天上人来訪制度〈後編〉

 午後3時50分すぎ、1日の最後を締めくくる8時限目までの準備時間。


「経理の授業を始めます。教科書の40ページを開いてくだ……さい」


 教養科を担当する教科長の福沢小町は、不思議そうな顔で教室中を見渡していた。今日はやけに候補生たちの視線が集まってくる。いつもは8割から9割の候補生たちが机の上に突っ伏して寝ていたが、今日は真剣そうな眼差しが自分の方へ向けられていた。


 教養科の授業は心理・経理・語学の3分野を取り扱う学科だが、実習の無い唯一の科目――つまり、全てが座学である。そのため、授業で扱う内容は教科書に載っており、あとでいくらでも自習することが出来た。


 他の教科では不真面目な候補生たちに目を光らせている教官たちも、この授業にだけは甘い。噂では、懐の広い福沢教科長が、あえて甘くするように指示を出しているとか。

 1日8時限ある地獄の訓練中の、唯一の休憩時間。それが教養科の授業だった。


 ところが、授業参観日であるにもかかわらず、誰も教室の中に入ってこない。ドアは開けっ放しだったが、歩いて通り過ぎる人の気配も全くなかった。

 そうなると、最初は真面目に授業を受けていた候補生たちも、10分もしないうちに頭をコクリコクリと揺らす候補生が増えてきて、それからまた10分もすると普段通りの光景に戻ってしまった。


 相変わらずヒイロは机の上にパソコンを広げ、画面の向こう側にいる相手と英語で会話しており、ジュンはコンパクトミラーを見ながら化粧を直し、タヅナは算数ドリルと格闘していた。


「確率的動学一般均衡モデルや実物景気循環モデルでは――」

「DSGE等が依拠している仮定は、一般近似として――」


 マリアは福沢教科長と、明らかに授業内容を逸脱した質疑応答をしていた。

 タヅナがボンヤリと2人のやり取りを見ていると、身長180センチはあろうかという背の高い男性が、教室内にスルリと入ってくるのが目についた。

 特徴的な黒と黄色のツートンカラーのメンズショートカットには、芸能人に疎いタヅナでさえも見覚えがあった。


 ハーフタレントのような、日本人離れしたタイプのイケメンだ。彫りの深い顔立ちは中性的にも見えたが、その眉の太さには意志の強さが感じられる。

 黒いジャケット、胸元を開いた白いカットソー、紺のジーパンというビジネスカジュアルな服装は、モデルのようにスタイルの良い彼だからこそ、チープに見えないコーディネートなのだろう。

 彼はタヅナ以外の候補生に気付かれぬまま、タヅナ視点で教室の右手、壁際に沿って移動していった。


「社長、彼が来ました」

「……」


 ヒイロは、その謎のイケメンから送られてきたウインクを、まるで興味無しといった顔でチラリと見ただけで、またパソコンの画面に目を向け直した。


「ねぇ、旦那様が……」

「えっ……うそっ? あっ、ホントだ。起きて、アゲハ!」

「ふぁあ? ああっ!!」


 前方の候補生3人組が背すじを伸ばすようになったのを見て、他の候補生たちも彼の存在に気付き始めた。

 不意をついた天上人の来訪に、ざわめきの波が広がる。異変を感じた候補生たちから続々と起き上がっていく。

 ある者は動揺して教科書を落とし、ある者は急いでメイク道具を取り出した。


「おはよう、未来の花嫁のみなさん。突然の訪問でビックリさせちゃったかな」

 その男性は爽やかに笑い、不自然なまでに白い歯を垣間見せた。


「誰?」

 ポツリと呟いたジュンの言葉に反応した1つ前の席にいた候補生が、まるで怪奇現象と遭遇したかのような驚きの表情で振り返ってきた。


「知らないの!? 脚長蜂あしながばち銀行の御曹司で、バーハード大学を次席で入学後、在学中に立ち上げた4つのITベンチャーを、世界的企業にまで成長させた脚長蜂火継様のこと!!」


