第21話 わんこはやらかす


「――はよ、ふーとくん、おきてっ」



――朝の気配に、耳元でそう、甘い吐息と共に囁かれる声が、俺の意識をだんだんと鮮明にさせていく。


ぽんぽん、と体はリズムよく揺り動かされ、それも、眠気から俺を解き放とうとする。



不意に、ぎしっ、とベッドがきしむ音が響き、柔らかい布団が沈むのを感じた。



「ん……」

「ふーとくんの寝顔……かわいいっ♡」



もうちょっと寝かせてくれ……うーん……。



俺の意識が少し冴え始めた途端、突如、ちゅっ、という乾いた音が耳に届いた。


遅れて、もちっ、と頬に触れる、ぬくもりを帯びた肌。



……!?!?!?


……!?!?!?!?!?!?!!



「はぅっ!?」



俺は、今の状況を朧げに察した途端、がばっとほとんど反射的に身を起こした。


途端、視界に入ってくる眩しい太陽の光と、そして……視界をほとんどうめつくす、人影。



ぎしっ、とベッドがきしむ音がし、俺は急速に冷やされてゆく脳で、何が起こっているのか考えようとする。



「わ、わわっわっ、しちゃった、しちゃったよおおっ、どうしようっ!?」



その声が、遠くの方で聞こえているような錯覚に陥りながらも、俺は目を何度も瞬かせる。


そして、その人影と目が合うなり――



「あは、やっと起きたあ」


「?! ?? !!!!?」



途端、視界を埋め尽くするるのいたずら気な顔が視界に出現し、さああっと意識が覚醒、俺は即座に顔を真っ赤にし、口をぱくぱくとさせた。



――るるは、四つん這いになっているのか、胸元が惜しげもなくさらけ出されている。


綺麗な顔面は、限界まで俺に近づけられていて、俺はまだ完全に状況を理解していないままひゅっと息を呑む。


そして、るるの体温と体、顔は、俺の顔とあと五センチほどしか離れていない……どういうことだ、どういう……。



「え、あ、え」


「彼女からのおはようのちゅーって、どんな彼氏でも起きれるって聞いてたけどっ……やっぱり、本当だったんだね! うううっ、初めて、だったんだよっ!?」


「!?!?!?」



これは、まだ、夢……なのか? 


しかし驚異のスピードで、まだぼんやりとしていた意識と視界がばっと晴れ、頭が急速に冷やされていく。



「へ……はっ!?!?!?!?」



そこで完全に目が覚め、感覚が体中に戻るなり、俺は急いで状況確認をした。




――そこは、俺の寝ているゲストルーム。そこに違いはない、が……。



ぎしっ、とベッドが音を立て、俺の脳がそのことを理解したくない、というようにして思考を妨げようとしてくる。


……が、俺はようやく現実を悟り、そして二度目に、口をパクパクさせた。



「おはよう、ふーとくん!」



ベッドの上に乗りこみ、俺の上に覆いかぶさるようにして……るるが、俺の顔に、その綺麗な顔を寄せていたのだ……!?!?



「はぁ!?」

「えへー、本当はびっくりさせようと思ってたんだけどねー……先に起きちゃったかあ」



自分でも驚くほど間抜けな声が出て、俺は反射的にベッドから転げ落ちた。



「ねえねえ、びっくりした? どうかな……っ?」



いや、十分にびっくりさせられたんだけど!? 


