エピローグ 夏の終わり

 世界が変わった。

 そんな大げさな言葉を使っても足りないほどに、私の世界は間違いなく変わった。


 八月三十一日。

 制服に着替えた私は、姿見で服装をチェックする。

 白いリボンで結ったポニーテール。左腕につけたアルカンシェルのミサンガ。


「よし」


 私は気合いを入れると、鞄を手に取って階段を下り、家を出た。


 今日は森田駅前で待ち合わせをしていた。

 電車に乗るのではなく、そこがちょうど目的地の中間点だからだ。駅前に辿り着くと、ママチャリを停め、駅に入るための階段の端に座り込む真菜の姿があった。


「遅い」

「ごめんごめん」


 私はクロスバイクに跨ったまま、両手を合わせて謝った。


「全然悪く思ってないでしょ」

「まぁね」

「開き直らないの」


 真菜が立ち上がり、制服のスカートのお尻を軽く払う。


「実は昨日、夜遅くまで起きてて」

「今日が大事な日だっていうのに?」


 真菜はママチャリのスタンドを外し、手で引いていく。


「だから、今日という日を心から楽しむために、徹夜して夏休みの宿題を終わらせたのです」

「……それでもし、今日やることに支障をきたしたら、それこそ本末転倒」

「分かってる。今度からはちゃんと毎日こつこつ片付けますから」

「次がないって分かってるくせに」

 へへへ、と笑って見せると、真菜は助走をつけてママチャリに乗り、そのまま漕ぎ出していった。


            ※


 私たちは、森田小学校に向かっていた。

 自転車なら、五分ほどで着く。

 正門横の角で、私たちは正面入口ではなく、グラウンドに行くための道に入った。 

 そこからはクロスバイクを降り、歩いて向かった。


「はぁ~、明日から新学期か」


 今日は楽しみだけど、明日からのことを思うと、溜息が出る。


「真菜は進学なんでしょ?」

「うん。関東に、立花コーチが薦めてくれた大学があるから、そこを目指す」

「あのとき語ってくれた夢に一直線ってわけだ」

「結衣は、どうするの?」

「そうだね。走りたい気持ちはもちろんあるけど。それと同じくらい、理学療法とか、スポーツトレーナーとか、体のことで辛かったり苦しんでいる人の役に立ちたい気持ちもあるんだ」

「そっか」

「うん」


 あのインターハイで私は、出せるものを出し切り、燃え尽きた。

 だからといって走ることをやめるつもりはない。

 ただ、それだけに盲目にもならない。

 広い視野を持って、私は私がやりたいことを探して、それに向って行きたい。

 だから今はまだ決めつけず、考えて行きたい。

 

「もう来てるね」


 グラウンドに入るための入口の傍に、一台の車が停まっていた。


「なんていうか、ここまでしてもらうのも悪い気がするんだけど……」


 その車はワゴンで、車体の横には『県立大学医学部付属病院』と書かれている。

 入口手前の端にクロスバイクとママチャリを停め、私たちはカバンを引っ提げてグラウンドに入った。

 グラウンドの奥にはプールがあり、その入口手前に見知った人たちが待っていた。


「おーい! 結衣さーん! 水城さーん!」


 声を上げて、両手をぶんぶんと振って見せているのは薫ちゃんだった。

 そう、両手で。


「一ノ瀬さん、立てるようになってる」


 手で庇をつくりながら、真菜が嬉しそうに微笑む。


「ホント……まさか、夏休みまでに立って歩けるようになるなんて、すごいよ」


 薫ちゃんの行動力には驚かずにはいられない。

 あれだけ無理はしないと約束したのに、私がインターハイで優勝したのをきっかけに、絶対に立って歩けるようになると言って、すぐに三島さんを強引にジムに連れて行ってリハビリを再開したらしい。

