十章 キミと走る

 八月二週目の水曜日。翌日にインターハイを控えたその日、私は病院を訪れていた。

 柑奈の病室に向かうと、ドアの前に薫ちゃんがいた。


「なんか、明日でみんなともお別れ、みたいな感じだね」


 軽い口調で薫ちゃんに近づくと、彼女はどこか神妙な顔つきで俯いていた。


「だって、結衣さん……インターハイが終わったら、もう来ない気がして」


 薫ちゃんは鋭い。

 いや、三島さんも七瀬さんたちも、みんな気づいている。

 私が今日を最後に、柑奈のお見舞いに来るのを止めようと思っていることを。

 これまでずっと柑奈のお見舞いに来て、足裏のマッサージをしてきた。

 それは、いつか柑奈が目を覚ますと信じていたから。

 一緒にまた走れると信じていたから。

 その信じるという気持ちに縋るため、私は毎日こうして足しげく通った。

 だけど、インターハイを走れば、それが私にとってひとつの区切りになる。

 だからこそ、悔いを残さないよう全力で走る。


(でも……)


 ずっと続くと思ってた。

 だけど、どんなことだっていつかは終わる。

 七瀬さんたちとも、三島さんとも、そして薫ちゃんとも、別れは来る。


「うん。そうだね」


 薫ちゃんが顔を伏せたまま、黙り込む。

 私はあえて声をかけず、じっと待った。

 何かを言いたい。

 だけど、言えない。

 薫ちゃんの逡巡が、表情に如実に表れる。

 しばらく待っていると、薫ちゃんが勇気を振り絞るようにして口を開いた。


「私、頑張って歩けるようになります。結衣さんの応援には間に合わなかったけど、だけど、リハビリも頑張って、絶対に歩けるようになります。だから……」


 言いたいことがあるのに、それがまとまらず、感情に任せて言ったものの、やっぱり何を言っていいのか分からない。

 薫ちゃんは、本当にいい子だ。


「……薫ちゃん」


 伏せ気味の薫ちゃんの頭に、私は手をぽんと置いた。


「頑張らなくてもいいんだよ」

「え?」


 思わず、といった風に薫ちゃんが顔を上げる。


「薫ちゃんはもう、頑張ってるよ。頑張りすぎて、見てるこっちがハラハラするほどにね」


 そう言って、笑って見せた。


「でも……頑張らないと……」


 それでも薫ちゃんは、自分を叱咤し、鞭を打つ行為を止めようとしない。


「いいんだよ。薫ちゃんはよくやってる。だって、今の自分を見て。私と出会ったときは、車椅子だったんだよ? それが、今では松葉杖で歩けるようにまで快復してる。それって、本当に凄いことなんだよ。いまさら頑張らなくても、このままゆっくりとリハビリしていけば、歩けるようになる。薫ちゃんは、ここまで走ってきた。だから、あとはゆっくりと歩いて行けばいい。ゆっくりでも、一歩ずつ進めば、最後にはゴールに辿り着く。大事なのは、歩みを止めないこと。前を向くこと。気持ちも前向きに、ねっ」


 一歩、踏み込む。

 たった一歩、前に出るだけで、薫ちゃんを抱きしめることができる。

 薫ちゃんの頭をそっと胸に抱き寄せ、子どもをあやすように撫でる。


「私、結衣さんに会えないって思ったら……気持ちが焦って……」

「なんだ、そんなことか」

「そんなこと、じゃないです」


 胸の中で、薫ちゃんが駄々をこねるように顔を左右に振る。


「でもね、私たち、友達でしょ? LINEだって交換した仲だし。何かあれば、連絡くれれば相談にものる。困ったことがあれば、駆けつける」

「本当ですか?」


 顔を上げる薫ちゃんが、泣きはらしたように目を潤ませる。


「本当だよ。年の差なんて気にしないで。なんなら今ここで約束しよう」

「約束……」

「そう、私たちの――友達同士での、遊ぶ約束」


 薫ちゃんが目を見開くように驚く。


「遊ぶ……約束……」


 かみしめるように、自分自身に言い聞かせるように、薫ちゃんが呟く。

 私は床に膝をつき、視線の高さを合わせた。


「走りに興味があるなら、私が走り方を教えてあげる。今年は無理だけど、来年には一緒にプールとか海にも行ける。まぁ、私はカナヅチだから海は怖いけど」

「私、泳ぐの得意なんです」

「ホント? じゃあ、薫先生に教えてもらおっかな」

「先生って、私が教えるんですか?」

「うん。薫先生が教えてくれたら、私、泳げそうな気がするから」

「ふふ、分かりました。じゃあ、まずは私自身が泳げるようになるよう頑張ります」

「こらこら、またぁ、頑張り過ぎは禁物だよ」

「分かりました。ゆっくり、私自身のペースで、ですね」

「うん、そう。だから、ね。待ってるから。焦らないで。ゆっくり行こう。がむしゃらにひとりで突き進まないで、誰かと並んで。それで、歩けるようになったら、そのときは好きなように走ればいい。どこにだって行けるんだから」

「結衣さんも……もう、自分の好きなように……走れるんですか?」


 それは、柑奈のことを言っているのだろう。

 そして私自身のことも。

 薫ちゃんは、心配してくれていたのだ。

 本当にいい子だ。

 妹にしたいくらいだ。

 いや、もう私に妹に(勝手に)認定した。


「私はね、今日……ここを出るときに、背負ってたもの全部置いて行こうって決めてたの。運動の第三法則――前に進むためには、何かを後ろに置いていかなければならない。背負っていたら、速く走れないから……」


 それは物理の話で、だけど、ここで言う『何か』とは物質の話ではなく、気持ちの話なのだ。


「だけどね、すべてを置いていったら、ダメなんだよね。少なくとも、ここには、私が走ることを応援してくれる人がいる。そういった気持ちまで、置いていきたくない。それは、背負わなきゃいけない……ううん、背負いたい。それが、私の背中を押してくれるから」


