呪詛遊び

第7話 災厄

　教室に着いて僕が席に座ると、前の席の橋本さんが振り返った。

「もうギリギリだよ？」

「あぁ……、ちょっと寝坊した」

「そうなんだ。良かったね、間に合って」

「うん……」

　今日も橋本さんは、ブレスレットを着けている。耶永が言っていた通りに、今日災いが起こるのなら、橋本さんも被害を受けてしまうのだろうか。

　橋本さんは、僕が授業中に寝ていると起こしてくれたり、こっそり飴（あめ）をくれたりする、いい人だ。傷ついて欲しくない。

　何か、怒らせたり傷付けたりしないで、ブレスレットを外させる方法はないだろうか。

　こういう時こそ、僕が霊感があるという秘密（ひみつ）を守ってきた、誤魔化（ごまか）しスキルが役に立つ時じゃないのか？

「ねぇ、橋本さん。さっき先生達が話してるのを聞いたんだけど……。今日、どこかで持ち物検査をやるらしいよ。そのブレスレット、取り上げられるんじゃない？」

「えっ？　そうなの？」

「うん。ポケットは見つかるかも知れないから、ロッカーの辞書とかに挟んでおいたら？」

「そうする！　ありがとね。あ、他の子にも教えてあげないと」

「うん。先生にバレないように、仲良い子だけにした方がいいよ」

「分かった」

　橋本さんは次の休憩時間に、同じクラスの友人達のブレスレットを外させた。

　まぁ、バレるとまずいのは先生ではなく、耶永なのだが。

　せっかく今日何かが起こる、と教えてくれたのだから、バレて他の日にされると、防ぎようがなくなってしまう。後は、何か起こった時に、自分に出来ることを考えよう、と思った。

　そして、昼休憩になると同時に、異変が起こり始めた。

　耶永が最後の生徒に、ブレスレットを渡したのだろう。

　廊下に出ると、何だかいつもより暗く視える。

　朝からずっと頭痛はしていたが、廊下に出た瞬間、立っていられない程の痛みが襲ってきた。

　———この痛みは、なんかおかしいぞ……？　

　そう思って一度教室に戻ろうとした時、ガシャーン！　と大きな音がして、隣の教室から椅子が飛び出してきた。

　色んな場所から悲鳴が上がり、割れたガラスを被（かぶ）ってしまった人達がその場から離れると、今度は2人の女生徒が取っ組み合ったまま、廊下に転がり出てきた。

　後に付いて出てきた女生徒達は、誰も2人の喧嘩を止めようとはせず、ただ煽（あお）っているだけだ。

「やっちゃえ！」

「生意気なんだよ！」

「もっと殴れよ！」

　大きな声で、狂ったように叫び続けた。完全に常軌（じょうき）を逸（いっ）している。

　取っ組み合っている女生徒2人も、お互いを罵倒（ばとう）しながら、叩いたり蹴（け）ったりを繰り返す。女の子が取っ組み合いの喧嘩なんて、尋常（じんじょう）じゃない。

　周囲の生徒達は、ただ戸惑（とまど）うばかりで立ち尽（つ）くしている。

　そして、止める間も無く、徐々（じょじょ）に喧嘩はエスカレートして行き、片方の女生徒が転がっていた椅子（いす）を、相手の背中に叩きつけた。

　椅子で殴（なぐ）られた方の生徒は、背中を押さえて座り込んでしまい、ゔぅ、という小さな唸（うな）り声が聞こえる———。

　誰もが、そこで終わると思った。

　しかし、次に女生徒が立ち上がった時には、何故かシャーペンを手にしていた。

　握りしめた手には血管が浮いていて、それを見た僕は、映画で観た殺人鬼の姿が脳裏に浮かんだ。

　———え？　何すんの……？　

　僕の背中がぞくりとした瞬間、シャーペンを持っていた女生徒が、相手の髪を掴（つか）んで、引き倒した。

　そして、馬乗りになって、腕を振り上げる。

　周りからは一斉に悲鳴が上がり、前の方にいた生徒は皆、手で顔を覆った。

「何やってるんだ！」

「やめなさい！」

　次の瞬間、先生達の大きな声が響き渡り、馬乗りになっていた生徒は引きずり下ろされた。

　そして倒れている生徒は、流石（さすが）に恐怖（きょうふ）で目が覚めたのか、倒れたままで泣いている。

　もし、先生達が来なかったら、どうなっていたんだろう。

　———自分なら何とかできるなんて、ただの幻想（げんそう）だ。

　僕を含む周りで一部始終（いちぶしじゅう）を見ていた生徒達は、時が止まってしまったかのように、誰ひとり動くことができなかった。人間は、あまりに衝撃的（しょうげきてき）な出来事があると、思考回路（しこうかいろ）が停止してしまうようだ。

「教室に戻れ！」

　先生達の声で正気を取り戻した僕が耶永を見ると、彼女はいつの間にか、倒れている女生徒の頭のそばに立っていて、うっとりとした表情で女生徒を見下ろしていた。

　それはまるで、宝石でも眺（なが）めているかのような表情で、明らかに他の生徒達とは違う反応だ。

　そして、耶永が誇（ほこ）らしげな表情（かお）で、ゆっくりと僕の方を向くと、一気に身体中の血が冷たくなったように感じた。

　———化け物って、こういう奴の事を言うんだ……。

　冷たくなった肩が、ぶるりと震えた。

　たとえ、あのまま友人が刺されていても、きっと耶永は同じ表情で僕を見ただろう。彼女にとって、友人なんて、ただの玩具（おもちゃ）に過（す）ぎないのだ。

　他の生徒達が教室に戻っていくと、誰もいなくなった廊下に、耶永が贈ったブレスレットが落ちている事に気が付いた。

　僕は触るのが怖かったので、自分のものさしでブレスレットを掬（すく）い上げ、焼却炉（しょうきゃくろ）へ向かった。

　炉（ろ）の中はゴミを焼いた残り火があったので、そこへブレスレットを投げ込むと、ブレスレットは端（はし）の方から少しずつ燃えて行く。

　しばらくすると、パシっと音がして、飾りの玉が割れた。

　そして、覚悟はしていたが、信じられない光景が目に飛び込んできた。

　橋本さんが言っていた通り、淡いピンクと水色のブレスレットが見える。そして飾りの珠（たま）は、可愛らしいピンクに金色の模様が入っていた。

　やはりずっと視えていた、あのどす黒い赤と濃（こ）い紫は、耶永がかけた呪いの色だったのだろう。一瞬、お香のような甘い香りもして、それが呪いの匂いだったのだと気が付いた。

　燃えていくブレスレットを見ながら、僕はただ焼却炉の前で立ち尽くしていた。僕は無力だ。知識もない。もしまた何かが起こった時、周りの人たちを守ることはできるのだろうか———。

　数日後、大喧嘩をした2人の生徒は、別の学校に転校すると聞いた。

　そして耶永も、家庭の事情という事で、また転校していった。

　僕はやっと、普通の生活に戻る事ができたと思う———

　———あれからもう何年も経った筈なのに、僕は、満足そうに目を細めた耶永の横顔が、未だに忘れられない。

　あれは人だったのだろうか、それとも、化け物だったのだろうか。