という心の叫びをもちろん口にできることはなく、俺はかあああっと頬を真っ赤にし、そして。




「なんで、俺のベッドにいるんだあああああああああっ!?!?!」




部屋の外、遠くの道で散歩をしていた野良猫が、びくっと身を震わせるくらいの声量で、俺は叫んだのだった。












「……」

「ごめん、ごめんってえええ」



――俺は食卓に着き、トーストにかぶりついて、朝食をとっていた。



「違うのっ、朝、起こしたらどうなるのかなって、そう思っただけ! 別に、変なコトはしてないっ!」

「なら、俺の頬に触れたやわらかいやつはなんなんだ!? ほら言ってみろ!!」

「えーと、く、唇です……」



頭をぺこぺこと申し訳なさそうに下げてくるるる。



「はあああああっ」



朝起きたら彼女がベッドの上で俺を床ドンしていて、さらに頬にキスを折素されるという事件が起こり、今俺は憤慨しているのだ。


憤慨……すなわち、恥ずかしさを隠すために取った手段である。



「はぁ……全く、困った彼女だ……やれやれ……」

「ねえふーとくん、顔がにやけてるよ?」



るるにびしっと指摘され、俺はびくっとして身をすくませる。


そうだ、るるの直感はいつも冴えてるんだっけ……まずいっ!?


俺はねおが焼いてくれた目玉焼きをほおばりながらも、慌てて澄ました顔をつくる。



「別に? 嬉しいなんてこと、全くないんだが??」

「怪しいなあ……」



るるが怪訝そうな顔を向けてきながらも、ぱくっとクロワッサンにかぶりついた。




「あなたたち、トースト二枚目食べる? 今なら焼けるわよ」


「あ、頂きます!」



と、ばちばちと無音の火花が散りそうな中、ねおがキッチンからそう呼びかけてくれる。



そう、昔からも知っていたが、昨日のハンバーグからも伝わった通り、ねおの料理の腕は侮れない。


この朝食だって、トーストにバターやジャム、コーンポタージュに目玉焼き、コーンフレークやワッフルまでが揃った、まるで高級ホテルのような朝食である。


どうやら、ねおが余程忙しくない時以外は、朝食はねおがつくることが多いそうだ。



「……んーんんまい!」



俺がコンポタのとろりとした甘美な味にうっとりとしていると、るるがはあーっとため息をついた。



「ちょっとは嬉しそうにしてほしかったなあ……だって、いつもの一時間以上も早起きしたんだからー」

「ああ……?」



時計をちらりとみると、今は六時四十五分くらいだ。


るるが起こしに来たのが、六時十五分くらいだったとすると……るるはいつも、七時十五分に起きてるのか!?!



