九章 前へ
台風一過。翌朝は蒸していたけど、晴天になっていた。
お世話になった秋人さんにお礼を言って、私は真菜と別れた。
家に帰るなり、母親に抱きつかれた。
「もう、結衣ちゃんの馬鹿! 心配したんだからね」
台風で帰れなくなって水城の家に泊まる連絡はしておいたはずなのだが。
胸にぎゅっと顔を押しつけられ、頭に頬をぐりぐりされる。
靴を脱ぐ前に抱きつかれたため、身長差ができてこうなっているのだ。
「お母さん、苦しい」
「お母さんの心はもっと苦しかったんだからね」
「分かったから、はなれて」
なんとか母親を引き離すと、その表情が本当に心配していたんだと告げていた。
「ごめんなさい。心配かけて」
「事情は立花さんと水城さんの叔父さんから聞いたわ」
「え?」
どうやら、子どもの知らないところで、大人同士が連絡を取り合っていたらしい。
私は、自分が思っていた以上の大事をやらかしてしまっていたらしく、母親に至っては、あとで病院と立花さん、それに水城さんの叔父さんのところにお礼しに行かないと、と言っていて、ようやく自分の浅はかさを実感した。
「病院は、私が行く。元々、行くつもりだったから」
「送っていこうか?」
「ううん。自分で行く」
「分かったわ。でも、もうこんな心配はさせないでね」
「はい」
私は返事をすると、すぐに家を出た。
そして、病院に向かった。
クロスバイクを漕ぐペダルが重い。
いや、重いのは、私の心だ。
だけど、漕ぎ続けなければならない。
軽くすることもできる。
簡単だ。
全部、置き去ってしまえばいい。
でも、それはできない。
したくない。
私はこの重さを受け止めて、前に進まなきゃいけないから。
※
ようやく病院に辿り着くと、そのままセンターの受付に顔を出した。
「結衣ちゃん!」
七瀬さんが立ち上がる。それに続いてガタンと音がした。
その音に驚いていたのは七瀬さん自身で、おそらく椅子を倒してしまったのだろう。
「七瀬さん、昨日はご迷惑を――」
「何言ってるの! 迷惑なんて、そんな風に思うわけないじゃない」
七瀬さんがカウンターに手を叩くようにして置き、身を乗り出してきた。
「心配してたんだよ。何が遭ったのかは分からないけど、あのときの結衣ちゃんの表情が忘れられなくて、私……シフト交替してもらって夜勤にして、ずっと待ってたんだから」
その言葉に、私は驚きに目を見開き――
「真顔で嘘を言うな」
「あいたっ!」
スパン――と、とても気持ちのいい音がすると同時に、七瀬さんの先輩看護師さんがそのままバインダーを手渡してくれた。
「ありがとうございます」
「ごめんね。付き合わせて」
「いえ、慣れてますから」
そう言って、私は先輩看護師さんと笑い合った。
その間で、七瀬さんが頭を抱えて声にならない声を上げて悶絶していた。
※
少しだけ気が楽になった。
きっと、七瀬さんと先輩看護師さんは分かってやってくれていたのだろう。
あの痛がりも、きっと演技だ。
そんな気分を保ったまま、目的地にたどり着く。
スライドドアを前に、私の気持ちは一気に重くなった。
ようやく伸ばした手が取っ手を掴むも、どうしても動かせないでいた。
「はぁ……はぁ……」
手を離すと同時に、私は息を止めていたことに気づいて、深呼吸をした。
背中から汗が滲み、Tシャツがはりつく。
私は一歩下がって、気まずそうに顔を背け――
「ジムに……顔、出してみよっかな」
誰に言い訳するわけでもなく、私は独り言ちて、まるで逃げ出すように廊下を走った。
※
その日のジムは、閑散としていた。
前日が台風だったからか、たまたまか。
だけど、その静寂に、ひとりの声が響いていた。
「薫ちゃん!」
私は、平行棒の間で倒れている薫ちゃんを見つけるなり、すぐに走り出した。
どうして職員がいないのか。
三島さんは?
