第3話 至極当然の自殺

 翌朝、私はかつてない寝苦しさに目を覚ました。


 寝苦しさの原因は、頭から被っていた布団がベトベトしていたことにあった。

 ベタベタというレベルではない。そのベトベト具合は、布団の表面にいちごジャムを塗り込んだかと思えるほどだった。


 私はすぐさま布団を跳ねのけて起き上がった。

 何がベトベトしているのかと布団を持ち上げて確認してみるが、見た目にはどこもおかしな点はない。

 かといって布団の表面を触ってみると、やはりベトベトするのだ。


「はぁ……」


 意味不明な現象にため息が出る。

 何が起こっているのか分からない。


 喉が渇いたので冷蔵庫の方へ歩く。



 ――ベチャリ。



 何かを踏んだ気がする。

 しかし、足元を見ても何もない。足を上げて足の裏を見ても、何も踏んでいない。

 だがまた一歩を踏み出すと、やはりベチャリと気持ちの悪い感覚がする。


 さっきから何か変だ。

 見た目と感覚とが食い違っている。

 気持ち悪い感覚に耐えながら冷蔵庫の前に行き、麦茶の入った2Lペットボトルを取り出す。

 キャップを外し、そのまま口を付けてペットボトルを傾ける。



 ――ドロリ。



 喉に詰まりそうになって咳き込んだ。

 見た目は何の変哲もない麦茶だが、あまりにも粘性が高くなっている。

 ペットボトルを目線まで上げて振ってみると、麦茶はいつもどおり滑らかに揺れている。


「何なんだよ、もう!」


 理不尽な現象に対して怒りをあらわにしたそのとき、また、心臓が跳ねた。


「…………」


 私は昨日の恐怖がまだ続いていることを察した。

 記憶の中で昨日の恐怖が鮮明によみがえる。


 思わず頭を抱えると、ネチャッとした。

 まさか頭から血が出ているのかと思って手のひらを見るが、どこにも血は付いていない。


「うっ――‼」


 心臓と胃と腸が掴まれている。

 そんな気がする。

 現実的にあり得ないことだが、直感的にそう思える。


 私は強烈な吐き気をもよおして、洗面所へと駆け込んだ。

 ベチョッ、グチャッと吐しゃ物が流し台に溜まっていく。

 やはり過去に経験したことのある嘔吐に比べて喉を通るモノの粘り気が強い。


 吐しゃ物は濃い紫色の液体だった。

 まるでスライムのように粘り気が強い。

 その中に緑色の粒々が混じっており、その粒はうごめいていた。まるでミミズのように。


 気持ち悪い。


 私はそれを流そうと蛇口をひねったが、粘性が高いせいか、水ばっかりが排水溝へ吸い込まれ、紫色のそれはいっこうに流れていかない。

 ようやく排水溝に入ったかと思えば、そこに留まって栓をしてしまった。私は慌てて水を止める。


 私は深い呼吸をしながら、手の甲で口元をぬぐった。どれほどひどい顔をしているだろうかと鏡に視線を向ける。


「――ッ‼」


 鏡に映る自分の顔が、ぶくぶくと泡立っていく。

 火傷でできるケロイドみたいなものがポツポツと皮膚表面に浮き上がってくる。


 ぞっとして思わず視線を背けた。

 だが、さっきの光景が事実なら現実逃避をしている場合ではない。一刻も早く救急車を呼ばなくてはならない。


 私はもう一度、鏡を見た。


「え……?」


 さっきのは幻覚だったのか、私の顔は元に戻っていた。


 いや、ぶくぶくしてきた。気持ちの悪いできものが次から次へと浮き出てくる。


 顔だけではない。首も。手を顔の位置まで上げると、手も同じだった。

 おそらく全身が泡立っている。


 私は足を見た。しかし、なんともない。

 肉眼で見ると、手も普通の状態だった。


 もう一度だけ鏡を見ることにした。


 やはり肌は元に戻っていて、鏡を見るたびに泡立ち始めるのだ。

 そして、見続けるとそれはどんどん肥大化していく。


 私は鏡の前から離れた。


「はぁ……」


 よかった。いや、よくないのだが、体の異変は鏡越しに見た光景だけのようで幸いだった。


 私は自分の体をいたわるように手の甲をさする。


「…………」


 ブニッとした。水ぶくれのような柔らかい感覚。

 そーっと触れると、間違いなくブニブニする。私はこれ以上触ってはいけないことを直感した。


 五感が狂っている。いや、視覚と触覚が狂っているのか。


 こうなってくると、《赤縁の鏡》の都市伝説は本物だったと断言せざるを得ない。

 先人たちの末路を考えると、私もこれからもっとひどい症状に見舞われることになりそうだ。


