第2話 当該現場の調査

 おっと、自己紹介が遅くなって申し訳ない。

 私の名は鳴宮なりみや依利よりとしという。

 個人で細々と探偵をしている。


 今日、そんな私に待望の高額依頼が来た。


 依頼者は堂賀とうが束衛つかえ

 赤縁の鏡の最初の被害者となったユーチューバーの片割れの、動画撮影を主に担当していた堂賀とうが透公ひできみの母親である。


 依頼内容は、息子の死の真相を調査すること。

 堂賀透公は自殺として処理されたが、彼のお母様は殺人ではないかと疑っている。


 たしかに割ったガラスを口内に詰め込んで熱湯風呂に頭を突っ込んで溺死できしするという死に方は、とうてい自殺によるものとは考えにくい。

 しかし堂賀透公が亡くなった風呂場は内側からテープで目張りしてあり密室状態だったため、自殺以外には考えられないことも事実であった。


 ここ最近で異常な自殺が増えていることも、彼の死を自殺と断定する後押しとなっているだろう。


 堂賀束衛は様々な探偵に調査依頼をしようとしたが、どこからも断られたという。

 その理由は大まかに三種ほど挙げられた。


 それは次の三つである。


 ――殺人だったとして、密室のトリックを解き明かすことが困難であること。

 ――実際に殺人だった場合、探偵自身が大きな危険にさらされること。

 ――もし都市伝説が本当だった場合、探偵も悲惨な末路をたどる可能性があること。


 もちろん三つ目は可能性としては低いと誰もが言ったが、いずれにしろ探偵にとってはあまりにもリスクが高くて割に合わないということであった。


 私も最初は断ろうと思っていたが、依頼者から提示された報酬の額があまりにも破格で、貧乏生活の続く私には飛びつかざるを得なかった。


 その報酬は、手付金として百万円。成功報酬として追加で一千万円。

 それを聞いたときの私は、探偵が都市伝説に及び腰になるなんて無様な真似は晒せないなどと言いながらも、目の色は金色に変わっていただろう。



 かくして、私は夏用登山服を身にまとって東京都O町の森に来ていた。


 まずは赤縁の鏡の実物を確認しなければ始まらない。

 最初に都市伝説のために自殺したという線を消すためだ。


 携帯タブレットに保存した動画を頼りに、廃館のある場所を目指して歩く。

 すでに何人もの来訪者があったようで、廃館への道は踏みしめられている所が散見され、思いのほか迷わず目的地へと到達することができた。


 廃館は完全につるに覆われていて、一見してそれが建物だとは分からない。

 よくよく見るとやけに角ばった形の植物だなぁ、などと思って蔓をかき分ければ、そこに館があるというわけだ。


 森の中だけあって虫の声が騒がしいが、そのわりに声は遠い。まるで大量の虫が遠巻きにこちらの様子をうかがっているかのようだ。


 角ばった緑の物体を見渡していると、蔓のほつれた場所があった。

 そこが廃館の入り口である。


 扉は木製の引き戸で、横に押しのけるように力を込めると、ギュルギュルギュルという小動物の悲鳴を想起させる嫌な音とともに廃館が口を開いた。


 中に一歩踏み込むと、かすかに何かが腐ったような臭いが鼻を突く。

 この腐臭は耐え難いほどではないが、かなり不快であることには違いない。

 不気味さも相まって、一刻も早く立ち去りたい。


 廃館内は動画で観たとおり、昼間でも真っ暗だった。

 懐中電灯で辺りを照らしながら奥へ進む。


 廃館に入ってすぐの所には玄関と思しき広い空間があり、左手に少し進んで角を曲がると細長い通路が続いた。

 構造的に考えて、ここはおそらく旅館だったのだろう。


 廃館内は蒸し暑いのに冷たい空気の塊が漂っていて、まるでそこら中に幽霊が飛び回っているかのような錯覚に襲われる。

 一歩踏み出すごとに床がミシッと音を立て、何者かが足音を消しても無駄だと言っているようだった。


 細長い廊下の右手には引き戸が点在していた。中には戸が割れている部屋や、戸が倒れている部屋もあった。

 それらの部屋に用はないので、私はできるだけ部屋の方を見ないよう素通りする。


「うおっ……」


 足場が悪い。床の木板が割れて跳ね上がっていたり、壁のモルタルが剥がれ落ちたりしていて、注意しながら歩かなければ転倒して怪我をしかねない。


「うわあっ!」


 突如として視界を黒い影が覆った。

 驚いて三歩ほど後ずさる。よろけたが、どうにか踏ん張った。

 恐るおそるライトを前方へ向けると、天井付近のはりが折れて通路のど真ん中にぶら下がっていた。


「はぁ……」


 参考にした動画では、脇の部屋に入ったりして寄り道が多かったせいで、折れた梁に驚くシーンはなかった。

 思いっきり肝が冷えたが、その心境は安易に過去のものにはできない。依然として緊張は続く。


 私は通路をひたすらまっすぐ進んだ。

 突き当りを右に曲がり、再びまっすぐ進む。

 左手にはずっと壁が続いているが、ポツンと戸のない入口が二つ並んでいる。その左側に入った先が目的地である。


「おじゃましまーす……」


 極限まで殺した声でつぶやきながら入った。

 もちろんそんな挨拶は不要なのだが、場所が場所だけに入るのに抵抗感があったのだ。


 ここは、温泉に繋がる女子用の脱衣所。

 入口から直接ここは見えないし、逆もしかり。

 入口の反対側には巨大なりガラスの引き戸が存在感を主張している。


 館内はどこもかしこもボロボロだったのに、温泉へのガラス戸だけは割れている箇所もなく、汚れも少なかった。

 それがいっそう不気味だった。周囲と異なっているという不自然さが不気味なのだ。