 そう、胸を張って言える。


「結衣さん、カッコよすぎです」


 目尻を指で拭いながら言う薫ちゃんに、結衣は思わず視線を伏せた。


「カッコよくなんてないよ。今だって、柑奈に何か言わなきゃいけないのに、どうしても言えない自分がいる」

「結衣さん……」


 情けないな、と思う自分に向かって苦笑する私に、薫ちゃんが抱きつく。


「――ッ!」


 あまりの唐突なことに驚く私の耳に、松葉杖が廊下に倒れる音が届いた。


「結衣さんだって、頑張る必要、ないんです!」


 頭の上で、薫ちゃんの必死な声が聞こえる。


「考える必要なんてないんです! きっと、柑奈さんを前にすれば、結衣さんが柑奈さんに伝えたい言葉が自然と出るはずです!」

「薫ちゃん……」


 その言葉が、私の胸に沁み渡る。

 ずっと考えてた。

 今日を最後に、ここに来るのを止める。

 つまり、これから柑奈にかける言葉は、別れの言葉だ。

 でも、どんな言葉をかけてあげればいいのか……。

 ずっと、ずっと考えてた。

 まるで、作文を書いて、みんなの前で発表するかのように。

 考えてしまっていた。

 本当は、そんな必要なんてないのに。


「ありがとう、薫ちゃん」


 私は、薫ちゃんの体を支えながら、胸に埋めていた顔を引き離した。


「手、離してみてください」


 そう言う薫ちゃんの自信に満ちた表情に、私はそれでも恐るおそる手を離した。

 薫ちゃんは両腕を少しだけ上げ、バランスを保つようにして、そのまま立っていた。


「私も、前に進めました」


 薫ちゃんが満面の笑みを浮かべる。

 薫ちゃんの言う前へとは、実際に進むことではなく、リハビリの段階のこと。


「このまま見送らせてください」


 そう言われては、松葉杖を拾って渡すことなどできない。

 薫ちゃんが、ゆっくりと足をするようにして、一歩分横に移動する。


「分かった。じゃあ、行くね」

「はい。行ってらっしゃい」


 薫ちゃんを横切り、歩き出す。

 その背中を、小さな手が触れる。

 踏ん張りがきかないから、押すというよりも、本当に触れただけ。

 だけどその感触に、一歩目の足が、大きく、強く踏み込まれた。結衣は振り向かず、そのまま歩き続けた。

 振り返らない。前だけを向く。

 前へ、前へ。


            ※


「柑奈」


 スライドドアを開けて、病室に入る。


 ほどよく効いた空調のなか、柑奈にはブランケットがかけられていた。

 本当に、これじゃまるで、昼寝をしているみたいじゃないか。

 私は部屋の奥にある椅子を引っ張り出して、柑奈の足下に座った。

 いつもの要領で、ブランケットをまくり上げる。

 毎日見てきた、柑奈の足。白く、そして細い。


「明日から、インターハイが始まる」


 両手を伸ばして、右足に触れる。


「私、小さい頃からかけっこが好きで、誰かと一緒に走るのが何よりも楽しかった」


 親指を足裏に当て、押し込む。


「一番になったときなんて、嬉しくて堪らなかった。小学校に入学して、体育の授業でやるリレーも好きだったし、学年で女子一番っていうのも、悪くなかった。お母さんもお父さんも喜んでくれて、私の自由にさせてくれた」


 おかげで勉強はからきしだけどね、と笑って見せる。


「柑奈が転校して来てから、私たち、ずっと一緒に走ってきたよね。本当に楽しかった。私と同じくらい走るのが好きで、そんな子、他にはいなかったから」


 春休みを前に真菜が転校して、新学期に柑奈が転校してきた。

 そして、その柑奈は、誰よりも速かった。


「楽しかった。毎日が楽しかった」


 指圧から、足裏を親指で押すようにしながらなぞっていく。


「でも、それから私は、一番をずっと獲れずにいた」


 足裏から指先へと移り、一本いっぽんを揉み、刺激を与えていく。


「ずっと、柑奈の背中を見てきた。ずっと、ずっと……。柑奈は速い。それは間違いない。でも、いつの間にか、私はそれを当たり前のように受け取って、柑奈は私よりも前にいなきゃいけないんだって、思い込ませるようになった。勝てない、言い訳にしてた。私が遅いんじゃない。柑奈が速いだけなんだ。だから、仕方ないんだって」


 右足のマッサージを終え、そっと下ろす。


「でも、あの日、柑奈が倒れたあの日だけは違った」


 今度は左足を掴む。


「あのときの私は、今までないくらいに絶好調だった。あの日だけは、私は柑奈に勝てるって思った。うぬぼれでもない。自意識過剰でもない。ずっと練習を続けて、その結果がようやく柑奈に追いついたんだって、そう思った」


 左足の裏を指圧していく。


「柑奈よりも先にフィニッシュできれば、柑奈がどんな表情をしているのか、見られると思った。ずっと後ろを走ってきて、見ることができなかったから」


 強すぎず、弱すぎず、適度に刺激を与えていく。


「でも、柑奈はずっと力を隠してた。抜けると思った瞬間、柑奈が加速して、追い抜かせないぞって言うように、前を譲らなかった。凄かった。震えた。恐ろしかった。私が相手にしているのは、こんなにも凄い相手なんだって。それでも食いつこうとして、でも……負けた」


 動かしていた手を止める。


「自分の限界を超えて、走った。体じゅうが痛くて、でも柑奈が倒れて、それどころじゃなかった。だって柑奈も、限界を超える走りをしたから。だから、倒れちゃったんだよね。ずっと柑奈のこと見てきたから、分かるよ。柑奈よく、走り終わった後、頭を押さえてたよね。痛そうに、顔をしかめてたときもあった。私に見られてるって気づいて、何でもない風にしてたけど、ずっと見てきた。柑奈が入院して、一功さんと話してて、言ってたんだ。柑奈が昔、一功さんと杏子さんが口論しているのを止めようとして、突き飛ばされて、頭を打ったって。それから柑奈が、よく頭を押さえるようになったって」


 私はすがるように、柑奈の足を掴んだまま、顔を伏せた。


「ずっと、思ってた。私のせいなんだって。柑奈に本気を出させちゃったから、倒れたんじゃないかって。それが怖くて……だから、毎日こうやってお見舞いにきて、また走れるようにってマッサージをして……でも、全部が全部、柑奈のためなんかじゃない。私自身のためだった。罪滅ぼしにもならない、自分が安心するための……」


 柑奈の親指の先に、額が触れる。


「でもね――」


 そう言ったところで、額に衝撃が走った。


「いてっ!」


 まるでデコピンをされたかのような、軽い痛み。

 その勢いで顔を上げた私は、柑奈の親指が動いたのだと分かった。

 まるで、馬鹿な私に一喝を入れたような、そんな一撃。

 私は思わず吹き出すようにして笑い、目尻に浮かんだ涙をすぐに拭った。


「人の話は最後まで聞く。私は、でもね――って言ったんだよ」


 手を伸ばし、柑奈の左足をそっと掴む。


「でもね、そうじゃない。柑奈は、本気で走ってくれた。柑奈はずっと、全力を出さなくても勝ててた。だから、頭の痛みもなかった。でも、私と走るとき、柑奈は頭を押さえるようになった。私が、速くなっていったから。だからあのとき、柑奈は全力を出してくれた。私に負けないため。勝つために。限界を超えてでも、一番になるために」


 もう片方の手も伸ばし、包むようにして柑奈の足を掴む。


「ありがとう、柑奈。本気で走ってくれて。でもね、それも今日まで。明日のインターハイで、私は勝つから。誰よりも速く、誰よりも前へ。全部、一番でフィニッシュして、決勝で柑奈に勝つ。真菜にも勝つ。もう誰にも私の前を走らせない。全部、本気で挑む。本気を出した柑奈にも負けない。ずっと負けてたけど、もう負けない」