こんな状況を放っておくはずがない。
「結衣さん……来ないでください!」
あまりの大声に、私は驚いて足を止めてしまった。
声だけじゃない。
私を睨むような、その気迫に満ちた表情に。
「薫ちゃん……でも……」
「手を、出さないでください」
「でも――」
「私ひとりでやれます。やりたいんです。だから、絶対に手を出さないでください」
私は、差し伸ばそうとしていた手を落とした。
薫ちゃんが息を整えるように意識的に呼吸をしたのち、膝立ちになって平行棒へ手を伸ばすと、それを掴み、腕の力だけで立ち上がった。
それだけでも、私は正直、凄いと思った。
やろうと思ってできることじゃない。
私が止まった位置は、ちょうど薫ちゃんとは反対の、いわば平行棒の出口だ。
入口になった薫ちゃんが、歩い始める。
一歩、また一歩――その一歩にかける時間が、果てしなく長い。
それでも私は、待った。
だって、薫ちゃんが一歩前に進む度に、近づいているから。
それを目の前にして、手を出したりしようなんて思えなかった。
どうして薫ちゃんがこんな無理をしているのか分からない。
何が薫ちゃんを駆り立てたのか、私には分からない。
人の心なんて、誰にも分からない。
私は柑奈のことが好きだ。
だけど、柑奈は私を好きでいてくれていたのだろうか。
もちろん、転校して来て、それからずっと一緒で、嫌い合っているはずがない。
それでも思ってしまうのだ。
本当に、私たちはお互いのことをすべて知っているのだろうか、と。
私にだって、柑奈が知らない面もあるはずで、それは逆もまた同じで。
だからこそ、会って、見て、聞いて、話して、触れて――そうやって少しずつ理解して、絆を深めていく。
私と、真菜のように。
そして、目の前で必死に歩く薫ちゃんともまた、こうして向き合っていけば分かるはずだ。
「あっ!」
手が平行棒からすっぽ抜け、薫ちゃんが床に体をぶつける。
振動が足裏に伝わり、私はすぐに駆け寄った。
「大丈夫、薫ちゃん」
薫ちゃんはうつ伏せのまま、ぎゅっと握りしめた拳で何度も床を叩いた。
顔を上げず、何度も、何度も。そして、痛みに耐える声は、嗚咽が交じり、涙で濡れていった。
「もう、いいんだよ。薫ちゃん」
私は、その小さな背中をそっと撫でた。
「今日はよく頑張ったから、ねっ。無理はむしろ体によくないって――」
床を叩いていた拳が、止まった。
「ダメなんです……」
「え?」
「それじゃ、ダメなんです」
薫ちゃんが体を起こし、顔を上げる。
「結衣さんの言うことは、正しいです。でもダメなんです。正しいって分かっていても、気持ちが納得しないんです。だから、今の私は、無理をしてでも、ひとりで歩けるようにならなくちゃいけないんです!」
薫ちゃんの手が伸びる。
私はそれに応じて手を伸ばそうとして、やめた。
薫ちゃんの手は、私へと伸びて、そのまま肩に触れると、そっと押した。
倒れるほどじゃない。
でも、その意図が、痛いほどに伝わってきた。
私は立ち上がって、そのまま後ろへ下がった。
元の位置に。
それが正しかったのか、薫ちゃんはまた両手を伸ばして平行棒を掴み、体を引き上げた。
そして、再び歩き始める。
一歩、また一歩。
歯を食いしばり、その隙間から獣のように息を漏らしながら、これが十代の少女がする表情かと思うほどに、薫ちゃんのそれには絶対の意志が見られた。
何が何でもやり遂げる。
そうしなければならない。
一歩、もう一歩――さらに、一歩。
私は固唾を呑み、手を握りしめ、息をするのも忘れるほどに集中していた。
いける!
やれる!
心のなかで何度も応援する。そして、薫ちゃんの手が、平行棒の端に到達した。
「結衣さん!」
薫ちゃんが平行棒から手を離し、私の方へと手を伸ばした。
「わっ!」
私はすぐに薫ちゃんに抱きつき、倒れるのを防いだ。
そのままそっと床に座らせる。
離れようとしたけど、薫ちゃんが離してくれなくて、私たちは抱きしめ合った。
「おめでとう、薫ちゃん。よくやったよ」
「ありがとう、ございます」
耳元で、薫ちゃんのすすり泣く声が聞こえる。
「でも、私、悔しんです」
何が――と聞くよりも早く、薫ちゃんが言った。
「昨日、病室から飛び出してきた結衣さんを、私、追いかけることができなかった。自分の足で立っていられたら、追いかけられたのに。私は、そのとき思ったんです。こんなにも、歩けないことが悔しんなんて。私、結衣さんに助けられてばかりで、でもあのときの結衣さんはすごく辛そうに見えて、私が傍にいてあげたいって思っても、足が動かなくて。それが、悔しくて悔しくて、私……何も……できなかった」
「だから、こんな無茶を?」
「だって、一日でも早く歩けるようになりたくて――そしたら、結衣さんのところに行って、私、何もできないかもしれないけど、とにかく、結衣さんの傍にいたいって思って……」
震える背中を、そっと撫でる。
「ありがとう、薫ちゃん。でも、もういいんだよ。私はここにいるし、薫ちゃんから来られないなら、私が来るから。だから、もう無理はしないで。少しずつでいいんだよ。疲れたら、休んでもいいんだよ」
誰だって、ひとりじゃない。
手を伸ばせば、誰かがいてくれる。
ひとりで頑張る必要なんてない。
人は孤独では生きられない。
誰かがいてくれないと。
私にとってのそれは、誰?
