第16話 ……見すぎだから

 区内マラソンが開始される時間が徐々に迫ってくる。

 一心は夜鶴と木陰と喋りながらその時を待つ。不思議と緊張はしていない。学校行事の一角に過ぎず、個人戦でのんびりとしていけばいい。

 ただ、周りが敵だらけだと発覚したせいで焦りはある。


 何しろ、味方だと思っていた夜鶴と木陰がライバルだった。今も何食わぬ顔で会話しているというのに。

 ――それでも、俺は負けねえ!

 一人、気合いを入れ直していれば背後から背中を叩かれる。


「よう」

「おう」


 振り返れば光流だった。

 気だるそうにしながら片手を挙げている。長袖のファスナーを首元まで上げていて、見るからに息苦しい。


「ファスナー下げとかないと息が詰まらないか?」

「ふ、要らぬ心配だ。僕はそんなにやわじゃない――っ、とすまない。僕はこれで」


 何か見たくないものでもあったのか、光流は眼鏡の奥の瞳で一心の背後を捉えたかと思うと途端に慌ただしくなって去っていった。


「何だったんだ?」


 よく分からないがどこか行ったのならそんなに用はなかったのだろう。夜鶴と話していよう、と体勢を元に戻せばいつの間にか木陰の姿も忽然と消えていた。


「あれ、雛森は?」

「さあ。なんか、日野があの男の子と話した瞬間、急に私はこれで~って壊れたロボットみたいにぎこちないままどっか行った」

「へえ……」


 光流も木陰も何なんだろう、と訝しげに感じるものの夜鶴と二人きりになれたことに一心は喜ぶ。


「さっきの男の子が日野が前に話してた性癖拗らせてる癖の強い友達?」

「そうだよ。よく覚えてたね」

「独特だったから。敬語使わない女の子は女の子じゃないって、かなり拗らせてるし覚えやすい」

「俺はどんな女の子でもウェルカムだから旭はありのままでいてね」

「いい風に言ってるんだけど、完全に浮気男の文言にしか聞こえないんだよなあ。女の子にちょっと優しくされたらコロッと心移りしそうで」

「しないよ。俺の心は旭だけのものだよ」

「それはそれで重たいなあ」


 苦笑する夜鶴に一心は困惑する。

 どう言えば夜鶴を満足させるようなことになるのだろうか。女心を理解するにはいささか一心には経験が足りてなさすぎた。


「ま、日野が重たいのも一途なのも真剣だってのは伝わってるし、私は日野と居て気が楽だからありのままの私で十分居させてもらってるよ」

「そっか。それなら、よかった」

「秘密も打ち明けちゃってるし隠したって無駄でしょ?」


 それはそれで、今までの夜鶴の一心に少しも異性としての魅力を感じられていないことになり傷付いた一心だが仕方がない。

 それは、これから変えていくことだ。

 今は、夜鶴がありのままの姿で一緒に居て気が楽な存在だと思われていることを噛み締めておく。


 しばらくして、集合の合図がかかった。


「あ、そろそろ始まるね。準備しないと」


 そう言うと夜鶴は手首に巻いていた髪ゴムを取り外すと口に咥える。空いた手で後ろの髪を纏めて、咥えた髪ゴムでくくる。

 すると、黒い塊の尻尾があっという間に出来上がった。


 ポニーテールだ。これまた新鮮な夜鶴の姿に一心は視線を奪われてしまう。


「……日野、見すぎだから」

「いやあ、ポニーテールいいなあって。旭はどんな髪型にしても何でも似合うね」

「日野の前でポニーテールしかしたことないんだけど?」

「想像してみれば全部似合ってた」


 ツインテールやサイドテール、三つ編みも縦ロールも夜鶴がしているところを想像すれば一心の口元が自然と緩む。


「是非とも、色々な髪型を見せてほしい」

「はいはい、いつかその内にね。じゃあ、私はこー探してクラスに戻るから」

「うん。旭が帰ってくるの門の所で待ってるよ」

「それはどうかな。私が日野を待つことになるかもしれないよ」


 夜鶴は軽く手を振って木陰を探しに行く。

 改めて、一日手繋ぎデート――最低でも、夜鶴とデートする権利を手に入れるためにも一心は気合いを入れ直した。



 夜鶴とデートするためには一番――遅くても二十番以内に学校に戻ってくることが条件になっているがそもそもの話、この区内マラソンは競うために行われる訳ではない。

 一心が順位を気にしているだけであって、本来の目的は寒い冬をみんなで運動して体を暖めて乗り切ろう、というものだ。

 どれだけ先頭で帰ってこようとも体育の成績は上がらない。どれだけ真面目に取り組んだかで内申点には影響を及ぼすらしいがせいぜいその程度のもの。戦いは自分自身との戦いになってくる。


