第14話 ずっと手を繋いでいいよ
「はあ……」
図書室で本を読みもしないのに席に座ってダラダラと一心は時間を潰す。もちろん、座っているのは受け付けの一番近くだ。
ここからだと、読書中の夜鶴の顔がよく見える。眺めているだけでも十分楽しいけれど欲を言えば夜鶴と話したい。
しかし、それが出来ない状況にあった。
理由は至極当然で図書室は静かにしないといけない場所だからだ。小さい声での多少の会話は許されても、大きな声での会話は先生や図書委員に注意される。
しかも、今日は一心の他にも図書室を利用している生徒がちらほらといて、みんなの読書の邪魔は出来なかった。ましてや、本に用もない一心が図書委員の夜鶴とダラダラと話して周りの迷惑になれば出禁になってしまうかもしれない。
それだけは避けねばならなかった。
かといって、夜鶴と一言も話さずに帰るのは嫌だ。せっかく、夜鶴に連絡して委員の仕事の日だと確認までとったのだ。短くてもいいから話したい。
だから、こうして図書室が閉まる午後六時まで夜鶴を待っているのだがまだ一時間以上もあって暇だ。
本を読んで待っていればいいが六限目の現代文で文章は嫌というほど読んだ。もう活字を体は受け入れてくれなかった。
組んだ腕を机に乗せて、その上に右頬を乗せる。
読書中の幸せそうな夜鶴でも見ていれば自然と時間も経つだろう。そう考えていた一心だったが音のない心地よい世界に睡魔が襲ってきて眠ってしまった。
「…………は……旭……?」
頭に何かがあたる感触がして目を覚ませばすぐ近くに夜鶴の姿があった。一心と同じように机に乗せた組んだ腕にさらに横顔を乗せている。
一番近くから一心は夜鶴を見ていたが距離は空いていた。その距離がいつの間にか埋まっていてすぐ真横に夜鶴が座っている。
「おはよ、日野」
「おはよう……おはようっ!?」
すぐ至近距離から繰り出された言葉。
朝、誰にでも使う言葉なのに今の夜鶴からはどことなく同棲している彼女がベッドまで起こしに来て耳元で囁くような甘さを感じて一心は元気よく体を起こす。
「え? え? なんで、旭がここに?」
「日野のこと、起こしにきたの」
どうして夜鶴が起こしにきてくれたのだろうか、と覚醒しきっていない頭で考えた一心は一つの答えを導きだした。
「ああ、なるほど。注意しに来たんだね。寝るならみんなの邪魔になるから帰れって」
「寝惚けてるの? 周りをよく見てみなよ」
そう言われて一心は周りを見渡す。
ちらほらと読書しに来ていた生徒は誰一人と残っていなかった。
「もうみんな帰っちゃったよ」
「いつの間に……って、ことはここには俺と旭しかいない?」
「そうなるね。何かするの?」
「旭と話したいなーって思ってたから嬉しいなって」
「その割りにはすぐに寝てたけどね」
「旭の顔見ながら眠りにつくのめっちゃ気持ちよかった……毎晩、添い寝してほしい」
「そんなこと言って、私のこと色々と触ってきそうだからやだ」
「ちぇっ。まあ、付き合えばお泊まりとかするだろうしその時を楽しみにしとこーっと」
「ほんとぶれないね。じゃあ、私は日野がすぐ寝落ちするくらい疲れさせよっと」
疲れ、という言葉を聞いて一心は体が重たいことに気付き、腕をグーッと上に伸ばす。それから、一気に落として脱力するとふらふらと机に倒れ込む。
「なんか、お疲れの様子?」
「今日、体育でマラソンがあっていっぱい走ったから足が棒のようになってるんだ」
「もうちょっとしたら区内マラソンがあるしその練習でしょ。私も最近の授業は持久走ばっかりでよく分かるよ」
「だよねー。ああ、大会嫌だなあ。憂鬱だなあ」
「日野は走るのが苦手なの?」
一心は運動神経がいい訳でも悪い訳でもなく、得意でも苦手でもない。好きでも嫌いでも。
だから、疲れることが分かりきったマラソン大会はあまり乗り気にならないのだ。
それに、もう一つ。憂鬱だー、とだらけてしまう理由がある。
「苦手ではないけど、そもそもマラソン大会を実施してほしくない」
「極端だなあ」
「だって、足が速くもないから目立って旭に格好いい姿見せることも難しいし、とんでもなく足が速い男子に旭がドキドキしちゃうかもしれないでしょ。開催するべきじゃない」
「そんなことで中止運動したら怒られるよ」
そんなこと、と夜鶴は言うが一心には重要なイベントである。ぶっちぎり足が速くて先頭で帰ってくるような男子の格好いい姿に夜鶴の体が異変を起こさないとは限らない。
どれだけ一心が好きだと告白しても何も異変を生じさせられなかったのに、ラーメンには夜鶴の頬を蒸気させる力があった。
未来は何が起こるか分からないのだ。一人の女の子と結ばれるためには、全人類の半分という莫大な数のライバルを相手にしなければならない。起こり得そうな不測な事態は事前に排除するに限る。
「それなら、頑張って日野が目立ってよ」
「俺が目立つ?」