「まっ、首席で卒業したのが、この私なんだけどな」

 ヒイロは死んだ魚のような目をしながら、ボソッと呟いた。


 事態の収拾がつかなくなったと判断したのか、福沢教科長は教科書を抱えながら教卓から離れていく。

 脚長蜂火継と呼ばれた男は教科長に会釈すると、教卓の上に“座って”足を組み、上気した顔を向ける少女たちの顔を見回した。


「こんなにも素敵なお姫様たちがいると、誰か1人に絞るのが心苦しいよ。まるで瑞々しい花々が咲き乱れるお花畑のようだね」


 何を思ったか、タヅナの前にいた1人の候補生が、手を挙げて立ち上がった。


「わたし、ヒツギ様の愛人になります!」

「あっ、ズルい……わたしも愛人OKです!!」

「ちょっ、わたしも!!」


「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」「わたしも!」


 席から立ち上がり、獲物に襲いかかろうとする肉食獣たちの群れを、どこからともなく湧き上がった警備員たちの壁が押し留める。

 もはや天上人への発言ルールのことなど頭になかった候補生たちは、ライブ会場の最前列のような盛り上がりを見せていた。


「みなさんの気持ちはよくわかったよ。だから俺も、出来るだけその気持ちに応えたい。これから3年間、なるべく多くの女の子たちと会うことを約束しよう」


 歓喜と興奮の雷鳴が、教室中に響き渡った。

 絶えず自分の名前を連呼する者、泣き崩れる者、失神して倒れる者までもがいた。


「でもね。みんなには悪いけど、初めてのデートの相手はもう決めてあるんだ」


 女子たちの波を掻き分け、歩いていった火継の先にいたのは、英語でWEB会議中の候補生だった。


「ヒイロ、今夜俺とデートしよう」

「断る」


 鳴り止まないブーイングの中、火継は「やれやれ」と両手を上げて首を左右に振ると、ヒイロの耳元まで顔を近付けて、何かを囁いた。


「チッ……」

「じゃっ、またね」


 火継が手を振りながら、また群がる女子たちを掻き分けて教室を出て行った。するとジュンは、タヅナにイタズラっ子のような笑顔を向けた。


「ライバルがあんな超絶イケメン大富豪じゃ、花麒麟さんのことは諦めた方がいいね」

「僕はそんな――」

「アイツはただの……仕事関係の男だ」


 まるで先生から雑用を言いつけられた生徒のように不機嫌な顔になったヒイロは、机の上のノートパソコンをバタンと閉じた。



  * * *



 六本木の街を見下ろすようにそびえる高層ビルの最上階、都内の夜景を一望できるレストラン〈Zenithゼニス〉。

 薄暗い店内には、ナイフで切り分けたステーキを口元に運ぶ黒と黄のツートーンカラーの髪が目立つ長身の男性一人と、彼の視界の端に立っていた女性ウェイターの一人を除いて、誰もいなかった。


 なぜなら今日は店の休業日。普段はビュッフェを乗せているテーブルには、何も乗っていなかった。

 ――騙された。

 赤いハイヒールに、腰までスリットの入った艶やかな赤いワンピースドレスを合わせていた緋色は、店のガラスドアを開けた瞬間に、5年分の溜め息を漏らした。


「今日はここで、私に秘密で用意された創業5周年パーティーが開かれるんじゃなかったのか?」

「わかってないなぁ、そんなの口実だろ? 俺はお前を拝みながら酒が飲みたかったんだよ」


「悪いが、私は君ほど暇じゃないだ」

「今日で創業5周年ってのは事実だろ? なに、お前の分の料理も用意してある」

 緋色が向かいの席に座ったことに満足げな表情を浮かべた火継は、指を鳴らして店員に合図した。


「食事はいい。用件が無いなら帰るぞ」

「つれないなぁ……俺たちは一緒に辛苦を共にしてきた“夫婦”じゃないか」


「“夫”が“家”を留守にして、接待だ交流会だと“子育て”をサボって、他の“女たち”と“不倫”してばっかしてるくせに」


「俺はお前の実力や実績を高く評価しているんだよ。だから自由にやらせてるんだ」


 緋色の前に、色鮮やかな野菜の切り絵で飾り付けをした、魚料理を乗せた皿が運ばれてきた。


「思い返してみれば、俺はお前に何かで勝ったことがない。大学の成績はいつもお前の次点だったし、起業コンペでもお前に負けた。もっと誇っていいんだぞ? 脚長蜂火継様に勝利した数々の栄光を」