 それでも、はっきりと結果が出る訳じゃないにしろ、何人目で帰ってくることによって順位を気にしている生徒にとっては立派な戦績に変わる。

 やる気がある生徒ほどスタートとなる校門の前線に位置取り、適当に乗り切ろうとやる気がない生徒ほど後方に位置取っている。


 当然、少しでも時間短縮と走る距離を短くしたい一心は前線だ。しかも、前線の中でも先頭に位置取り準備運動を行う。クラスの運動部に入っている連中達と。


「随分とやる気があるんだな、日野」

「まあね。この日のために猛特訓したんだ」

「確かに、最近の授業中はめちゃくちゃ走ってたな。記録も日に日によくなってたし」

「そうだろう。俺は誰にも負けねえ」

「オレ達と張り合うってか。いいねえ、面白くなってきた」


 例え、相手が野球部だろうとサッカー部だろうと授業中に目を剥くような結果を出して到底敵いそうにない相手でも関係ない。

 これは、長距離走なのだ。足だけが全てではない。


 一心は自らの頭をトントンと叩き示す。


「俺にはここがあるからな」


 日夜、走りのトレーニングに加えて一心は素晴らしい作戦を企ててきている。負ける気がしなかった。


 その作戦を実行するのは開幕速攻だ。

 いよいよ始まる区内マラソンのスタートを報せる銃声が鳴り響いた。火薬の匂いを鼻にしながら一心は早速、作戦を実行した。


 踏み出した一歩目から徐々に加速して地面を強く蹴る。蹴って蹴って、蹴りまくって一心の体はどんどん前へと進んでいく。

 一心が練ってきた作戦は開幕速攻全力で走る、だった。常に先頭で走っていれば誰にも負けることがない、と気付いた時は自分のことを天才だと一心は恐ろしくなった。


 そのためにスタートダッシュで全力を出せるように練習を重ねた結果、見事に上手く行っている。

 後方からはざわざわざわざわと聞こえるが何を言っているかまでは一心の耳には届かない。


「ふははは。驚け驚け驚け。そして、恐怖しろ。恐怖した者はその場で立ち尽くし動くでない。ここから先は戦場だ。気を抜けばやられるぞ」


 気分も上がり、叫びながらでも一心の体はますます加速していく。

 ――なるほど。これがランナーズハイというやつか。スゲエ、力が沸いてくる。


 前方には誰もおらず、向かい風が気持ちいい。約二百人の男女がいる中の先頭で走るのは想像以上に快感だった――のだが。


「ぜえ……はあ……」


 しばらくして、一心の体調に異変が生じた。

 息が切れ、肺が苦しく、呼吸をするのが難しい。だんだんと足も重たくなってきて、思うように前へと進まない。


 ――お、おかしい。まだ始まったばかりでコースの半分も過ぎてないってのに……。

 全速力で駆けていた足はゆっくりと速度を落としていき、元気を失くしていく。


「お、日野じゃん。おっさきー」

「威勢がよかったのは最初だけかー?」

「学校で待ってるぜ。じゃあな」


 いつの間にか、追い付かれていた先ほど話していた同じクラスの運動部の連中達に背中をポンポンと叩かれながら、一心は一瞬で抜き去られた。


「ま、待ってくれ……」


 手を伸ばし、止まってもらおうとしても声は彼ら三人には届いておらず、当然足を動かし続けている。

 これで、先頭だった一心はあっという間に四番目まで落とした。


「ぐっ……これじゃあ、旭との手繋ぎデートが……」


 どうにか気力を振り絞って足を少しでも速く動かしながら前へと進む一心。

 しかし、そんな一心の横を一人、また一人と同じ体操着を着た走者が通り越していく。順番も一つ、また一つと下落して。


「お、いたいた」

「ひ、光流……」


 だいぶ後ろの方にいたはずの光流にも追い付かれ、隣に並ばれた。


「随分とお疲れのようだな」

「ぎゃ、逆にどうしてお前はそう余裕なんっだ……その見た目で」

「見た目は運動するのに関係ない。それに、一心は知っているだろう。僕が運動得意だってことを」


 小学生の頃から光流はスポーツを得意としていた。かけっこも常に一番で苦手な鉄棒だってすぐに出来るようになっていた。

 それこそ、昔は今みたいに前髪が長くなくて爽やかな姿に女の子達はキャーキャー言っていたものだ。


「で、でも。少しも疲れてないように見えるんだけど?」

「そりゃ、こちとらペース配分を考えて走っているからな」

「ペース、配分……?」

「全長七キロもあるんだ。馬鹿みたいに最初から全力疾走するからそうなる」


 言い返す言葉が見つからず、というか会話を続けられるほど余裕がなくて一心は黙々と走る。


「ところでひとつ、一心に聞きたいことがあるんだが。旭と一緒に居た女の子――雛森とはどういう関係なんだ?」

「そ、それを現在進行形で苦しんでる俺に聞く?」

「知りたいから聞いている」

「べ、別に。どういう関係もなにも旭に近付こうとしてまず声を掛けたのが雛森だったってだけだよ」

「それだけなのか?」

「それだけだよ。旭と雛森が友達だから一緒に居ることが最近は多いけど。俺は雛森のことを恋のキューピッドと思ってるよ」

「そうか」


 しみじみと呟いた光流。

 気にする余裕もないのに一心はどうしても光流が木陰を気にする理由が気になってしまう。


「どうして、そんなに雛森のことを気にするんだ?」


 そう口にして、一心は閃いた。


「ははーん、なるほど。さては、雛森に一目惚れしたな」

「……一心が羨ましいよ。単純で。じゃあ、僕は先に行くよ」

「あのさ、俺よりも後に学校に戻ってくれない? 二十番以内に戻らないと旭とデート出来ないんだ」


 友達としてお願いする一心に光流は鼻で笑って足を動かす速度を上げる。


「やなこった」


 あっさりと言って、光流はすぐに一心が目で追えない場所まで消えてしまった。


「くそ……この人でなしが――」

「あーーー、やっと見付けたーーー!」


 大きな声に驚いて振り返ればすぐそこまで木陰が迫ってきていた。


「なんで、みんなそんなに速く追い付くのぉぉぉ!?」

「私の足が速いから。じゃなくて」


 堂々と答えた木陰はすぐに焦ったような表情を浮かべた。


「大変。大変だよ。旭が足を捻っちゃった」

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