「そう。日野が目立って、私に日野しか見れないようにしてくれたら万事解決でしょ」
確かに、夜鶴を夢中にさせられるのならやる価値は大いにある。一心が男らしく格好いい姿を見せて夜鶴をドキドキさせられたならとっても素敵なことだろう。
夜鶴のためなら、何でもする覚悟が一心にはある。だが人には限界というものも存在している。
「自慢じゃないけど、本当に速くないよ」
「速さだけが全てじゃないでしょ。長距離になるんだし、ここを使わなきゃ」
とんとん、という夜鶴は自分の頭を指で叩きながら示す。世の中は足の速さで決まるのではないと。頭脳戦という素晴らしい戦法があるのだと。
「なるほど、頭脳戦か……」
それならば、一心にも目立つ可能性はあるだろう。当日までも幸い日はまだある。徹底的な戦略を練り、練習に励めば当日は夜鶴をメロメロにさせられるかもしれない。
「二十番以内に帰ってこられたらデートしてあげる」
「デートっ!?」
「どう? 頑張れそう?」
「めちゃくちゃ頑張る!」
傍で夜鶴に応援をしてもらえれば、苦手なピーマンを完食するのも逆立ちで校内一周するのも余裕で達成出来そうだ。
今回はご褒美が待っている。一心は何でも出来る気がしてならなかった。
馬鹿で単純な一心に夜鶴はクスリと微笑むと腕を伸ばす。
「ほーんと、単純なんだから」
「……あの、旭さん。この手はなんでしょうか?」
夜鶴が伸ばした手は一心の頭に置かれ、一心は小さい子をあやすように優しく撫でられていた。
突然の優しい夜鶴の行動に一心は困惑を隠せない。
「んー、なーんか日野って見てて撫でたくなるなんだよねえ。なんだろう、やっぱ、犬みたいだからかな。お手」
「ワフ!」
空いていた手を差し出してくる夜鶴に一心は流れるように手を重ねた。夜鶴は満足そうにわしゃわしゃと髪をかき乱すように雑に撫でてくる。
それでも感じる愛情らしきもの。
夜鶴が望むなら一心はいつでも犬になる、と思うもののほんの少しだけ不満があった。
「……俺はさ、旭に触れたらダメなのに旭は触れたい時に俺に触れるのってズルくない? 俺も旭の髪の毛触りたいよ」
「何もズルくないでしょ。だって、日野は私が好きなんでしょ。なら、好きな女の子から触れられたら嬉しいって喜ぶべきことなんだよ。それとも、嬉しくないの?」
「嬉しいです。もっと色んな部位に触れてほしいですぅぅ」
夜鶴と触れ合えるのなら一心は心から喜べる。
けれど、今は一方的にされているだけ。触れられているだけなら、触れ合うよりも心の距離みたいなものを感じて嫌だった。
「でも、やっぱり、ズルいと思います。なので、俺にも旭に触れる権利を求めます」
「はあ、分かってないね日野は」
立候補するように一心が手を挙げれば夜鶴は呆れたようにため息を吐いた。
どうして呆れられるのか一心にはさっぱり理解出来ない。
「想像してみて。女の子がさ、彼氏じゃない相手に触るのはなんか好きなのかな~って可愛げがあるでしょ? 今の私みたいに」
「うん。うん……?」
「でもさ、男の子が付き合ってない女の子に触るのは犯罪だよ? 捕まるよ?」
「そんなに重罪なの!?」
「当たり前でしょ。つい出来心でって逮捕されちゃう人もいるんだから日野はそんなことにならないでね」
「これが、性別の差かあ……因みに、旭は俺のことが好きだから触ってるの?」
「嫌いじゃない、かな」
「嫌いじゃない、かあ」
ここで好きだから、と夜鶴に言われていれば一心も納得していた。しかし、返ってきたのは嫌いじゃない、という曖昧な答えに一心はガッカリしてしまう。
嫌われていないだけよしとしよう、と前向きに捉えるものの、やはり不満は残ってしまう。
一心だって、夜鶴に触れたいのだ。
だから、隠しきれない不満が顔に現れてしまった。
「そんなに私に触れたいの?」
「旭が好きなんだもん。好きな子に触れたくなるのは男女関係なく芽生える気持ちだよ」
「しょうがないなあ。耳かして」
言われた通りに一心が耳を傾ければ夜鶴が口元を近付けてくる。
かなりの至近距離に一心が驚くのも束の間、夜鶴は一心以外の世界の誰にも聞かせないように小声で囁いた。
「じゃあ、日野が一番になったら手繋ぎデートしてあげる」
耳に伝わる吐息と扇情的な囁きにくすぐったくなった一心がゾクゾクしていると夜鶴はそっと離れていく。
「手繋ぎ、デート……?」
「日野が学年の中で一番に帰ってこられたらデート中、ずっと手を繋いでいいよ」
「マジか。そんなことがあっていいの?」
「いいよ。だから、今日は我慢出来る?」
「うん!」
手のひらの上でころころと転がされていることにも気付かないで頷く一心に夜鶴は「ほんと単純」と漏らす。
しかし、一心がその意味に気付くことはない。
一日手繋ぎデート。
その甘美な響きのご褒美を得るために燃えて聞いてすらいなかったから。
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