第13話 やわらか



 目を開くと、目の前がほんのりと白かった。

 そしてなんだか顔の辺りに柔らかいなにかを感じている。


 ――なんだろう、これは。


 目や鼻先にふわふわとした、まるで掛け布団のように暖かくて安心で、少し懐かしくもあるような、そんな柔らかさを感じている。


 私はそんな感触が心地よくて、もっとこうして顔を埋めていたいと思う。

 でもその一方で、「大変、ヤバイ、今すぐ離れるべき」と警告を発している自分も見つけて、不思議に思った。


 ――何を言ってるんだろう。

 こんなに心地よくて安心できるものから、わざわざ離れる理由なんてあるんだろうか。


「……ん?」


 と、そこまで考えたところで私の意識は急速に覚醒をはじめて、その警告が正しかったことを知る。


 あれ、なんかぼうっとしていたけど、私は今どこにいたんだっけ?

 確か鎌倉さんの家にいるんじゃなかったっけ?

 それに、顔に感じている柔らかさは、ほんのりとした熱も発している。

 そう、それは例えるなら、まるで他人の体温から感じる温もりのような……


「……」


 おそるおそる、それから顔を離してみる。

 すると目の前にぼんやりとにじんだ白い丸のようなものが見えていて、よく眺めるとそれはブラウスのボタンだった。

 ああ、制服だ――そう思って見上げると、目の前には私のことを見下ろす鎌倉さんの顔がやっぱりにじんで見えていた。

 感じていた柔らかさの正体は、彼女の胸の感触だったのだ。

 そしてエプロンを着たままの私の背中には、彼女の両手が回されている。

 つまり、私は自分の頭を鎌倉さんの胸に押し付けて、まるで子供みたいに抱き締められていた、ということになる。

 

 ……どうしてこんなことに。


「……鎌倉さん?」

 

 呼び掛けてみる。

 真剣で、なんだかちょっと怖い顔で私のことをじっと見ていた彼女は、私の声を聞いて我に帰ったように、「ご、ごめんね」、と謝って、私の背中から両手を離した。

 

「でも、その、なき止ませる方法が他に思い付かなくて」

「……なき?」


 なき、って、泣き――?

 という漢字が頭の中に浮かんだところで、私は自分の頬になにかの液体が流れていることに気がついた。

 その液体は頬よりもっと上、ちょうど目の辺りから湧き出していて、ああ、だからなんか景色がにじんで見えてたのか――と私はなんだか冷静だった。


「……私、泣いてる?」

「……泣いてる」

「……まじ?」

「……まじ」

「……そっか」


 頬を流れている液体の温度と裏腹に、私の頭はさらに冷静になっていって、このよくわからない状況を分析し始める。

 するとこれはもう、「そっか」と言うしかない状況だな、という結論しか出てこない。


 そうだ、ここは鎌倉さんの家のキッチンで、そんな初めて訪れる人の家で私は料理を作って、出来て、それを味見してもらって、「美味しい」と言われて――突然泣き始める。


 うん。

 なにやってんだ、私は。


「ご、ごめんね?夜野ちゃん」


 鎌倉さんがさらに謝ってくる。

 どうして彼女が謝ってるんだろう。どう考えてもこの場合、そうするべきなのは私の方じゃないのかな。

 

「いや、こっちこそ、いきなり泣いたりしてごめん」

「よ、夜野ちゃんはなにも悪くないよ。ダメだって言ってたのに無理矢理お願いした私が悪いの。ごめんね、ほんとに、ごめん」

「……鎌倉さん?」


 さっきまでの真剣な表情を崩して、声も震わせて、鎌倉さんはさらに謝る。


「ごめん、わ、私、調子に乗っちゃって……」

「ねえ、落ち着いて?」


 その両肩に手を置く。

 なんだか顔色まで青ざめてしまっているし、呼吸も荒くなっているし、表情の輪郭が歪んで見えている。

 

「大丈夫、鎌倉さんのせいじゃないよ」

「……」

「あのね、私、あのメニューに嫌な思い出があってさ、それをちょっと思い出しただけなんだ。だから、私が泣いたのは鎌倉さんのせいじゃないんだよ」

「……ほんと?」

「本当。だからそんなに謝ったりしないで」


 ゆっくりと、まるで子供に言い聞かせるみたいに言うと、だんだんとその呼吸が落ち着いてくるのがわかった。

 肩の震えもおさまってきたようだ。


「大丈夫?」

「……うん、ありがとう」

「いいよ、むしろお礼を言いたいのはこっちの方なんだから」

「……え?」


 鎌倉さんは不思議そうに首をかしげる。


「鎌倉さんが、美味しい、って食べてくれたおかげで、嫌な思い出がいい思い出に変わったんだからさ」

「……ねえ」

「なに?」

「……その嫌な思い出って、なにがあったのか聞いても、いい?」

「……」

「……い、嫌だったら無理にじゃないから」


 私が口をつぐんだせいか、鎌倉さんは慌てたようにそう付け加えた。

 しかし私は、嫌だ、なんて思わなかった。

 むしろその逆に、鎌倉さんに聞いてほしい、とすら思った自分を見つけてしまって、戸惑っていたのだ。

 あの日の話。

 母親との話。

 それは私のなかでタブーになっていた話題のはずだ。

 社交的ではない私でも、小中高と一応友達はいて、でもその誰にも話すことはなかったし、これからも誰にも打ち明けるつもりもなかった。

 ――そんな話題のはずだったのに。


「……あのね」

「……うん」







 

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