第12話 うわがき


 そして気がつくと、私は見慣れた自分の家のリビングにいた。

 

「……」


 いやまあ、わかってる。

 私に瞬間移動の能力なんてものはなく、私の体は鎌倉さんの家のリビングにいるまま、一歩だって動いてはいないだろう。

 だからこれは精神的なお話。

 つまり気のせい。私の見ている妄想だ。

 だってその証拠に――


『……』

「……」


 私の目の前には幼い頃の姿――具体的には小学六年生のときの――をした『私』が立っていて、大きくなった私のことをこうして見上げているんだもの。



★★★



 「この日」のことは未だによく思い出す。

 ていうか、忘れようと思って忘れられるものでもない。

 「実の母親に母親じゃない宣言をされる」、なんて珍しい体験は、幼い私の心にしっかりと傷を残していて、だから今でもふとした拍子にこんな風に「この日」に戻ってきてしまうことがあるのだ。

 そしてそれは大抵の場合、自分にないものを見せつけられたときに起こる。

 例えば、手を繋いで歩いている親子連れを目撃したときとか、同級生が親の手作りのお弁当を持ってきたときとか。テレビのドラマで、仲直りをしている親子の様子を眺めているときとか。

 そういうときに生まれてくるネガティブな感情が、私の精神を「この日」に引き寄せているのだろう――そう思っていた。


 だけど、今回は特殊なケースだ。


 同級生のために料理を作って、それを美味しいと誉められる――そんなシチュエーションにネガティブな要素はなく、むしろポジティブに満ちている。

 それなのにどうしてここに戻ってきてしまったんだろう。


「不思議だね」

『……』


 問いかけてみても、目の前にいる幼い『私』はなにも答えない。

 だけど心なしか、その表情は嬉しそうに微笑んでいるようにも見える。

 私ってそんな表情もできたんだな――と他人事のように思う。


「ねえ、君なんでしょ?嫌がる私に無理矢理豆腐入りのハンバーグあのメニューを作らせたのはさ」

『……』


 『私』はなにも答えない。

 だけどその沈黙と微笑みが答えになっているような気がした。


「……ありがとね。おかげで鎌倉さんに美味しいって言ってもらえたよ」

『……』

「思えば、ずいぶん長いこと君をこの日ここに閉じ込めちゃってたね」


 目の前の『私』の笑顔を見て気がついたこと。

 つまり私は、ただ単に意地を張っていただけなのだ。

 好きだったはずの料理を封印したり、食べ飽きた菓子パンをそれでも齧り続けていたり、貧乏ってダメだなあ、と卑屈になってみたり――そうやって自分で自分の時間を止め続けていたのだろう。


 バカみたいだ。


 誰かのくれた「美味しい」というたった一言で、私だってこんなにも笑顔になれたというのに。

 


★★★



 やがて、玄関の方から物音が聞こえてきた。

 がちゃがちゃと、ドアを開けようとしている音。

 それを聞いて、私はぎくりと怯えてしまう。

 だって、「この日」に家に帰ってくる人は、たった一人しかいないはずなのだ。


 どうしよう、と思って『私』の方を見る。

 と、『私』は案外平気そうな顔をしてこちらを見上げていて、目が合うと頷いた。


 ――大丈夫だよ、もう平気。


 そう言っているような仕草だった。


「……ほんと?」

『……』

「……ほんとにほんと?」


 何度も確認してしまう。

 自分でも甘ったれんなって感じだけど、自分相手だから許してほしい。


「……じゃあ、行ってくるけど」


 足を踏み出す。

 リビングのドアを開いて、廊下の向こうにある玄関へと足を進める。

 

 ふと、その途中で振り返って訊いてみる。


「ねえ、じゃあもうこれで君とはお別れ?」


 すると『私』はぶんぶんと首を振った。


「……ああ、そうか。違うんだね」


 これからは、そうやって笑った顔の『私』が、記憶の中のこの部屋にいてくれるんだ――そう思うとなんだか面白くて、私が今日ここに来てしまった、その理由がわかった。


 時間は戻せなくて、起こってしまった出来事は変更できない。精神に刻まれた嫌な思い出は一生消えたりしない。

 そう思っていたけど。


 


 今日いいことがあったから、ここにいる小学六年生の『私』も笑顔になった。

 そんな風に後から取り戻せる。そう思えば、色んなことを案外そこまで怖がる必要もないのかもしれない。


「……ふふ」

『……』

「……ねえ、じゃあ行ってくるから」

『……』


 少しだけ軽くなった足を翻して、今度こそ私は玄関へと向かって、ドアノブに手をかける。

 ふやけた風情の、スチールのドア。


 ノブを回して開くと、その向こうにいたのは――





 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る