 今日は、特別にプールを借りる許可をもらっているのだ。

 そこで、私と真菜は、薫ちゃんを先生に、泳ぎ方を教えてもらうことになっている。

 鞄の中身は水着とか着替えだ。

 今日は、友達である薫ちゃんと、泳ぎ方を教えてもらいながら、遊び尽くすのだ。

 そんな薫ちゃんの横で、車椅子に座った人影が動く。

 車椅子を押すのは杏子さんで、そこに座っているのは、柑奈だった。


「まだ信じられないんだ」


 柑奈を見つめながら、私はそう呟いた。


「柑奈さんのこと?」

「うん。だってさ、インターハイが終わって、杏子さんから連絡がきて、柑奈が目を覚ましたなんて聞かされて、病院に向かって病室に入ったら、柑奈が目を覚ましてて……」

「全部、結衣のおかげなんだよ」


 真菜が背中を撫でてくれる。

 あの日、柑奈が目覚めて、私は引き離されるまで柑奈を抱きしめ続けた。

 もう何度目かの涙を流して、七瀬さんとも抱き合って、先輩看護師さんや他の患者さんたちもテレビを見ていてくれて、私の優勝を喜んでくれた。

 ジムで三島さんに報告して、薫ちゃんと喜びを分かち合った。伊月さんからもメールが来ていて、私は少し遅れたけど、返事を送った。

 柑奈はそれから色んな精密検査を受けて、日々のリハビリで最低限の体の機能を取り戻していった。

 私は柑奈と何度も話した。

 何日かして、真菜を連れて、三人で話すようになった。

 そこで私は、柑奈に真菜を友達として紹介し、真菜に柑奈を友達として紹介した。

 柑奈は、中学時代の全国大会での真菜を覚えていて、いつか一緒に走りたいと言い、真菜は待ってますと言って、お互いに笑い合った。その光景が私には嬉しすぎて、「私もっ!」と言って、二人を一緒に抱きしめた。

 二年間眠り続けた柑奈の目覚めは嬉しかったが、柑奈にとって、父親である一功さんが亡くなったことの報告だけは避けられず、柑奈は涙を流していた。

 車椅子に座れるようになって、町内の墓地へ墓参りに行くのに、私もつき添った。

 そこで私は、感謝と優勝の報告をした。

 色んな状況の変化を聞いて、受け入れていくのは大変だろうが、それでも柑奈は前向きでいた。

 柑奈が目を覚ましたことに関して、医師の話だと、足裏のマッサージと、陸上に関する話、そしてインターハイのライブ放送など、そういった柑奈が関心を持つものに刺激を受け続けた結果、目を覚ましたのではないかという。

 こういったケースは前例がほとんどないため、確証はない。

 だけど、柑奈は目を覚ました。

 それだけで、十分だ。誰のおかげでもいい。

 今こうして、目の前に柑奈がいる。

 ただ、それだけで……。


「行こう。柑奈さんが待ってる」

「うん」


 私は前に足を踏み出し、そこに白線があることに気づいた。

 そして、正面には白線のレーンがある。

 そのレーンはちょうど、プール手前まで続いていた。


「真菜、このレーンって、何メートルあるかな?」


 そう言うと、真菜は最初、首を傾げるも、意味深に笑む私の意図に気づき、


「この足下の白線から、プール手前に見える白線までで、百メートルかな」


 私と真菜は顔を見合わせ、鞄を地面に放り投げると、お互いに軽く肩を回したり伸びをした。


「柑奈! 合図お願い!」


 遠くから私たちのしていることの意味に気づいたのか、柑奈が自分で車椅子を前に進めていった。


「負けた方が、勝った方に駅の近くにある喫茶店のかき氷を奢るって言うのはどう?」

「いいよ。でも、奢るのはみんなの分も含めて」

「大きく出たねぇ。その言葉、後悔して知らないよ」

「結衣は自分の財布の中身だけ心配してればいい」

「上等」


 その間に、柑奈がフィニッシュになる白線の向こう側で止まる。


「位置について!」


 柑奈が両手で口のまわりを覆い、大きな声で叫ぶ。

 私と真菜は地面に両手をついた。

 じりじりと照りつける太陽の熱と光が、汗を滴り落とさせる。

 これだけ汗をかけば、プールがもっと楽しくなる。


「よーい!」


 腰を上げる。

 今さらながら、制服であることに気づいたが、もう関係ない。

 スカートだろうが、シューズがラン用でなかろうが、今この瞬間、私たちは走ることを、そして競い合うことを、楽しみたいだけだから。

 横目で視線を交わし合う。

 お互いに楽しくて仕方がないとばかりに笑っていた。

 そして、絶対に勝つと。


「どん!」


 柑奈の合図と同時、私たちは走り出した。

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