「だーかーら、待ち合わせ場所に遅れるんだ、バカ野郎!」

「んゃーっ!」



わしゃわしゃとるるの頭を掻きまわすと、その天の川のように輝いたるるの髪が宙を舞い、思わず感嘆の息をついてしまう。



……そうか、るる、俺を起こすという行動のためだけに、早起きしてくれたのか……。


愛おしさが芽生え、俺は先程の罵倒を謝ろうと頭を下げかけたが……。



「あーでもよかった、昨日宿題やってなくて、そのおかげで早起き出来て!」

「は……しゅ、宿題……?」



るるがワッフルにメープルシロップをかけながらもそう言い、俺はぴきっと体を硬直させた。



「な、なんだと……しゅく、だい?」

「そうだよー? 今日提出期限の数学のワークがあったでしょ? るる、全然やってなかったから、大変だったんだよー! ……って、ふーとくん?」



俺はしばらく物を言えず、口を開いたり閉じたりを繰り返した。


丁度その時、ねおがお洒落なエプロンを身に着けたまま、食卓へと顔を出す。



「あら、宿題の話?」

「そうそうっ、めちゃくちゃ成績に関わるって言っててさ、本当は一週間前から言われてた課題なんだけどー……」



そんなの初耳……いや、覚えている。


一週間前、「まああと一週間もあるし、大丈夫だろ!」と勝手に決め込んでいたやつだ。



「ねお姉は……終わった? あの後すぐ寝て、朝起きたのも、るると同じくらいの時間だったでしょ? その後すぐご飯も作ってくれてたし……」

「私は、一週間前にとっくに済ませてるわよ」



澄ました顔でねおはそう言うなり、俺の向かいの席に座り、ココアに手を伸ばす。



「まあ、風斗は当然、終わらせて来てるるわよね?」

「んーだよねっ、一瞬言っとこうかなって思ったんだけどー……」



ぶるぶる、と体が震えるのを感じ、俺はようやく、硬直から解き放たれる。




「るる……」

「へ?」



俺はすう、と二度目に大きく息を吸いこみ、




「なんで、教えてくれなかったんだあああああああっ!!!」





「それは理不尽すぎるよふーとくん!?」



俺は、食卓に轟くような悲鳴を上げたのだった。













「ねえ、それはふーとくんの責任だと思う。るるのせいじゃないと思う」


「……」


「るる、別に悪いことしてない。……そ、そうだよね、ねお姉?」




――数十分後、るるねおの家を出た俺は、いまだにむすっとしていた。



だって……るるが起きた理由がそれで、さらに、その課題を忘れるだなんて……俺の数学の成績、儚く散ったぞ?



「はぁー-っ」

「大丈夫よ風斗、数学の先生は優しいから」



ねおが少しばかりの優しさと、九割哀れみの声をかけてくれる。



「あのなあ……あの先生が優しいのは、成績優秀品行方正なねおのことだから、なんだ! 俺なんかが忘れたら……はぁーっ」



何度目かもわからないため息をついていると、いつもよりきれいに結ばれたツインテールを跳ねさせ、るるが俺の顔を覗き込んできた。



「ほら、るるの顔をみて元気出してねっ! 成績が全てじゃないんだから、ねっ!」

「おい! そう言いながら、俺のこと哀れに思ってるのがばればれだ!」



朝だからか冷えた風に一瞬身を震わせながらも、俺はるるの頭をこつんと叩いた。



「相変わらずね、二人共。……そうだ、私、昨日の夜の記憶がほとんどないんだけど……なにか変なことは言ってなかったからしら?」



突然、俺の左側をあるくねおに尋ねられ、俺たちはそろって身をびくっと震わせた。


どうする、どうする、とるると一瞬視線を交差させてから、俺の圧に負け、るるが口を開いた。



「えーっ、と……そこまで変なコトは言ってなかったよ!」

「なによ、イエローゾーンに踏み込んでたってこと!?」



ねおは、今日もきっちりと結ばれたお団子を逆立てながらもるるを悲壮な目で見つめる。



「だ、大丈夫だよっ、名前は残念ながら聞き取れなかったけど、初恋の話してたー!」

「は、はつこいっ!?」



ねおは青い顔から瞬時に真っ赤になり、俺を急いでみた。



「き、聞いてなかったでしょうね!」

「? あ、ああ……なにしろ滑舌が死んでたからな……」


「そーそー、ねお姉って、九時半を超えるとああなってくるよねー」



健康すぎるだろ……と呆れていると、ねおが恥ずかしそうにして頬を両手で覆った。



「よかった……」

「「??」」



安堵の息をつくねおに訝しげな視線を送る俺に対し、るるがぴょんとねおの前に躍り出て、嬉しそうにして笑みを浮かべた。



「じゃあ、今夜はしようね! 恋バナっ!」

「……えっと、そ、それは遠慮しといて、聞く専門になろうかしら……とか……」



ねおはしばらく慌てたようにして身を引いていたが、突如、ぐいっと俺の腕を引っ張った。



「私ばっかりずるい、風斗も恋バナしなさい!」

「はぁ?! 何だ突然!?」

「今夜の話よ! 恋バナ、しないと……許さないわ!」



急に何事だ!? と目をぱちくりとさせる俺に、なぜかるるまでもがそーだそーだと声を上げる。



「はぁ……まあ、今夜、俺たちが起きてたらな」

「やったーっ!!」



学校の門が見えてきて、俺はさりげなく二人から身を離す。


もし三人仲良く歩いていたら、るるねおファンに殺されかねないからな。




――しかし、るるは、そんなことはお構いなく、離れようとしていた俺の制服の裾をぎゅっと掴む。



そして……後に大騒動となる一言を、恥ずかしげもなく言い切った。




「ふーとくん、大好きーっ!!! 今夜も、楽しみだねっ♡」




生徒たちの注目を集める中、るるは、可愛らしい声で爆弾を落とした。

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