後編


 すると突然、二の腕を強い力で掴まれた。


 次の瞬間、暖かい何かに包まれた。

 硬いけど柔らかく、とても素敵な匂いが鼻を刺激する。さっきまでの恐怖とは、かけ離れた状況に思考が止まってしまった。



 ── ここは天国?



「大丈夫ですか?」


 その声が耳に届いた刹那、脳より先に身体が反応した。


 私の身体の底から湧き上がる熱。

 一瞬にして身体が火照り、耳まで赤くなっているであろう事が容易に分かる。



 ── お、お兄さんだ……。



 私の両肩に手を置いた状態で声を掛けてくた。


「怪我はありませんか?」


 顔を上げることが出来なかった。


「は、はい。大丈夫です……。あ、あの、ありがとうございました……」


 もう何があってこうなったのかさえ分からない。でも、何か言わなきゃと勇気を振り絞って出した言葉が、あまりにもありふれた言葉だった。


「信号が青でも危ないですから、気を付けて」


 私のことを最後まで気遣い、そう言い残して私の横をすり抜けて離れて行く。


 息が掛かる程の距離で聞いたその声に、足の力が抜けてすぐに歩くことが出来なかった。

 

 大きく深呼吸をして、振り返る。


 顔は見ていないが、服の色や形は見た。

横断歩道を渡り切ろうとしている大きな背中。あの人に間違いない。


 信号が点滅する。お兄さんを追いかけるように急いで横断歩道を渡り、大きな背中を目で追った。


 駆け寄って顔を観たい。もっと声を聞きたい。話をしたい……。


 足を動かそうにも、急に息が詰まり呼吸がしずらくなった。


 ここ数日の間に好きの気持ちが膨らみ、今日の突然の出逢いでその好きが愛に変わる。


 それは恋を越えて愛に達っした瞬間だった。自分でも信じられない。

 顔も見たことがなく、会話もしたことがない人を愛するなんて……。



 ── 若さ故の勘違い? いや、違う。勘違なんかじゃないわ。



 明日にはまた会える。今、無理をして追いかける必要はない。


 後一日と少し。

 今追いかけて話をすれば、今のこの感情は良い意味で無くなってしまう。

 二度と味わう事がないであろうこの切ない気持ちを、もう少しの間楽しむことにした。




 ❑  ❑  ❑




 ─ 日曜日 ──





 目の前には、叔母さんの店に入る為のガラスの扉がある。もしかしたら、もう来ているかもしれない。


 緊張と好奇心が複雑に絡み合い、中高生くらいに戻ったようだ。

 そんな懐かしい気持ちはもういらない。今からもっと楽しい時間が待ってるから。


 勇気を出して扉を開けた。



 ── まだ来ていないんだ……。



 ほっとした気持ちと、残念な気持ちが同居している。


 やっと目と耳から周りの状況が入ってきた。店の中央で叔母さんが何時になく真剣な表現でスマホを片手に返事を繰り返している。


「はい……ええ。…………えっ?」


 声を掛けられる雰囲気ではない。



 私には数分に感じられた叔母さん電話が、やっと終わった。


 スマホを耳からおもむろに離し、私が居ることに気付いて声を出す。


「舞ちゃん……」

 

 私の名前を呼んでゆっくりと歩き出し、私をギュッとハグした。


「叔母さん?」


 叔母さんが震えてる?


 何かがあっただろう事は想像できるが、こんなに悲しそうな叔母さんは初めてだったので、どうしたらいいのか分からない。



 ── 何があったの?



 すると、叔母さんが口を開いた。


「気を落とさずに聞いて……。保険のお兄さんなんだけどね……もうすぐ来るって!」


 鼓動が止まる寸前だった。


「もう! 脅かさないでよ! 心臓が止まるかと思っちゃったじゃない!」


 そう叫んで、叔母さんをトントン叩いた。


「ほほほっ。冗談よ、じょ、う、だ、ん! 舞ちゃんは今から楽しい時間が待ってるんだから。私もこれくらい楽しませてもらってもいいでしょ?」



 ── 叔母さん……可愛い。



 その時は唐突にやって来た。


「失礼します!」



 ── あっ! 私の心を奪った犯人の声……。



 もちろん私は振り返ることなんて出来ない。震える手に、今にも力が抜けて尻餅をついてしまいそうな膝。


 手なんて、冬の寒空の下に何時間居たのってくらい、かじかんできた。


「ごめんねぇ、受取人のことで教えて欲しいことがあったのよ。電話じゃなくて、会って話を聞いた方が分かり易いから」


「全然構いません。お姉さんのお顔を拝見出来るなら、いくらでも足を運びますよ」


「嫌だわ、お姉さんだなんて……。私が惚れちゃいそう」



 ── 嫌だ、何言ってるのよ叔母さん! そんな言い方したら、バレちゃうじゃない!