 立ち上がって、ブランケットを戻す。


「勝つのは、私だから」


 そう言い残して、私は病室を出た。

 去り際に見た柑奈の表情は、角度のせいか、どこかほくそ笑んでいるように見えた。


            ※


 インターハイ初日は、開会式がある。

 私と真菜は、同じ福井県代表として、プラカードを持った係員に続き、行進するようにして入場した。

 所定の位置で立ち止まり、他の県の選手の入場が終わるのを待つ。

 真菜は私の後ろにいた。


「なんか、場違いな気がする。ねっ、真菜……真菜?」


 肩越しに振り返ると、真菜はどこか遠くを見ていた。

 その視線を辿り、同じ方向へと顔を向ける。

 そこで、目が合った――気がした。

 いや、実際には真菜と視線を合わせているのだろう。

 埼玉代表のプラカードの後ろに並ぶ選手たちのうち二人の女子が、こっちを見ていた。

 驚いたことに、二人は同じ顔をしていた。

 似ているとかじゃない。同じなのだ。

 

(一卵性の双子だ。すごい、初めて見た。ホントに同じなんだぁ)


 と思ったが、表情がまるで違う。

 ひとりは睨むように、そしてもうひとりはどこか不安げに。

 真菜は、埼玉から引っ越してきた。

 だとしたら、あの双子はもしかして真菜と同じ高校の……。


「真菜……真菜!」


 まるで縫い付けられたかのように見続ける真菜に、これはよくないと思った私は、少し声を荒げ、真菜を呼んだ。


「……結衣」


 気づいたように、ようやく真菜の視線がこっちを向いた。

 ちらりと双子を見ると、あっちもあっちで糸が切れたかのように、顔を正面に戻していた。


「どうしたの? 知り合いでもいた?」

「……あ、うん。前の高校で同じ陸上部だった……」


 歯切れの悪い受け答えに、私はあえて気づいていないふりをした。

 それっきり、真菜は顔を伏せていた。

 その表情は、罪悪感でいっぱいだった。

 あの双子に、真菜が何をしたというのか。

 それは分からない。

 分からないけど、今の真菜の状態は絶対によくない。

 真菜自身が望んだ、完璧なパフォーマンスを発揮できないでいる。

 私はちらりと双子の方を見た。

 そのうちのひとり――睨んでいた方の片割れが、また真菜に視線を向けていた。

 真菜は俯いていて気づいていない。

 だから、私が代わりに、ガンを飛ばす勢いで睨みつけた。


「――!」


 それに気づいた片割れが、驚いたように顔を背ける。


「ふんっ」


 私はそれでも気分が晴れず、むしろ悶々としていて、そのあとの開会式など一切覚えていなかった。


            ※


 開会式が終わって、結衣と別れた私は家に戻った。女子百メートルは二日目にあるため、初日はそのまま帰宅した。

 あの二人と目が合ってから、私は自分があの二人にしたことの大きさに気づき、落ち込んでいた。

 結衣は何度も心配して声をかけてくれたけど、私は結衣に心配かけたくなくて、何でもないと言い続けた。

 結衣には、最高の状態を保っていてほしいから。

 私のことで煩わせたくはない。

 電灯も消して、真っ暗な中で横になる私の目の前にあるスマホ。

 そのスマホに、何度手を伸ばそうとしたか。


(結衣……)


 きっと、連絡すれば、話を聞いてくれる。


(結衣……)


 きっと、話を聞いてくれれば、来てくれる。


(結衣……)


 きっと、来てくれれば、私を励ましてくれる。


(でも、ダメ……!)


 いつの間にかスマホに触れていた手を、私は静電気が発生したかのように反射的に引っ込めた。

 そのまま自分の手を封じ込めるように、背中を丸めて体を縮こませる。


(大丈夫。私は大丈夫。大丈夫、だから……)


 明日は、私たちにとって晴れの舞台になる日。

 女子百メートルの競技がある日だ。

 あの二人なら、予選は絶対に突破するし、決勝にだって残れる実力を持っている。

 だって、あの二人は私と同じで、立花コーチの指導を受けていたから。

 こんな状態で二人と対峙しても、私は百パーセントの力を発揮できる自信がない。

 割り切ったはずなのに。

 覚悟していたはずなのに。

 半ば喧嘩別れみたいな雰囲気で、私は二人の下を去った。

 そうしないといけなかったから。


 ――三人で一緒にインターハイに行こうって、約束したのに!