 そして、問題の赤縁の鏡。


「あった……」


 それは、二つの脱衣棚の間にある隙間の壁に立てかけられていた。

 壁掛け用の鏡だが、床に置かれていて、若干斜めになっている。

 鏡が脱衣棚の隙間にあるせいで、鏡の正面に立たなければ、その存在を確認することができない。


 ここまで緊張しながらもスムーズに進んできた私だが、さすがにここからは覚悟を要する。

 探偵という職業柄、都市伝説なんて信じるはずがないし、私の仕事はこれを確認した後からが本番と言える。


「ふぅ……」


 懐中電灯を左手に持ち替え、右手にカメラを構える。

 そして、大きく一歩ずれて鏡の正面に立った。


 鏡は深紅の縁に囲まれている。分厚くて波打つ赤い縁は、高級絵画がはめ込まれていそうなほど重厚な存在感を示していた。

 私は赤い縁をなぞるようにライトの光を滑らせていく。


 特に不自然な部分はなかった。


 私はライトを中央の鏡部分に当てた。

 光が反射して眩しいので、鏡が見えるようにライトの角度を調整する。


「……ん?」


 特に変なものは映っていない。が、違和感がぬぐえない。

 なんというか、言い知れぬ不安のようなものが目の前に置いてある感覚だ。

 そう言うと「何を言っているか分からない」と言われそうだが、これは奇をてらって凝った比喩をしているわけではなく、言葉どおりの感覚なのである。


 カメラを構えるのも忘れてじっと鏡を見ていると、なんとなくの違和感が一点に収束していく。


「…………」


 鏡の向こうの自分の目が、じっとこちらを見ている気がする。

 それは私が鏡越しに自分の目を見ているのだから当たり前なのだが、普段の洗面台での感覚とはどこか違うのだ。鏡の向こうの自分が能動的にこちらを見ている気がする。



 ――ポチャン。



 浴場の方で水滴が水面に落ちた音がした。

 しかしこんな廃館の浴槽に水が残っているはずがない。


 いや、気のせいだ。たぶん気のせいだった。

 鏡を見てボーッとしていたから、あらぬ妄想をしてしまったのだ。

 それは自分に言い聞かせているのではなく、確信めいたものがあった。


 予定にはなかったが、私は浴場も確認してやろうと意識をそちらに向けた。


 その瞬間、全身から冷たい汗が噴き出した。


 体が動かない。

 鏡を凝視したままの目も、半開きにした口も、汗をかいた首も、懐中電灯を握る左手も、カメラを持つ右手も、仁王立ちした両足も、体のいっさいが言うことを聞かない。


 私の目は鏡の中の私の目を凝視している。


 不気味な目が私を見ている。


 その目で、私をどうするつもりだ。


 心臓の鼓動が速く大きくなっていく中で、ついに鏡に異変が生じた。


 鏡の中にいる自分の半開きになった口から赤色のモヤが出てきた。無呼吸の口から出てきたタバコの煙のようにモワリと出てきた。

 しかしタバコの煙とは違う。くゆらせた煙は上に昇るが、この赤色のモヤはまっすぐ進む。あまり横には広がらず、まっすぐ前に進む。


 そして、鏡面を通り抜けた。


 赤色のモヤが私の半開きの口に吸い込まれていく。

 口を閉じようにも体が動かない。目を閉じることも叶わない。


 五秒くらいだろうか。気がついたら体が動くようになっていた。

 まるで夢でも見ていたような気分だ。赤色のモヤも見当たらない。


 残念ながらカメラは動画モードにしていなかったから、さっきの現象を動画で確認することはできない。

 金縛りによってシャッターを切ることもできなかった。

 もっとも、それどころではなかったので、いずれにしろ証拠は残せなかっただろう。


 さっきのは刹那の夢だったのか。


「ふぅ……」


 大きく息を吐き出した。

 いまだに緊張感は抜けないが、緊張の極大値は明らかに過ぎただろう。


 私は一刻も早く鏡の前から立ち退きたかった。

 変な幻覚を見てしまって疲労感もすごいので、もう浴場の確認も嫌だった。

 しかしこれは仕事。最後の気合を振り絞り、巨大なガラス戸の方へと歩み出す。


「――ッ‼」


 瞬間、心臓が跳ねた。


 誰かに心臓を鷲掴みにされ、揉みしだかれた気がする。


「うっ――‼」


 心臓だけじゃない。いま、胃と腸を掴まれた。ギュウッと力を込められた気がする。


「やばいヤバイやばいヤバイッ!」


 かつて、これほど混乱したことはない。私は慌てて駆けだした。

 浴場の確認どころではない。一刻も早くこの廃館を脱出しなければ。


 私は走った。吐き気をこらえながら走った。

 懐中電灯を握る左手を前方に伸ばし、右腕を前後に大きく振って、何度もつまずきながら走った。


 廃館の玄関から飛び出したとき、廃館の入り口を覆う蔓に腕が引っかかって私の足を止めた。


「あぁぁぁああああっ! あぁぁぁああああっ‼」


 私は足掻あがいたが、どんなにもがいても前進できない。

 十秒ほどそうして叫んだところで、すでに頭が外に出ていることにようやく気づく。

 徐々に冷静さを取り戻し、私は落ち着いて腕に絡まった蔓を外して館の外へ出た。


 帰路の森は来たときより薄暗くて不気味に感じたが、陽は高く、わずかでも光が差し込んでくるのが救いだった。

 調査の時間を昼に設定した過去の自分に対して感謝の念にえない。


 とにかく私は自宅へ直行し、荷物を部屋に放った。

 そして飯も食わず、歯も磨かず、風呂にも入らず、着替えもせず、すぐさま布団に潜り込んで、眠るまで目を閉じていたのだった。

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