「貴方が惚れる? ですか?」


「んーん、何でも無いのよ。それくらい嬉しいって話」


「お綺麗なんで、当然ですよ。──あの、そちらの方は?」



 ── 私だ! ど、どうしよう? 後ろ向きでジッと立ったままだから、怪しまれたかな?



「この子は私の姪っ子なの。たまたま遊びに来ててね。同席させても構わないかしら?」


「はい、僕は大丈夫ですよ。──あの、初めまして。私、美藤びとうゆうせい、と申します」



 ── びとうゆうせい……。名前まで格好いいなんて……。挨拶してもらったのに、後ろ向きなんて失礼よね。ふ、振り返らなきゃ……。



 勇気を出して振り返った。

 まだ、顔は上げられない。俯いたまま挨拶を返すしか出来ない。


「あの、は、初めてじゃないんです!」



 ── わ、私ったら、何口走ってんの! ご挨拶するつもりが、話した過ぎて思わず変なこと言っちゃった……。



「あっ! その声……。まさかこんなにすぐに再会出来るなんて……」 


 ここで叔母さんが割って入った。


「えっ? 再会って、舞ちゃん私も聞いてないわよ? いつ会ったの?」


 昨日の今日だし、今来たとこだから叔母さんにも言っていない。



 ── って言うか、びとうさんはなんで私と会った事知ってるの? 声って言ってたけど、まさか……。



「私……」


 彼は私の言葉を遮る。


「昨日の横断歩道の方ですよね?」


 彼は突然そう言葉にした。


 思いもよらぬ質問に、どう返事をすればいいか分からなくなり、頭が混乱する。


 彼が言葉を紡ぐんだ。


「あの時、あなたの声に心を奪われて……。もっと話し掛けたかったんですけど、勇気がでなくて……。僕はあの時のことを後悔していたんです。何故あの時勇気を出してもっと話をしなかったんだろう……って。だから、またお会い出来て良かった」


 あまりにも唐突で、胸が締め付けられる。嬉し過ぎて苦しくなる事ってあるんだ、と思いながら服の裾を握る手に力が入った。


「私も、あ、あなたの、声に惹かれて……」


 これ以上声が出せない。


「顔を上げて下さい」


 顔を上げるだけの行為が、こんなに息き詰まるなんて合格発表の掲示板を見たとき以来。でも、いつまでも下を向いてはいられない。


 恥ずかしい気持ちと書かれた大きな壁を押し倒し、思い切って顔を上げた。


 ああ……目の前に立っているこの人が……。この人がびとうゆうせいさん……。


 目と目が合った瞬間、身体中に電気が走っな。もう目を逸らすことが出来ない。

 叔母さんの色男話の方程式が崩れることがあるとは、夢にも思わなかった。


 私の出会ったことのある、全ての男性の中の頂点に君臨する美形。


 いつの間にか、両手の指を絡めて胸の前で組み、神に祈るが如く彼の顔を凝視し続けていた。


「僕が思い描いていた通りの人だ。あなたのように美しい女性に出会えたことに感謝したい。そして、僕は今、人生の岐路に立っています」


「えっ? どういう意味ですか?」


「出会ってすぐなのに、不誠実な男と思われるかもしれませんが……。この気持ちを伝えずに、貴女の前から離れる事が出来そうにありません。──僕と、結婚を前提にお付き合いして頂けませんか?」


 また胸が締め付けられる。

 その、心を持っていかれる声で、女性なら誰もが歓喜を上げるその顔で、そんな台詞を告げられると溶けて無くなってしまいそう……。


 もう何も我慢することはない。

 勇気を振り絞らなくても言える。

 この気持ちは間違いない。


 私はびとうゆうせいさんを愛している。


「──本当は、私からその言葉を貴男に告げるつもりでした。まさか先に言われるなんて……。貴男の声に心を奪われ、今、貴男自身に全てを奪われ、そして、全てを捧げたい……。私で良ければ、喜んでお受け致します……」


 私の言葉が途切れると、ゆうせいさんが抱きしめてくれた。

 人目を気にせずに異性と抱き合い、唇を重ねたのは人生で初めてだった……。





 

 その後、紆余曲折を経てゴールインするのは、また少し先のお話……。




       ~ Fin ~



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一声惚れ ライト @yujichan

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