 双子の姉である鈴の叫びが、ずっと耳に残っている。


 ――鈴のこと裏切ったら、絶対に許さないから。


 妹の方の琴が、声を荒げることなく、静かに残した言葉が心臓を鷲掴んでいる。

 二年間の高校生活で、鈴と琴は、私にとってはなくてはならない存在だった。

 二人がいたから、やってこれた。

 クラスで浮いていた私に声をかけてくれた琴。

 一年で選抜された私をやっかむ上級生に、「口じゃなくて実力で示してください、先輩方」と言ってくれた鈴。

 二人のことは大好きで、だから別れるのだって辛かった。

 でも、それでも――そう言い聞かせて、私は二人と別れ、転校した。

 割りきったと思ったのに、それは思っただけで、全然割りきれていなかった。

 こんな気持ちで明日を迎えていいのだろうか。

 やっと、最高の舞台で結衣と走れるのに。

 この日のために頑張ってきたのに。

 私は、自分のコンディションを保つことができずにいる。

 そんな私が、結衣の相手などできるはずがない。

 その資格が、ない。

 今の結衣はすごくいい。

 見ているだけで分かる。

 おそらく、インターハイで走る結衣は、これまでの結衣とは違う。

 だから、邪魔したくない。

 煩わせたくない。

 私がこうやって耐えていればいいだけ。

 結衣が最高のコンディションで最高のパフォーマンスを発揮して走ってくれれば、私は――


「――ッ!」


 そのとき、スマホが鳴った。

 メッセージを伝える着信音。

 スマホの画面が、暗闇の中で光る。

 私は強張っていた体を緩め、スマホに手を伸ばした。

 スマホを掴み、自分の方へと画面を向ける。

 そこに映っていたのは――


            ※


 スマホを手に持ったまま、私はサンダルをつっかけ、外に出た。

 家のすぐ裏手にある九頭竜川の堤防――その一番上に、結衣がいた。

 腰を下ろして座り、私に手を振っている。

 私は階段をのぼる前に、この気持ちを悟られないようにと呼吸を整え、それから階段をのぼった。

 堤防の階段は勾配がきつく、一段が高い。

 そのため、幅広の階段の真ん中には手すりが設置されている。

 その手すりに掴まりながら、私は階段をのぼり、一番上まではのぼりきらず、結衣と視線の高さがあったところで足を止めた。


「どうしたの? 急に呼び出して……」


 結衣からのメッセージに喜んでしまった自分を隠すように、なんとも思っていないような、いつもの口調で対応する。


「ねぇ、真菜。私、真菜にすごくお世話になった。真菜が転校してきてくれたから、陸上部にも戻れたし、インターハイにも出られる」

「それは、私自身のためで……」

「うん。それでも、真菜には感謝している」


 結衣が立ち上がって、手すりを回り込んで、見下ろすように私の目の前に立って、


「だから、今度は私が真菜を助けたい」

「助ける?」


 一体何を言っているのだろうかと思ったが、結衣の表情は真剣そのものだった。


「開会式で、埼玉県代表の子に睨まれてたでしょ?」

「……うん」


 やっぱり気づかれたいたと知って、私は顔を伏せた。


「やっぱり……。睨んでた理由……なんとなく察しはつくよ。でも、だから、私は言うよ」


 一体、こんな私に何を言うことがあるのかと、顔を上げようとした私に、


「そんなこと気にするな!」


 結衣が、正面から叫んだ。


「あんたは何のために転校してきたの! 未練もあったかもしれないけど、それは承知の上でしょ? それでも転校したい理由があったんでしょ? 私と勝負したいって思って来てくれたんでしょ! だったら、私を見て! 私だけを見なさい!」

「――ッ!」


 そうだ。

 いま目の前にいる吉田結衣という存在に会うために、そしてまた競走したい気持ちを抑えきれず、すべてを投げ捨てでも私は転校を選んだのだ。


「余計なことは考えずに、私と明日、勝負してよ。最高の舞台なんだよ? それなのに、真菜がそんな状態じゃ、楽しめないよ」


 叫んでた結衣の口調が、一変して柔らかく諭すようになった。


「もし、前の高校の子に申し訳ない気持ちがあるなら、それさえも仕方ないって思わせるほどの走りを見せてあげようよ。それが、いまの真菜にできることじゃないかな?」


 結衣の微笑みに、私は心が軽くなったのを感じた。


「そう……だね。……うん、そう。私も、最高の走りがしたい。結衣と決勝で、競いたい。だから、もう迷わない。悩まない。私は、私が下した決断を、後悔しない。そのためにも、誰にも負けない走りをする」


 二人に対しての申し訳ない気持ちが、ずっと蟠りとなっていた。

 なんて言っていいのか、どう弁解していいのか、そもそもそんな権利があるのか。

 だけど、そんなこと必要なかった。

 鈴が、私を僻んだ上級生に言ってくれた、実力で示せという言葉を、今度は私が二人に示せばいい。

 たぶん、それだけでいいんだ。

 結衣の目を見つめたまま、言いたいことを言い尽くす。

 それを受け止めてくれた結衣が、ふっと表情をゆるめ、ポケットに入れていた手を抜き、その手に持っているものを見せてくれた。


「これ、つくったんだ」


 結衣の手にぶら下がっているのは、二つのミサンガだった。


「ほら、のぼってきて」


 手を差し伸ばされ、私はその手をとって、上まであがった。

 そこで結衣が手のひらにのせたミサンガを改めて見せてくれた。

 色はカラフルで、赤、青、緑、黄、そして黒と五色で編み込まれていた。

 それは、オリンピックの色。

 見方を変えれば、頂点の証。


「私と真菜だけのお揃いだよ」

「――ッ!」


 その言葉に、全身がぞくっとする。


「つけてもいい?」


 結衣の確認に、私は言葉が出ず、何度も頷いて見せた。

 私の右手首にミサンガを回し、アタッチメントで繋げる。


「これでお揃いだね」


 そう言って、結衣が左腕を上げる。

 その手首には、同じミサンガがはめられていた。


「森田まつりで買ったブレスレットの代わり、みたいなものかな。これなら、ずっとつけていられるから」

「結衣……」


 私は、ミサンガを包むように、自分の右手首を握りしめた。

 そうすると、結衣の気持ちが伝わってくるようで、暖かいものが胸に染みこんでいった。


「これをつけている以上は、目指すはてっぺんのみ。明日、勝つよ」

「勝つのは、私」

「うん。それでこそ、真菜だ」


 そう言って、お互いに笑い合う。

 鈴と琴に対して、何か弁解しなければと考えていた。

 だけど、語ることなどなかったのだ。

 口で言う必要はない。

 語るとするならば、それはこの脚で語ろう。

 だってそれが、一番相手を納得させられる方法なのだから。


            ※


 インターハイ二日目。

 今日、女子百メートル競走が行われる。


「おはようございます」

「おは――あれ、立花さん、どうしてここに? 今日は――」


 私の顔を見るなり、受付の七瀬さんが驚いた顔をした。無理もない。


「ええ、本当なら、あの子たちの傍にいてあげないといけません。でも――」


 昨日、吉田さんから連絡があった。

 そして、お願いをされたのだ。


「今日は、柑奈の傍にいてあげたいんです」


 私は、柑奈が眠る病室の方へ視線を向けた。


「でも――」

「そうですか」


 七瀬さんは、吉田さんを思って言おうとしたのだろう。

 それを、七瀬さんの先輩が遮るように前に出て、私にバインダーを手渡してくれた。

 私は、それに必要事項を書き込んで返した。


「今日のインターハイは、私たちもここから応援してます」

「ありがとうございます」


 受付から休憩スペースに設置されている液晶テレビが、大会の様子を映している。


「あの、立花さん」

「はい」


 七瀬さんが身を乗り出すように立ち上がる。


「結衣ちゃんは、勝ちますよね」


「……それは、分かりません。でも、今日の吉田さんは、これまでで一番の走りを見せてくれます。必ず」


 だって、約束してくれたから。

 柑奈と――娘と、本気で走る、と。

 私は最後に笑みを返し、柑奈が眠る病室に向かった。


「結衣ちゃ―――ん! ファイトォ―――!」

「静かに応援しなさい!」

「あいた!」


            ※


 病室に入ると、いつもと変らず、柑奈がベッドで眠っている。

 何度見た光景だろうか。

 本当に眠っているようで、昏睡状態なんて信じられない。

 信じたくもない。

 だけど、娘は目を覚ますことなく、二年間、眠り続けている。

 こうして病室に入ってそれを見るだけでも辛い。

 でも、これを吉田さんは、一日も欠かすことなく、二年間、見てきた。

 柑奈に会いに来てくれていた。

 ずっと。

 だから、私は吉田さんの願いを叶えるために、何よりも柑奈のために、競技場にではなく、ここにきた。


「柑奈」


 椅子を引き寄せ、隣に座る。


「今日はインターハイで、吉田さんが百メートル走を走る日よ」


 腕に提げていた鞄から、スマホと充電用のコードを取り出し、繋げていく。


「私も、今日はここから応援するわ」


 スマホを柑奈の枕の横に置き、音量を上げる。

 背中に温かさを感じ、振り返る。

 窓から見える空は、雲ひとつない晴天。

 立ち上がって地上を見下ろすと、背の高い木や田んぼの稲がそのままでいる。


「今日は風もない。まるで、あの日のよう」


 映像で見た、二年前の記録。

 あの日も風はなかった。

 同じ天候、同じ競技場――これは偶然か、それとも……。

 指定の時間になり、各競技が始まる。


「まずは予選ね」


 椅子に座り直し、映像を見下ろす。


「大丈夫よ。吉田さんも水城さんも、予選なんかで落ちたりしない。私は、そんなにヤワに教えたりはしない。でも、あなたには、私は厳しすぎたのね。もし叶うなら、もう一度、あなたに教えてあげたい。そうすれば、今度はちゃんと、あなたを導くことができるから」