「君が私を褒めるだなんて、今夜はシャンパンの雨でも降るのか?」


 誘導尋問でも成功させたかのように、火継はナイフを片手にほくそ笑む。


「そんな飛び抜けて優秀なヤツが、どうして何度も何度も納期を伸ばし続けてるんだろうなぁ?」


 屈辱的な言葉で刺され、緋色は顔を引きつらせた。

 たしかに、納期を遅らせてもらったプロジェクトはいくつかある。

 だがそもそも、無理な案件を持ってくるのは、いつも君じゃないか。

 「出来ない」と言えない私の性格を逆手にとって――


「会社の方針は私が決める。私のやり方に口を挟まないでもらいたい」

「会社は俺たち株主のもんだ。お前の首に縄くくってること忘れんなよ」


「そもそも君が余計な業務を増やしてこなければ――」

「仕事が自分の手に負えねぇなら、人を動かせよ!!」


 彼と会うと、いつもこれだ。

 どちらも道を譲らないから、正面衝突して喧嘩になる。いい加減、このやり取りにもウンザリだ。


「もういい。私には君との口喧嘩に付き合っている暇は無い」

 ヒイロはハンドバックを手にして席を立った。たとえ提供されたのが三ツ星レストランの最高級料理であろうと、今は口を付ける気分にすらならない。


「まったく残念だよ! “嫁”と“結婚記念日”を祝えないなんてなあ!!」


 背中に怒鳴り声を聞きながら、緋色は店の玄関を出て行った。


 あの男は、私が苦しめば苦しむほど喜ぶ。だから隙を見せちゃいけない。今までもヤツからは何度も屈辱的な仕打ちを受けてきた。


 創業当初、「なぜこの男は、こんなにも配慮が出来ないんだろう?」と疑問に思った。

 アポ無しで会議を入れてくるわ、その会議も無駄話ばかりで生産性がないわ、そうかと思えば「お前はいつも暇そうでいいよな」なんて言ってきたりする。


 共同創業者というのは名ばかりで、実際は私の足ばかり引っ張ってばかりの疫病神だった。

 出来るだけ付き合いたくないヤツだが、今は関係を繋いでおくしかない。彼のコネのおかげで運転資金も豊富に使えるし、高い給与で求人を出せば優秀な人材が集まってくる。


 マリアと新会社を立ち上げるにしろ、すでに何件か届いている魅力的なヘッドハンティングのオファーを受けるにしろ、今は新しい環境で戦えるだけの経験と実績が必要だ。

 オフィスを離れていたせいで、ARモニターへの通知が止まない。開発チームとの打ち合わせ、大手通販会社との商談、メディアからの取材、仕事は山積み。


 ああ……イライラする。今すぐ全ての仕事を放り出して癒されたい。

 誰か、私の存在を丸ごと肯定して、包み込んでくれないかな。


 息を乱しながら白いリムジンの前まで辿り着くと、緋色はARパネルに暗号ジェスチャーを描いて車のドアを開け、後部座席の横長シートに腰を落とした。

 震える手で冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、ピルケースからこぼすように取り出した精神安定剤を胃の中へと流し込む。

 しばらく目をつむって腹部に手を当て、呼吸に集中していると、少しだけ焦燥感が和らいでいくような気がした。


 そして無意識のうちにアルバムアプリを開くと、自動撮影された映像を展開。視界の目立つところに配置されたのは、視聴回数の多かったものだ。それらのビデオには、1人の男の子ばかりが映っていた。

 料理をしている時の彼。学校の保育の授業でヤンチャな子供たちに引っ張られている時の彼。そして一番のお気に入りは、自分に微笑みかけてくれたときの彼。


『僕は、あなたのことが心配です』


 最近は仕事をしていても、タヅナのイメージが頭から離れない。タヅナの笑顔が、タヅナの声が、自分の脳裏に浮かんでしまう。

 すると、傍にいなくても傍にいるような気がして、ジワリと温かい気持ちになる。

 爪齧りと膝の縦揺れが止まらない。

 いったい私は、何に悩んでいるのだろう。


「[通話][芍薬タヅナ]」


 視界のAR画面上にポップアップウインドウが広がり、可愛らしい笑顔の男の子の写真が浮かび上がった。

 脈拍が速くなり、血圧が上昇していることを、視界の隅のバイタルメーターが示していた。


『もしもし――』


 彼が電話に出たところで、思わず右手をメガネのフレームに当て、右一直線にスライドしてしまった。それからしばらくして、それが通話終了のジェスチャーだったことを思い出した。


 タヅナに、なんて話せばいい? なんて言ったら、この想いを伝えられる?


 何も言わずに彼に泣きつきたい。でも、引かれたくはない。まだ彼とはそんな関係じゃない。でも、いつかはそうなりたい。

 もしも私が甘えたら、彼は受け入れてくれるだろうか?

 3つも年上なんだぞ? 私から甘えるのはさすがに恥ずかしいし、プライドが……。


 今だって充分、彼には癒されてる。お金を支払うことで繋がっている関係だけど、この距離感なら彼としばらく一緒にいられるだろう。

 でもこのままじゃ、スキンシップだってとれない。


 今の関係を壊したくない。あんな可愛い男の子なんてめったに――いや、今までに一度も会ったことのないような男の子だ。

 まさか、あんなにタイプの男の子が入学してくるとは思わなかった。入学した当初なんて、タヅナのことを産業スパイだと疑っていた。競合企業から私の元へと仕向けられたハニートラップだと。しかしマリアに頼んだ内部調査によると、その線はシロらしい。


 どうかタヅナが転校、退学しませんように。

 どうにかして彼を口説き落として付き合いたいけど、フラれたら辛いな……。立ち直るのに何ヶ月もかかるかもしれない。この、仕事でクソ忙しい時期に、失恋でパフォーマンスダウンしてる場合じゃない。


 タヅナは今、付き合ってる人はいないのかな? 好きな人は? もしかして私のこと好きだったりして。いや、可能性はゼロじゃない。たとえ付き合ってなくても、友人関係以上の親密さは感じる。


 ……そうだ! 別に付き合わなくたっていいんだ! 私と彼の間で『合意』さえ取れればいい。うん、それがいい。後腐れないし。早速、契約書を作るとしよう!


 どうしようもなくタヅナに甘えたい。あの手にヨシヨシされたい。微笑みながら、天使のような優しい言葉で、私の荒んだ心を浄化してくれたら……。

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