 とにかく私は机の引き出しからメモ帳を取り出し、適当に開いたページを一枚千切った。

 そしてそこにボールペンを走らせる。



『赤縁の鏡は本物! 絶対に近づくな!』



 それが私にできる限界だった。


 最初は二の腕だった。

 二の腕がかゆくなって、たまらず搔きむしる。

 しかしいっこうに痒みが引かない。そのうえ、痒い場所が次第に広がっていく。

 腕全体、首、胸、腹、太もも、すね、ふくらはぎ、足の甲。

 足の裏、尻、背中、後頭部、頭頂部、顔。

 全身が痒くて痒くて仕方がない。


 左腕に痒み以外の感覚が出てきた。

 熱い。アイロンを当てられたように熱い。


 左腕を見ると、ボコッと眼球が浮き出てきた。目蓋まぶた付きで、パチパチと瞬きをしている。

 その眼がギロリとこちらを見てきて目が合った。


「うぅ……」


 右眼が熱い。だんだんと右の視界が暗くなっていく。

 左腕の眼球が血走った瞳でこちらを凝視している。


 これは視力が奪われようとしているのだ。

 それを直感した私は、急いでペン立てに差していたハサミを握って左腕の眼球に突き刺した。


 左腕の眼球が青い液体を吹いてしぼんだ。同時に右眼が違和感から解放される。


 しかし終わらない。

 しぼんだ眼球の下から新たな眼球が浮き出してきて、再び私の目を凝視してくる。

 右眼が熱くなる。


 このままでは駄目だ。元を絶たなくては。


 私は台所へ走り、包丁を取り出した。そして、包丁で左腕の眼球を二の腕をえぐるようにして削り取った。


「これは私の体だ! 返せ、返せ!」


 左腕の激痛にもだえながら、床に落ちた眼球を踏みつけて潰す。


「うっ!」


 右眼が痛い。潰れてはいないが、潰されたかのように痛い。激痛が続く。


「んーっ!」


 今度は息ができない。

 左の太ももに違和感があり、短パンをめくり上げた。


 そこには、緑色の唇をした口が生えていた。そして、その口が大きく開いて呼吸をしている。

 きっとこの口が私の呼吸を奪っているのだ。


 私は覚悟を決め、太ももを包丁で抉って緑の口を切除した。


 私は尋常ではない痛みと痒みに涙とうめき声を垂れ流しながら、包丁を捨てて玄関から飛び出した。


 このままでは体を奪われる。

 体の自由が利かなくなったら、何の抵抗もできずに苦しみ続けることになりそうだ。

 それだけは避けなければならない。一刻も早く自殺しなければ……。


 私は左腕をダランと垂らし、左脚を引きずりながら道を行く。


 通行人がギョッとして私を見るが、私が「構うな!」と言ってにらみつけると、通行人は走って逃げていった。


 右眼が痛くて開けられない。

 ブニッとする目蓋を押さえ、私は死ねる場所を目指す。


「あんた血だらけじゃないか! どうしたんだ!」


 やはり通行人が声をかけてくる。

 心配してくれるのはありがたいが、誰かに助けを求めようものなら、自傷を防ごうと拘束されるだろう。それだけは絶対に避けなければならない。


「いいから構うな! 絶対に構うな!」


 手を伸ばしてくる通行人を振り払うように怒鳴りつけ、私はとにかく道を進んだ。


 心臓に何かがまとわりつく。胃にも、腸にも。

 いや、内臓という内臓に何かがまとわりつく。

 そしてかる~く揉みしだいてくる。


 強烈な吐き気に襲われながらも、とにかく道を進む。


 気が狂いそうだ。


 もはや何もはっきりと認識できないが、カンカンカンカンと危機感を煽る音が聞こえてきた。


 これは踏切の音だ。


 いまの状況から逃げるにはこれしかない。


 ドンッという空気を叩く衝撃とともに電車が踏切を通過していく。


 私はこのチャンスを逃すわけにはいかない。

 たとえどんなに痛い最期を迎えようとも、必ず死ななければならない。地獄から逃れるために。


 私は遮断機をくぐり、高速で通過する電車の下を目がけ、頭を押し込むようにして全力で飛び込んだ。


 こうして、私は最悪のシナリオだけは回避することに成功したのだった。



   ―おわり―

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赤縁の鏡 令和の凡夫 @ReiwaNoBonpu

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