 でも、そのチャンスはない。

 希望は常にある。だけど、それはあまりにも儚い。


「吉田さんも水城さんも、決してあなたの代わりではないわ。でも、二人なら、今の私がやってきたことが正しかったって、間違っていないことを、あなたにしてしまったことを教訓にやり直した私の考えを、証明してくれるはず」


 いまさら名声なんていらない。

 選手の活躍に、よく監督が取り上げられる。

 だけど、私はそんなことは望んでいない。

 ただ、吉田さんと水城さんに勝ってほしい。

 それだけ。

 スマホの画面が、予選を映し出す。

 ひと組、またひと組と走り出し、準決勝への駒を進めていく。

 私は気がつけば固唾を呑んで、それを見守っていた。

 ピクッ――と、かすかに柑奈の足の指先が動いたことに、気がつかないほどに。


            ※


 午前中の予選が終わって、私も真菜もそれぞれの組で一着でフィニッシュした。

 準決勝に進み、ひとまず安心する。


「お昼、行こっか」

「うん」


 陸上競技のウェアの上から体操服を着て、外に向かう。

 競技場の外には芝生が広がっていて、どこか静かで人のいないところはないかと探していると、それは私の前に立ち塞がった。


「あんたたちは……」


 真菜が前にいた埼玉の高校の陸上部に所属する双子だ。


「真菜、久しぶり」

「久しぶり、琴」


 同じ顔だけど、こっちは表情が穏やかというか、目尻が下がっている。


「鈴も」

「うん」


 一方、目つきの悪い方は、真菜から声をかけてもぶっきらぼうに返事をした。

 肩越しに振り返り、真菜を見やる。

 心配だったけど、それは杞憂だった。


「あのね――」

「あの――」


 言葉が重なった。

 そして、お互いに言葉を止めた。


「鈴、琴、あのね――」

「真菜が転校した理由って、その人?」


 鈴が私に視線を向ける。

 開会式同様、睨み返してやろうかとも思ったが、二人の会話を邪魔するわけにはいかない。


「うん」

「……そっか」


 どこか溜息をついたような口調で、鈴が呟く。


「で、やらなくちゃいけないことっていうのは、できたの?」

「う、うん」


 責める口調でもなく、声を荒げるわけでもなく、まるで確認するかのように訊いてくる鈴に、真菜もどこか呆気にとられていた。


「なら、私に言うことはないよ」

「……え?」


 思わず首を傾げる真菜に、今度は琴が口を開いた。


「真菜、私たちは別に、怒ってるわけじゃないの。もちろん、裏切られたとかそんな物騒なことも思ってない。ただ、寂しかっただけ」

「でも……私……」

「分かってる。真菜はやさしいから、罪悪感を抱いてたと思う。自分は悪いことをしてしまったって……それは、私たちにはどうすることもできない、真菜の心だから。でも、私たちの心は、真菜を責めてなんていない。私たち、双子だから、いつも二人で一緒だった。二人で十分だった。でも、真菜が入ってきて、私たちは三人でひとつになった。だから、その真菜が抜けて、ぽっかりと穴が空いてしまったみたいに感じて、寂しかっただけ」