柑奈?
それとも……。
「――す」
「え?」
耳元で薫ちゃんが何かを言った。
思わず訊き返した私の耳に、今度は、それがはっきりと聞こえた。
「イヤです!」
思わず体を離し、薫ちゃんを見やると、その表情は――怒っていた。
「私は、歩けるようになりたい! それに走りたいんです! 結衣さんと一緒に走りたい! 私も競走して、勝って喜んだり、負けて悔しがったり、そんなことがしたいんです!」
薫ちゃんの両手が、私の二の腕を鷲掴む。
「だから、結衣さんが、そんなこと言わないでください」
つぅ――と静かな涙が、薫ちゃんの頬を伝う。
「私の背中を押してくれたのは、結衣さんなんです。その結衣さんが手を抜いたり、誰かに遠慮して全力を出さないなんてこと、ないですよね。それは、相手にとっても、何よりも結衣さん自身に失礼です。全力で挑んだ相手には、全力で挑まないと」
「でも、私は……」
薫ちゃんがなんのことを言っているのか、分かった。
だけど、それでも私は……。
「応えてくれます、きっと。結衣さんが気持ちを全部ぶつけて、挑めば、きっと応えてくれます。それは、結衣さん自身が、一番よく知っているはずです」
涙の伝った濡れたあとの頬が、にこりと笑みをつくる。
「二年前の大会の動画、見ました。結衣さんがフィニッシュしたところまで。あの大会の結衣さんは、すごく……すごく、楽しそうでした」
「……」
ああ、そうか。忘れてた。
ずっと、あの二年前の日から。
私、楽しめてなかった。
ずっと練習して、走って走って、でも――楽しめてなかった。
いったい何のために、練習をしてきた。
(速く走るためだ!)
いったい何のため、筋トレをしてきた。
(勝つためだ!)
いった何のため、走り続けてきた。
(誰よりも速く走って、勝って、そして一番になるためだ!)
始まりは、とても単純だったんだ。
走るのが好きで、かけっこが楽しくて、競走するとワクワクして。
その気持ちを忘れて、ただ走ってるだけで。
そんな私に、柑奈と肩を並べて走る資格なんてない。
私を支えてくれた真菜に、応える資格なんてない。
私は、私らしく、ただ、走ることを、純粋に――
「楽しむ」
口から漏れた言葉に、薫ちゃんが笑顔で応えてくれた。
「ありがとう、薫ちゃん。思い出させてくれて」
「やっと役に立てました」
「ううん、そんなことない。あと、ひとつだけお願いしてもいい?」
「はい」
「私、臆病だからさ」
そう言って私は立ち上がって、その場でくるりと背中を向けた。
「そんな私の背中を押してくれたら、前に進めると思うんだ」
「いいですよ。その代わり――」
パンッ!
「お尻で勘弁してください」
叩かれた勢いで私は前に踏み出し、思わず笑ってしまった。
だけど、それでいい。
私はそのまま歩き出し、ジムの出口に向かった。
「今度は、私から会いに行きますから! 待っててくださいね!」
私はその言葉を背中に受けて、とても軽やかな足取りでジムを出た。
※
ジムからセンターに向かう途中、一度外に出る。
そこは東屋のように屋根のある休憩スペースとなっていて、患者さんたちが座っては、狭い病室から解放されたかのうに、ホッとした表情を浮かべている。
そのなかに、私は見つけた。
休憩スペースにいながら、とても休憩しているようには思えない――そんな疲れ切った表情を浮かべている女性を。
「杏子さん」
声をかけると、杏子さんは驚くこともなく、ゆっくりと顔を上げた。
両手で支えている紙コップのコーヒーは、まるで減っているようには見えず、湯気も立っていない。
「吉田さん……」
杏子さんの前に立った私はまず、頭を下げて謝った。
「杏子さん、ごめんなさい。私、柑奈の病室で喧嘩なんてして……」
「いいのよ」
「でも――」
「もう、いいの……」
その言葉が――声音が、私と真菜がしたことに対してではなく、まるで杏子さん自身と柑奈のことを言っているようで、私は冷たいものを感じた。
「私たちは、沢山の人に迷惑をかけた」
杏子さんが顔を伏せ、呟く。
「そんなこと――」
「ない?」
顔を上げた杏子さんの瞳は、私を責めるわけでもないのに、まるで「私の言ったことが間違ってる?」と問うているようで、私は何も言えなかった。
「私は、夫と娘の人生を壊して、娘の柑奈は、あなたを縛りつけてしまっている」
