第15話 抱き枕にしてください

 ――あ、旭だ。

 登校中の一心は朝日に照らされながら艶やかな黒髪を揺らす、同じく登校中の夜鶴を見掛けた。後ろ姿だけれど程よい肉付きのスラッとした足をしているあのシルエットは夜鶴で間違いないだろう。


 一心はそのままのペースで夜鶴に近付き、横顔を覗き込む。

 やはり、夜鶴で正解だった。

 何度も本人でも写真でも夜鶴を見ているのだから一心が間違えるはずもなかった。


「おはよ」


 夜鶴は耳にイヤホンをしていて一心の存在に全く気付いていなかったが、図々しく夜鶴の視界に一心が入り込めば驚いたように目を丸くした。


「びっくりした……おはよう」


 イヤホンを耳から抜いて夜鶴はスマホを操作する。音楽でも止めているのだろう。一緒に登校するつもりのない一心は申し訳ないことしたな、と思いつつせっかく会えたのだから少しだけ話すことにした。


「この時間に旭と会うのは初めてだね。嬉しいな」

「私は家を出る時間変えてないから日野が早いのか遅いのか。どっち?」

「今日はだいぶ早く出たよ。ランニングしながら行こうと思って」


 今度行われる区内マラソン大会に向けて、一心は体力アップを狙いにしたトレーニングを今朝から取り組むことにした。

 そのためにいつもより早起きして、準備運動を済ませ、元々徒歩通学だったところを走って向かっていれば夜鶴と出会えた。

 早起きは三文の徳、というが本当だなと一心は早起き万歳と喜ぶ。


「旭がいっつもこの時間なら今度からはこの時間に出るから一緒に登校しよう」

「無理に合わせなくていいよ。バイトもして朝は早起きしてって日野が疲れるでしょ」


 夜鶴が心配する通り、一心は昨晩も高校生が働ける時間いっぱいまでバイトに励み、そのまま近所の公園に寄って筋トレをしたり、走ったりして寝るのがかなり遅くなった。

 そして、寝不足の体で今朝は早起きをして本音はしんどいだった。

 けれど、夜鶴と出会えただけで一心の疲れはふっとんでしまった。むしろ、元気がもりもりと沸いてくる。


「それでも、俺が旭に会いたいから会える時は一緒に登校してください」

「まあ、日野が頑張るなら私に止める権利はないから好きにしなよ。でも、ちゃんと声は掛けてね。イヤホンしてたら前しか向けなくて気付かないかもだし」

「分かった。それじゃあ、俺は先に行くね」

「……え、一緒に行かないの?」

「うん、今日はトレーニングの日だから。走っていく。旭に付き合ってもらうのは忍びないし旭とはここでお別れ」


 屈伸をして、リュックを背負い直す一心はすっかり準備万端だ。今すぐどこまでも駆け出せる。

 すると、夜鶴から可愛らしい質問をされた。


「日野はトレーニングと私、どっちが大事なの?」

「トレーニング」


 考える間もなく一心は答えた。

 夜鶴は目をパチパチと瞬かせた。信じられない様子だ。


「……日野って私を好きにさせる気ある? 好きな子が天秤に掛けられてるんだから迷わず好きな子を選ぶべきでしょ」

「好きにさせる気はめちゃくちゃあるよ。でも、それよりも今の俺には旭と一日手繋ぎデートする権利を獲得する方が重要だから」


 クリスマスイブに夜鶴とデートをしてからというもの、一心は夜鶴をドキドキさせられていない。あれだけ啖呵を切ったというのに成果はなし、という厳しい現実に焦りや不安なども少しは感じている。

 本当に夜鶴の体に異変を生じさせられるようなことが出来るのかと。


 それに加え、光流に言われた一心のこの気持ちが恋ではないということに戸惑い、迷いもある。

 でも、難しいことは考えないように決めてこれまで通り、一心は色々と試して夜鶴の様子を伺っていこうと決めた矢先に降って沸いた一日手繋ぎデート出来るかもしれない話。


 もちろん、夜鶴を好きにさせて付き合うことも重要だが付き合わなくてもデート出来るのだ。しかも、手を繋いで。一心からすればそちらも超重要である。


 それに、夜鶴を他の男子が目に入らないように夢中にさせることが出来れば好きにさせれる可能性だって出てくる。

 つまるところ、一心は本気だった。


「あっそ」


 自分のことを馬鹿みたいに一途に好きだと伝えてくる一心にトレーニングを優先されたことが飼い犬に手を噛まれるような気分だったのか夜鶴は不機嫌そうに腕を組む。

 朝から高校生にしては発育のいい二つの膨らみが強調されるのを目撃してこれまた早起きをして良かった、と一心は夜鶴の胸元を注目して英気を養う。


「せっかく、旭が一緒に行きたいって思ってくれたのにごめんね」

「別に、そんなことこれっぽっちも思ってないし?」

「マラソン大会が終わったらたくさん一緒に行こうね」

「知らないし早く走りに行けば?」

「うん。じゃあ、また学校で」


 躊躇することもなく走り出した一心に夜鶴は口を開けて呆然と固まった。


「……ちょっとは躊躇いなさいよ、馬鹿」


 そう呟いた夜鶴の声を一心が耳にすることはなかった。後ろを振り返ることなく一心はどんどんと前進していたから。




 区内マラソンまでの日はあっという間に過ぎていった。

 日夜、トレーニングに努めた一心は万全の体調で当日を迎えた。


 各学年ごとにスタートされるため、グラウンドには一年生の全生徒が集まっている。そのために数、ざっと二百人。全学年となるとその数は三倍に膨れ上がるため、区内に迷惑が掛からないよう時間を分けて行うらしい。