「でも、約束……」

「守ったじゃん」


 鈴が前に出る。


「こうしてインターハイの舞台で、顔を突き合わせてる。一緒な舞台にいる」

「でも、琴音……」

「鈴との約束を守ったんだから、裏切りにはならない」


 穏やかな、琴の微笑みと口調。


「わ、私……」

「もう、いいよ」

「怒って、ないの?」

「怒っては、いない」


 そう言いながらも、鈴はそっぽを向いていた。


「こらこら鈴、拗ねないの」


 からかうような口調で、琴が鈴の頬を指でつっつく。


「すねてない」


 手で琴の指を払う鈴。

 その表情は、明らかにすねていて、それでいて――


「照れてる」


 思わず私が口に出すと、


「――ッ!」


 図星をつかれた鈴が私に向かって何か言おうとするも、


「鈴、照れてる」

「て、照れてない!」

「もう、可愛いんだから」


 琴に言われ、それにはすかさず返していた。さすがは双子だ。


「あなたが、吉田結衣さんですね」


 琴が、私の方へ歩み寄る。


「私は深山琴音。鈴音とは双子で、妹です」

「逆なのでは?」

「よく言われます。まぁ、どっちが先に出てきたかの違いなので、私たちはどっちが姉で妹かは気にしていません」


 それでも、琴音が姉で、鈴音が妹と言われた方がしっくりくる。


「ずっと気になってたんです。高校でずっと、私も鈴も、真菜から吉田さんのことを聞かされていたので、それはもう耳にタコができるほど」


 そう言われて真菜を見やるが、真菜は鈴音と向かい合いながら、お互いになぜかもじもじしていた。

 お見合いか! と突っ込みたくなってしまったが、やめた。


「あの真菜に転校の決断をさせるほどの人がどんな人が、ひと目見たかったんです」

「で、どうですか?」

「ひとまずインターハイに出る実力はあるので合格、ですが――」


 ずい、と琴音が詰め寄る。もう一歩分の間もない。


「真菜の決断を無駄にするような走りを見せたら、その時は失望します」


 ああ、鈴音も、そして琴音も、真菜が大好きで仕方ないんだ。


「それならご心配なく。今日の私は、誰にも負ける気がしないんで」


 だから、自信たっぷりに笑みを浮かべて見せると、それに琴音も満足したのか、にこりと微笑み、後ろに下がった。

 そんな私と琴音がやり取りしている横で――


「鈴……こうやって、一緒にインターハイに出られて、嬉しい」

「私も、開会式で真菜を探して、見つけたとき、すごく嬉しかった」


 あの睨みで内心は喜んでいたとなると、相当な天邪鬼だ。

 今は表情と思っていることが一致しているのか、照れるように顔を伏せている。


「お互い、全力で走ろうね」

「うん」


 お互いに手を差し出し合い、握手を交わす。


「ねぇ、琴音さん。これから私たち、お昼なんだけど、一緒に食べませんか?」

「いいですねぇ。ちょうど、お昼のお弁当が配られるはずなんで、一緒に食べましょう」

「それと、連絡先、交換しませんか。真菜のあれこれ、報告しますよ」

「それはありがたいです」


 私はすっかり琴音と意気投合し、スマホを見せ合いながら歩いた。

 その後ろで、


「また、メッセージ、送ってもいい?」

「うん。また話そう」


 そんな会話が聞こえて、私も琴音もニヤニヤが止まらなかった。


            ※


 お昼になって、私は一度コンビニで昼飯を買い、センターに戻ってきた。

 休憩スペースでは地上波の生放送を映しているため、お昼はニュースが流れている。

 一方で、私は動画配信されている現場のライブ映像を流しているため、お昼の休憩時間もそのまま会場の音が流れていた。

 その音を聞きながら、窓際でおにぎりを頬張る。

 吉田さんと水城さんは予選を突破。

 二人とも組のなかでは一番で、言うことなしだ。

 それに、埼玉の高校で教えていた陸上部の双子――鈴音さんと琴音さんもいた。

 二人も、実力のある選手だ。

 双子で走り方や癖も同じだが、ここぞというところでは鈴音さんが一歩前に出ている印象があった。

 自分の教え子がこうして残ってくれるのは、純粋に嬉しい。

 なんだか、会場で水城さんと通して四人が仲良くしている姿が目に浮かぶ。

 そこに柑奈が入っていれば、母親としては微笑ましい光景になったことだろう。


(みんな、頑張ってね)


 そう思いながら、私は窓越しに競技場がある方へ視線を向けた。


            ※


 準決勝が始まり、私は最初の組で走ることになった。

 その組には、琴音がいた。

 準決勝は三組に分けて走り、各組先着二名+タイム上位二名で、決勝は八名で競う。

 琴音さんがどんな走りを見せるのか私は知らない。

 それでも、ここまで残っていることと、杏子さんの指導を受けていたことを考えれば、強いことに変わりはない。

 だけど、ここに並ぶ他の選手だって強い。

 誰が残るのかは分からない。

 それでも、私は自分が落ちることだけは、微塵も思ってなどいなかった。

 勝負が始まり、そして終わる。

 私は予選よりも速いタイムで走り抜け、一着になった。

 振り返り、電光掲示板の結果が出るのを待つ。

 一着に自分の名前が表示される。

 だけど、二着は琴音ではなく、他の選手だった。


「吉田さん、決勝進出おめでとうございます」


 背後から肩に手を置かれ、私は肩越しに振り返った。


「琴音さん」


 彼女の視線の先――電光掲示板の順位で、琴音は五着だった。

 こうなると、先着二名以外の残る二枠に入れる可能性も低くなる。


「お昼ご飯がおいしかったから、食べ過ぎたのかもしれませんね」


 私よりも少し前に出る琴音の表情を、窺うことはできなかった。

 二組目に鈴音が走り、二着でフィニッシュした。

 まるで、姉の分まで走るという気概を見せるかのように、彼女の表情は恐ろしささえ感じられた。

 だけど、あれでは力みすぎではないかと、私は傍から見て思った。

 隣に立つ琴音も「あの子にはいつも、自分だけのために走れって言ってるんですけどね」と、困ったような、でも嬉しそうな、そんな曖昧な表情を見せていた。

 三組目に真菜が走り、これは余裕の一着でフィニッシュしていた。

 その走りを見て、私は固唾を呑んだ。

 別に真菜は敵ではないし、友達として当然のことをしただけだが、それでも『敵に塩を送る』という言葉が浮かんだ。

 私を真菜がここまで引っ張り上げてくれた。

 そんな真菜が苦しんでいたら、助けるのは当然で、でも結果的には、鈴音も琴音もいい人で、真菜のことを想ってくれていた。

 それでも、あれがなかったら、私は真菜にアルカンシェルのミサンガを渡さなかっただろう。

 自分の左手首に巻かれたミサンガを、右手で包むように掴む。

さぁ、ここは最高の舞台。

 そして、私は今、心身ともに最高の状態だ。

 もう、誰にも負けない。

 誰でもかかってこい。

 鈴音にも、真菜にも負けない。

 そして、柑奈にも……。


 午後四時を過ぎ、女子百メートル競走決勝が始まりを告げた。


            ※


 松葉杖で歩くことにも、だいぶ慣れてきた。

 三島さんに付き添われながら、私はセンターの休憩スペースにある液晶テレビの前で立ち止まった。

 そこで、地上波でインターハイの生中継が放送されている。

 受付の七瀬さんも、カウンター越しにじっと見つめている。

 その奥で仕事をしている他の看護師さんたちも、ちらりちらりとテレビの方に視線を向けていた。


「決勝、ですね」

「そうね」


 ごくりと唾を呑み込む私の肩を、三島さんがそっと撫でる。

 決勝が始まると、八名の選手がスタート地点へと歩くようにして前に出た。

 アナウンスで選手一人ひとりが紹介されていく。

 その紹介に合わせて、地元のテレビ局のカメラが、選手の表情をおさめていった。

 最後のレーンで、結衣さんが映った。

 その表情は笑顔で、とても楽しそうだった。


「心配なさそうね」

「そうですね。とっても、楽しそうです」


 映像が、レース全体を映す位置に変わる。


(そういえば、結衣さん。リボンを……)


 アップで映った結衣さんは、いつもポニーテールをするときに使っていた白いリボンをしておらず、黒いゴムでとめていた。

 そして、その白いリボンを、ハチマキにしていた。

 予選でも準決勝でも、そんなことはしていなかった。


(結衣さん……)


