼吸は整った。

 一心は前を向くのを止めて、体を後ろに向ける。


「旭のことは俺に任せろ」

「どうするつもりなの?」

「それは、まだ考えてない。けど、俺は旭の元に行くよ。だから、雛森はこのまま学校を目指してくれ。それで、先生に事情を話しておいてほしい」

「分かった」

「あわよくば、迎えに来てもらえると助かります。それじゃあ」


 それだけを言い残すと一心は急いで来た道を戻る。すれ違う走者達は訝しげな眼差しを向けながらも話す余裕もないようで無視だ。

 その中には一心と同じクラスの生徒もいたがみんな同様な反応をしている。


 あれだけ喚き散らし、今度はものすごい速度で逆走する姿が不思議に思ってしょうがないのだろう。

 いちいち理由を説明している暇もなく、一心は速度を落とさないまま通り過ぎる。


 不思議だった。あれほど、足が重たくて、肺も痛くて、呼吸するのでさえ苦しくて、前に進む元気も十分になかった。

 だというのに、今はそれを全く感じない。

 むしろ、スタートを切った直後の全速力よりも速く走れているのではないかと錯覚してしまうほど体が軽い。


 だからだろうか。夜鶴と会うのにそう時間を要することはなく、一心はすぐに走っている夜鶴を見付けることが出来た。


「旭っ」

「日野? え、何してるの?」


 一心の呼吸は途端に荒くなる。ぜえはあ、と息切れを起こし、上手く声が出せない。血液が熱く、無数の咳まで出てきて、死にそうなほど苦しい。

 そんな一心を夜鶴はさぞかし驚いて見ている。


「あ、旭が足捻ったって雛森から聞いて」

「私が足を? 捻ってないよ?」

「……ほへ?」

「ほら」


 とんとん、と片足の爪先で道路を叩く夜鶴はけろりとしていて、平然な様子だ。

 一心は急に全身の力が抜けて、その場で仰向けに倒れた。夜鶴が慌ててしゃがんで顔を覗き込んでくる。


「ちょっと日野!? 大丈夫!?」

「だ、大丈夫大丈夫。旭に怪我がなくてほっとしたらなんか足に力入らなくて……それにしても、どうして雛森は旭が怪我したなんて嘘を」

「そうしたら、日野が私の元に来るって分かってたんでしょ。走る前に言ってたでしょ。日野が一番になるの阻止しようって」

「そんな腹黒いことを!?」

「こーにはそういうところが意外とあるよ。私の名前とか日野に教えるためにジャムパン貢がせたりね」

「なるほど。恋のキューピッドだと崇拝してたのになんてけしからんやつだ……」


 あんなに焦った表情と声だったくせに木陰は嘘をついていた。木陰に対して、一心はわりと本気で怒りが沸いてくる。

 自分がどうなろうともどうでもいい。

 けれど、夜鶴をだしに使うような真似はしないでほしい、と後で会ったらキツく言うことに決めた。

 それでも、平気な顔している夜鶴を見れば一心の怒りも多少は落ち着いた。


「まあ、でも、旭が無事で本当によかった」


 本気で心配していたからこそ、それが杞憂であったことが一心は何よりも嬉しい。心の底から安堵する。


「よくはないでしょ。戻ってきて。どうするの?」


 腹筋を使って一心は体を起こす。

 もう、体に力は残っていない。何があってもここから巻き返すことは難しい。というよりも不可能だと、いくらなんでも理解している。


「もう体力も残ってないしここからはゆっくり走って学校を目指すよ。だから、旭は先に行って」

「何言ってるの? せっかく、私のために戻ってきてくれたのに先に行けるはずないでしょ」

「でも、かなり疲れてるから遅いよ」

「いいよ、それくらい。日野なら私を楽しませてくれるでしょ?」


 期待しきった顔の夜鶴に一心の体力が限界を超えて回復する。

 ――なるほど。これが、愛の力か。

 時に人は信じられない力を発揮する。一心にとってはそれが今のようだ。速く走る体力は残っていなくとも、夜鶴と肩を並べて走るくらいの体力なら出来た。


「ゴールラインまで俺が楽しませるよ」

「お願いね」


 息を整えてから、一心は夜鶴と横並びに走り出す。

 ジョギング程度なら一心の体も楽だ。

 それに、夜鶴が隣にいる。まるで、休日に二人で運動しているような気がして一心はすごく楽しかった。


 ――旭とデート出来ないのは残念だけど、これも見ようによってはデートみたいだ。

 正確には、後方から生徒に抜かされて二人きりではないが、もう周りを見れていない一心は夜鶴にしか注目していない。


 夜鶴は白い息を吐きながら体を左右に揺らして走っている。ポニーテールにした黒髪も右へ左へ揺れる。

 そこに違和感などないはずなのに、どうしても胸がざわざわとする一心。何かがおかしくて変な胸騒ぎが止まない。


「あ、ごめん」


 どん、と夜鶴とぶつかった。

 けれど、夜鶴の勢いはなく、一心はふらつきもしない。足の力はほとんどないというのに。


「ううん。大丈夫。旭は大丈夫?」

「うん、なんともない」


 夜鶴の方も平気なようでそのまま走行を再開する。

 しかし、やはり何かがおかしい。

 そもそも、どうして夜鶴はこんなにも足が遅いのだろうか。今は一心に合わせて走っているからだがその前はどうしてなのか。

 走る前に木陰から足が速いと言われた夜鶴は忖度なしに肯定していた。記録が出ているのだから自分がどれくらいの成績かは理解してこその肯定だったはずだ。


 全速力で駆け出した一心に追い付いた木陰は確かに足が速い。途中で体力が切れたといっても一心との距離はかなりあった。

 それを、追い付くために多少なりとも全力を出していたとしても追い付いた木陰に焦りは見えても疲れは伺えなかった。


 そんな木陰が認める夜鶴がどうして木陰と離れ離れになったのか。

 ただ嘘をつくためだけにあそこまで必死に焦ることが出来るのか。大切な友達である夜鶴をだしにしてまで。


「うう、今日は本当に冷えるね」


 手に息を吐く夜鶴。

 ゆっくりと走るから、体の芯から熱くなれないのだろう。

 一心は足を止めた。


「日野? どうしたの?」


 何気ない顔で振り返ってくる夜鶴に変わったところは見られない。

 だから、一心は夜鶴の腕を引っ張った。


 突然のことに夜鶴は目を丸くしつつ、一心の胸に飛び込む――直前、一心は夜鶴の両肩に手を置いてその場に留まらせる。

このまま抱き締められるのならそうしたかった一心だが、今はそれどころじゃない。


「やっぱり、怪我してるよね、旭」

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