 一年生は朝からのスタートだった。

 そのために、まだ眠たそうにあくびをしている生徒もたくさん見受けられる。


 ――うん、余裕だな。あっちも余裕だ。

 今日、この日のために全力を注いでトレーニングしてきた一心にとっては相手にさえならない怠け具合の連中だ。心の中で蹴落としていく。


「おはよー、日野」


 次々と相手にならない生徒を蹴落とし、気分よくなっていれば声を掛けられた。木陰だった。夜鶴の手を引いている。


 二人とも体操着に身を包んでいる。今日は寒くて長袖を着ているが足は半ズボンだ。二人の白くて細い足が一心には寒そうに見えて仕方がない。

 半ズボンなのは一心も同じなのだが。


 それにしても、と一心は夜鶴を見る。

 今日は誰もが体操着を着ている。体操着に違いはなく、代わり映えのしない衣装だ。

 だというのに、一面雑草の中に一輪のバラが咲いているかのように夜鶴は新鮮に写る。


「おはよう、雛森。旭も」

「二回目でしょ。今朝も、すれ違ったんだから」

「それでも、旭に何回もおはようって言いたいし言ってほしいな」

「はあ~めんどくさ。……おはよ」


 短く言うと夜鶴はそっぽを向いてしまった。つまらなさそうに爪先でグラウンドの砂をつんつんしている姿がいじけているような幼子に見えて一心は木陰に聞く。


「なんか、旭が機嫌悪そうに見えるんだけど何か知ってる?」

「ここのところ、日野が会いに来ないって泣き言漏らしてたよ」

「えー何それ、めちゃくちゃ可愛いんだけど。ごめんね、旭」

「ちょっと、変なこと言わないでくれる?」


 確かに、ここ数日の間、一心は夜鶴に会いに行っていなかった。日々のバイトに今日のためのトレーニング。夜鶴と会っても朝の登校中か授業の合間に廊下ですれ違うくらい。

 短時間ではじっくりと夜鶴に構ってあげることも構ってもらうこともなかった。一心もどこか物足りなさを感じながら毎日を過ごしていたので夜鶴も同じで嬉しくなる。


「そんなに旭に寂しい思いさせていたんだね……」

「ほらー、こーが変なこと言うから信じちゃったじゃない。日野は純粋なんだから変なこと吹き込まないで」

「でも、今だってなかなか日野に会いに行こうとしなかったじゃん。日野が会いに来ないからって拗ねてたんでしょ?」

「そんなことない」

「俺はいつだって旭専用日野くんだから今日はお持ち帰りしていいからね。一日中傍に居るから抱き枕にしてください」

「もお、やだ。頭痛い」


 こめかみを抑えながら覚束ない足取りの夜鶴はこれから走るというのに随分とお疲れのように見える。


「大丈夫? 体調悪いなら安静にしてないとダメだよ」

「その純真な目で本気で心配するのやめて。誰のせいだと思ってるの」


 ジトッっとした目を夜鶴から向けられて一心は自らに指を向ける。


「日野はね、すぐにありもしない話を信じすぎなの。私、全然寂しいとか思ってなかったし、会っても一瞬だけで少ないなとかも思ってなかったから。分かった?」

「わ、分かった」


 グッと顔を近付けて説得させてくる夜鶴に一心はたじろぎを隠せない。

 一目惚れするほど大好きな夜鶴の顔が目と鼻の先にある。こんなの緊張しない方がおかしかった。


「それから、たっくさん練習したんだからちゃんと結果に反映させてよ。二十番以内には必ず入って」

「入るよ。ていうか、先頭で学校に戻ってくるから旭こそ約束忘れないでね」


 夜鶴と一日手繋ぎデートをするために今日まで頑張ってきたのだ。そんなの知らない、と言われては流石にショックで一心の百ある夜鶴への好感度が一ほど下がってしまうかもしれない。


「覚えてる」


 改めて約束を取り付ければ木陰が不思議そうに首を傾げた。


「何か約束してるの?」

「俺が二十番以内に戻ってこられたら旭がデートしてくれることになってるんだ。しかも、一番だと一日中手繋いでもいいっていう超待遇付きで」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、私は日野の優勝阻止しようっと」

「なんで!?」

「だって、その方が面白そうだから」


 にやり、と悪どい笑みを浮かべる木陰はかつては一心の恋のキューピッドだったはずが変わり果てていた。

 けれど、そんな姿も可愛らしさが存在していてどう見ても一心は木陰に敗北している姿を想像出来ない。

 だから、余裕の態度で受けて立つ。


「よほどの自信があるようですね。いいでしょう。かかってきなさい。軽く捻って返り討ちにしてあげましょう」

「舐めてるけど、こーとんでもなく速いよ」

「……え、そうなの?」

「うん。クラスでも五番以内には入ってるかな」


 実際に測った記録でもあるのだろう。忖度なしで木陰が頷いた。


「因みに、旭だって相当速いよ。ねー」

「まあね。だから、日野に一つ言っておかないといけないことがあるの」

「な、何……?」

「やるからには私も一番目指すから、せいぜい気を抜かないこと。手繋ぎデートは渡しが阻止するから」

「酷いっ!?」


 人差し指を向けて夜鶴が宣伝した。

 まさかの、夜鶴までもがライバル宣言をしてきて一心はショックを受ける。

 周りは敵だらけだった。

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