第二話 ボロボロトン

止まらない手

最初は節約のつもりだった。

貧乏くさいだの、みみっちいだのと、夫は端万子はまこの手仕事を厭っていた。

新しいものを買えばいいだろ、生活費は十分渡しているんだから。

黙々と手を動かしている端万子にかける夫の言葉いつも一緒だった。


そういうことではないのだ。


端万子は裁縫箱にふたをすると立ち上がり、シチューを温めなおす。

ふつふつと泡立つ鍋の中で、チキン、じゃがいも、にんじん、コーン、ブロッコリーが彩りよく揺れている。

特別な工夫をしない方が美味しい料理、夫の好みはずっと変わらない。


鍋の火を止めると温めたスープ皿にシチューをたっぷりと注ぐと、ランチョンマットの上に置き、レタスとトマトのサラダボウルにポテトサラダを盛って、並べた。

それから、ごはんをよそって、常備菜のピーマンの佃煮を添えた。

夫はシチューをごはんにかけて食べるのが好きだった。


着替えた夫が食卓につくと、先に済ませた端万子は夜はカフェインをとらないのでリラックステイストのハーブティーをいれて作業部屋にしているウォークインクローゼットに引っ込んだ。


夕食くらいは一人でゆっくりとりたいというのが夫の要望だった。


二十九歳で結婚して十年。

端万子は職場の上司と折り合いがつかず休職中に親戚から紹介されて流れのままに結婚することになり、現在に至っている。


生まれた時から身近に手仕事はあった。

母が、祖母が、時に母や祖母を慕って集う近所のおばさん、おねえさんたちが、ゆりかごでご機嫌な端満子をあやしながら、楽し気に手を動かし、口を動かし、手仕事は家庭にあたたかな雰囲気を醸成していた。

手仕事を否定されることは、端万子にとってのあたたかな家庭を否定することでもある。

なぜ、そんな簡単なことがわからないのだろう。

口にするのも悲しくて、端万子は、次第に夫から距離をとるようになった。


ほどほどのマンションには、夫の書斎はあるが、端万子の作業部屋はなかった。

子ども部屋が必要になったら引っ越そうという話だったが、未だに引越しの話は出ていなかった。

そうではあっても、その部屋を自室にするのは端万子にはなんとはなしに遠慮があった。

その結果、その部屋は物置になり、その分空いたウォークインクローゼットの奥のスペースが端万子の場所となった。

吊り下げられた衣服の森に守られたプライベートゾーン。


窓のない壁に向かって置かれた作業机でお茶の時間を過ごす時、なにより端万子はくつろぐことができた。

母や祖母から譲り受けたり受け継いだ洋服や着物や衣服にまつわる雑多な小物類。

それらの発する気配が、端万子を安らかな気持ちにしてくれるのだった。


ティーカップを置くと、いつものように端万子は裁縫箱のふたを空けて、針と糸を取り出した。

手元を照らす作業灯を点けて、針に糸を通す。

すっと一度通ると気持ちが上がる。

老眼になった母や祖母が苦労していたのを思い出す。


自分はまだ若いのだ。


針に糸を通すという小さなことが、端万子の心を波立たせる。


端万子は縫いさしのパッチワークキルトの壁掛けを取り出すと作業机に置いた。

三年前に亡くなった母から引き継いだものだった。

引き継いだものの、三回忌が済むまでは手をつける気がせず、そのまましまってあった。

遺品整理が済んで、ようやく続きをしようという気持ちになったのだ。


けれど。


見れば続きをしたくなるのはわかっている。

手仕事を趣味でも生業でもしていれば、そういうものなのだ。


そういうものなのだ。


端万子は糸を通した針を左手の人差し指に浅く当てた。

ついっ、と小さな血玉が浮く。

端万子は、畳んだままの壁掛けの再開の部分にその針を刺すと、そのまま部屋を出ていった。











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