 絶対に負けないし、一番でゴールすることは分かっている。

 それでも、私はこうして両手を合わせ、祈ることしかできなかった。


            ※


「もうすぐ決勝ね」


 柑奈の隣でずっとライブ映像を見ていた私は、柑奈の髪を結ぶ黒いリボンに目を向けた。

 幼い頃、柑奈に与えた二本のリボン。

 髪を結んで、少しでも走りやすくするようにと結んであげたことがあった。

 そのとき結んであげた位置がたまたま首の後ろで、でもそれを柑奈は気に入ってくれて、ずっと同じ髪型で走り続けていた。

 もう一本の白いリボンは、実際には使わず、予備として常に持ち歩き、お守りのような存在になっていた。

 現役時代、何度か使ったことがあった。

 お守りのように常に身に付けていたため、私は誰にも秘密で、そのリボンのちょうど真ん中に、自分への励ましの意味で、マジックで文字を書いていた。


『前へ!』


 それを柑奈にも渡していた。

 私は自分がお守り代わりに持っていたことを柑奈にも教えていた。

 だけど、柑奈はそれを譲った。

 転校先で、再び走ることの楽しみを教えてくれた、友というライバルに。

 ずっとポニーテールをするのに使っていた白いリボンを、この決勝という場で、ハチマキとして使用している。

 それは、私が現役時代にやっていたことだ。

 大会で決勝に残れたとき、私はその白いリボンをハチマキにしていた。

 今の吉田さんはまるで、私の真似をしているかのようで。

 前に吉田さんが言っていた。


『私には、憧れていた選手がいたんです』


 いた、と言われ、その人物がもう吉田さんにとっての憧れではなくなってしまっていたのだと知った。

 だけど、その吉田さんが、この決勝の場で、白いリボンをハチマキにしている。

 私は、嗚咽が漏れそうになるのを堪え、手で口を覆った。

 まだ、泣いちゃダメだ。

 泣いたら、涙で見えなくなってしまう。

 見届けないと。

 彼女たちの、走りを。

 私は、椅子から立ち上がって、柑奈の足にかかったブランケットをまくり上げた。 

 柑奈の白く細い足があらわになる。


「さぁ、柑奈。始まるわ。あなたたちの決勝が――」


 アナウンスが『On your marks』を告げた。


 決勝が、始まる。


            ※


『On your marks』


 会場に流れていた音楽や観客の声、拍手が一瞬で途切れる。

 そのアナウンスに、私はスターティングブロックの前に出た。

 私は一番端の9レーン、真菜は8レーン、鈴音は7レーンと、まるで何かの計らいを感じずにはいられない並びとなっていた。

 選手たちが軽くジャンプをしたり、腕を伸ばしたりするなかで、私はただ瞼を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。

 吐き出すと同時に瞼を開き、腰を下ろす。調整したスタブロに足をセットし、膝と両手をトラックにつける。

 ここまで来たら、もう何も考えることはない。

 ただ、走るのみ。

 この光景は、まるで二年前の北信越のようだ。

 同じ会場で、当時は8レーンだったけど、何よりも場の空気が変わらない。

 もしここに、柑奈がいたら……。

 ひゅう――と風が横から吹いた。

 ポニーテールの毛先が首を撫で、私は思わず風が吹いた方――右に視線を向けた。


 そこに、柑奈がいた。


 それは、もう何度も見てきた、河川公園で二年前の会場の音を流しながら走っていたとき、必ず現れた、柑奈の幻影だった。

 そういえば、私はいつからあの練習をしなくなっていただろう。

 いつの間にか、柑奈と走ることをしなくなっていた。

 だって、あれは柑奈と走っているのではなく、柑奈の記録と走っていたから。

 真菜と出会い、走ることの意味を考え、柑奈との向き合い方を改めていくなかで、いつの間にかやめていた。

 その柑奈が、今この場に現れた。

 現れてくれた。

 今の私なら、やれる。

 柑奈の記録ではなく、柑奈自身と競える。

 柑奈はレーンの外側で、同じようにスタブロに足をセットしているかのように構えていた。

 私は正面を見据えた。これで、すべてが揃った。


『Set』


 選手たちが一斉に腰を上げる。

 そして、


 ――パァァァン!


 スターターピストルの音と同時、私たち選手八人と柑奈の競走が始まった。


            ※


「……え!」


 思わず声に出るほど、私は驚いていた。

 ピク、ピク、と柑奈の足が動いたからだ。

 しかも、一度や二度じゃない。

 ピク、ピク、と同じ間隔で、しかも左、右、と交互に動いている。

 それはまるで、走っているかのように。

 その動きは、スマホのライブ映像でスターターピストルが鳴ると同時だった。


(ああ、柑奈――あなたは今……吉田さんたちと一緒に、走っているのね)


 そう思った瞬間、見えた気がした。

 吉田さんの隣で走る、柑奈の姿が。

 それが例え幻覚だったとしても、構わない。

 柑奈が走っている姿をまた、見られたのだから。


            ※


 たった11秒から12秒の戦い。

 それに私たちは、青春を捧げている。

 ある人は記録を出すために。

 ある人は優勝するために。

 目的は違うかもしれないけど、思うことは、たったひとつ。

 誰よりも前へ。

 誰かの後ろでフィニッシュして喜ぶ人なんていない。

 誰だって一番を目指して、足掻いて、鍛えて、走っている。

 この公式の場で、一生に一度の競走で、結果を出すために。

 スタートと同時、どの選手よりも前に出る。

 だけど、右隣で走る柑奈だけは、私よりも前に出ていた。

 村上柑奈の不敗神話。

 中学から公式の大会すべてで優勝し、その都度、記録を塗り替えていった。

 他の選手からすればそれは絶望的で、人によっては走る気すら削がれてしまうような、そんな逸材。

 同じ世代に生まれたことを呪うことすらあるかもしれない。

 それほどまでに、柑奈の存在は異質で、あまりにも大きすぎた。

 だけど――だからこそ、挑みがいがあると考える者だっている。

 柑奈と出会った小学生のころから、ずっと負け続けてきた。

 どんなに挑んでも、どれだけ鍛えても、常に柑奈が前にいた。

 柑奈がどんな表情をしているのか見たこともなくて、フィニッシュしたあとの柑奈は、いつもひょうひょうとしていた。

 全力を出していない。

 まだ余力を残している。

 そんな、負けた側からすれば悔しくて堪らない表情を、いつも柑奈はしていた。

 それでも私は走った。

 一緒に走って、走って、走り続けた。

 柑奈は一度も手を抜かず、お世辞でも勝たせてあげようなんてことは一度もなかった。

 だからこそ、私が柑奈に勝ったとき、それは正真正銘、私の実力が柑奈を勝ったことの証明になる。

 柑奈が二年前の北信越大会で高校女子百メートルの新記録を出しても、私はそれが当然のように感じていた。

 柑奈が倒れるとは思っていなかったけど、それは柑奈が本気を出した証でもあった。

 その柑奈に、私は負けた。

 だからこそ、私は挑み続けた。

 その柑奈に勝つために、柑奈の記録に挑み続けていた。

 でもそれは違った。

 私が好きなのは、競走だ。

 決められた記録を抜くことじゃない。

 それを、多くの人との出会いによって、気づかされた。

 柑奈が倒れてから二年間、己を鍛え続け、いつか柑奈が目を覚ましたとき、また競走できるように。

 その柑奈が、私の期待に応えるように、現れてくれた。

 左手には鈴音と真菜が、右手には柑奈が――最高のライバルたちと一緒に、競走することができている。


 ――ああ、私はいま、さいっこーに、幸せだ!


 柑奈が前に出る一方で、左の視界端に真菜が追い上げてくる。

 さすが真菜だ。

 私と柑奈の間に、意地でも割り込んでくる。

 お前たち二人だけの勝負じゃない!

 そう叫んでいるような走りだ。

 もちろん、真菜には柑奈は見えていないだろう。

 だけど、感じているのかもしれない。

 真菜だって、ずっと柑奈に勝つために走ってきたのだから。


 ――だけどね、真菜、柑奈。


 悪いけど、私にも自負がある。

 この二年間、ずっとずっと己を鍛え、高め続けていた。私は自分の長所を知っていて、一功さんはそれを伸ばせと言い遺した。


 ――だから、ここからだ!


 後半を過ぎ、ここからは最高速を保つ走りになる中で、今までの私だったならば、ここですでに最後のギアを使っていた。

 だけど、今の私は違う。

 ここからさらにもう一枚、私は大きなギアを得ていた。

 そのギアにチェンジして、踏み込んでいく。


「――ッ!」


 ぐん、と勢いが増した。

 この二年間で鍛え続けた肉体が、私の走りに応じてくれる。

 回転を増すギアに、足がついてくる。

 追い上げようとしていた真菜が視界から消え、逆に柑奈へと迫っていく。

 もう十メートルもない。


 ――ここで!


 たった数秒。


  ――前に!


 たった数歩。


 ――出るんだああああああっ!


 そのあとわずかな距離を、全力で駆け抜ける。

 そして私は、最後にトルソーを投げ込んだ。

 柑奈と並ぶ。

 そのとき初めて、私は柑奈の表情を見ることができた。

 今まで見たことのない、必死な形相。

 柑奈は、私を相手に、全力で走ってくれていたのだ。

 フィニッシュを抜け、勢いを緩めながら駆ける。

 まるで風に吹かれるように、柑奈が消えていく。

 そのとき見せてくれた表情は、やり切ったような、穏やかな表情だった。


「結衣!」

「どわっ!」


 声がするなり真菜に抱きつかれた私は、あまりの勢いに倒れそうになった。


「優勝、おめでとう」


 耳元で真菜の声がする。

 嗚咽を堪え、洟をすする音と一緒に。


「真菜も、速かったよ」


 最後の最後で追い上げられなかったら、真菜に追いつかれていた。私は真菜をそっと離すと、向かい合った。


「私ね、柑奈と走ったの」

「柑奈さんと?」

「うん。柑奈がいた。一緒に走ってくれた。そして――」


 アナウンスが、結果を発表していく。

 私と真菜は体を寄せ合いながら、電光掲示板を見上げた。

 一着が表示される。

 吉田結衣の名前――そして、


 11.38


「結衣!」


 また真菜に抱きつかれた。

 同時に、会場が湧き上がる。

 アナウンスが、新記録を告げる。


「すごい。すごいよ、結衣。新記録だよ」

「勝ったんだ……」


 私はその記録を見上げ、呟いた。


「柑奈に……勝った」


 現実味がない。


「勝ったんだ……柑奈に……」


 だけど、確かにその数字が示してくれている。


「柑奈……柑奈……」


 私はすがるように真菜に抱きついて、泣いた。


「柑奈ぁ……柑奈ぁ……」


 風に吹かれ、空気にとけるようにして消えていく柑奈を見て、感じた。柑奈は昏睡状態になってからも、私と走ってくれていた。

 あんな姿でも、私と走ってくれた。

 その柑奈が、私の前から消えた。


「柑奈ぁ……ああ……ぁ……」


 泣き崩れる私を、真菜が支えてくれる。

 私の泣いている理由を、ほとんどの人が新記録を出したからと思っているだろう。だけど、本当の理由は誰も知らない。

 私はただ、友のために泣き続けた。  


            ※


 ドアの向こうで、喜びの声が聞こえた。

 休憩スペースの生放送で、吉田さんが優勝して、しかも新記録まで出たのだから、みんなが喜んでくれないわけがない。

 私だって、本当に心から嬉しい。

 だけど今は、喜ぶことはできない。

 柑奈の足が、吉田さんがフィニッシュすると同時に、ぴたりと止まった。

 走り終えたかのように……。


「あ……ああ……」


 私は椅子から滑り落ち、膝立ちで柑奈の足下まですり寄ると、震える手で柑奈の足に触れた。

 動かない。

 もう、柑奈の足は動かない。そんな気がした。


「柑奈……」


 私は両手でそっと柑奈の足を包むように掴み、自分の顔を寄せた。


「ごめん、なさい……私の、せいで……柑奈……」


 涙が溢れ、頬に触れさせていた柑奈の足の甲に涙が伝う。

 ドアの向こうからも、スマホの向こうからも、聞こえるのは歓喜の声。

 スマホの映像が、優勝した吉田のインタビュー映像に代わる。

 そこで吉田さんは、向けられたマイクを半ば強引に奪い取り、言った。


『柑奈あああっ! 聴いてるかあああっ! 私は、あんたに勝ったぞおおおっ! 聴こえてるかあああっ! 聴こえてないなんて言わせないぞおおおっ! 負けたのが悔しかったら、目ぇ覚まして、勝負しろおおおっ! 私はいつだって、待ってるからなあああっ! 柑奈ああああああっ! うわああああああん!」


 言うだけ言って、吉田さんは最後に号泣した。吉田さんらしい。

 こんなにも、柑奈のことを想ってくれて……でも、柑奈はもう――


「ぉ……かぁ……さん」


「……え?」


 幻聴か、それとも……。

 私は顔を上げ、柑奈の方を見た。

 そして――目が合った。


「かん……な……」


 信じられない気持ちと、目の前の事実に、私は全身の震えを抑えることができなかった。

 膝立ちのまま、ベッドを伝うようにして、柑奈の顔へと近づく。


「柑奈……」


 幻なんかじゃない。

 それを確かめたくて、私はそっと柑奈の頬に手を伸ばした。


「ごめん……さない……」


 柑奈の謝罪に、私は触れようとした手を止めた。

 なんで?

 どうして目を覚ました娘が、真っ先に謝るのか。

 私は、娘に謝られなければならないようなことを、したのだろうか。

 そう思うと、昂っていた感情が一気に冷え込み、私は手を引っ込めようとした。


「負け……ちゃ……た」


 そう呟いて、柑奈の視線がかすかに下に向く。

 その先にあるのは、ライブ映像を流しているスマホだった。


「柑奈――あなた……まさか……」

「うん」


 柑奈が頷き、口角をわずかに上げる。


「はし……てた。ゆいと……はし……た」


 声にならない声が嗚咽となって、私は口元を押さえた。


「おか……さん。私……つぎは……かち、たい……だか、ら……また……私に……おしえ、て……」

「ええ、ええ……一緒に頑張りましょう。また、走れるように――」

「うん」


 私は涙を流しながら、柑奈の右手をもう離さないとばかりに強く握りしめた。


「こんどは……まけない、よ……ゆい」


 顔を傾けた柑奈が、スマホの画面に視線を向け、真菜に宥められながら大泣きする結衣を見つめ、静かに宣言するのだった。

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