「私はそんなこと思ったこともありません」
それは本心だ。
「でも、あなたは毎日ここに来て、時間を費やしている。あの子は、あなたに何もしてあげられない。それは、とても虚しいことよ」
「……柑奈は、目を覚まします」
「それは希望よ。とても儚い、希望……」
「そうです。私は希望を見たんです。足の指先が動いて、それが希望なんです」
「単なる反応よ。先生も、そう言っていたわ。現に、吉田さんが見た一回きりで、誰も見ていない」
「見たからそのときだけとは限りません。誰もいないところで、柑奈だって目を覚まそうとしているのかもしれない。どこにいるのか分からなくて、迷子になってるのかも」
「それは吉田さんが自分の都合のいいように解釈しているだけよ」
「そうかもしれません。でも、私は……杏子さんよりも、ずっと柑奈を見てきました。柑奈は普段はぼーっとして何考えてるのか分かんないところもあって、掴みどころがなくて、それなのに走ることに関してだけは生真面目で、誰よりも負けず嫌いで、いっつも一番で……そんな柑奈だから、私は信じます」
「私は、あの子を知らない。久しぶりに見た娘が病院のベッドで眠っていて、話すこともできないのに、それを娘として見ることができないの……」
杏子さんは顔を伏せ、右手で両目を覆った。
「それなら、私が教えます。柑奈のこと、全部。杏子さんが知りたいこと、全部。だから、杏子さんも、もっと柑奈を見てあげてください。今は動くことも、話すこともできないけど、傍にいてあげてほしいんです。それだけで、いいんです」
「本当に、そんなことで……」
「病室でひとりは、寂しいです」
杏子さんはしばらく考えるように黙り込み、それから唐突に手に持っていたコーヒーを一気に飲み干すと、ゆっくりと噛みしめるように息を吐き出した。
「センターの人と話してみるわ」
「お願いします」
「じゃあ、行きましょう」
「え?」
「言ってくれたでしょ? 柑奈のこと、なんでも教えてくれるって」
大人の杏子さんが、まるで意地悪に成功した子どものような笑みを浮かべた。
「今夜は寝かせないわ。朝になっても、聞かせてもらうから」
「はい! 任せてください。柑奈のあんなことやこんなことまで、語りたいことは山ほどありますから」
私たちは立ち上がり、休憩スペースからセンターがある棟へ入った。
そして、受付でセンター長と直談判し、その日に限って同じ病室で寝泊まりする許可をもらった。
そして私と杏子さん、そして柑奈の三人で、月が昇って沈むまで話し、朝日が顔を出すころには、私は柑奈が横になるベッドを枕代わりにして突っ伏すように眠っていたのだった。
※
杏子さんに柑奈の話をした影響か、私は柑奈と出会ったときのころの夢を見た。
小学五年生になった私は、一学期最初の体育の授業で身体測定を行っていた。
二人一組になって走る百メートル走の測定をするために列に並ぼうとした私は、黒いリボンで首の後ろで髪を一本に結っているクラスメイトを見つけた。
転校してきた村上柑奈さんだ。
村上さんは記録用紙を手に、ぼーっと立っていた。
私はその姿が気になって、思わずこえをかけていた。
「どうしたの?」
「え?」
自分が話しかけられると思っていなかったのか、村上さんが素っ頓狂な声を出す。
「並ばないの?」
「……走りたく、ないから」
「え?」
今度は私が素っ頓狂な声を上げる番だった。
「なんで?」
「……怖い、から」
「怖いの? 走るのが?」
「うん」
顔を伏せる村上さんに、当時の私が事情を知るはずもなく、考えなしに行動していた。
「じゃあ、一緒に走ってあげる」
「一緒に?」
「どうせ二人一組じゃないとダメなんだし。それなら、一緒に走ろ」
村上さんは少しだけ迷ったような表情をするも、おずおずと手をとってくれた。
「行こう」
「……うん」
村上さんを引っ張り、列に並んで順番を待つ。そして、私と村上さんの番が来た。
「言っておくけど私、学年で一番速いから、置いていっちゃうかもね」
「一緒に走るって言ってくれたのに……」
「せいぜい私の背中を追いかけることだね」
自慢げに胸を張る私は、そのとき村上さんが頬を膨らませていることに気づかなかった。
「分かった」
村上さんがぶっきらぼうに言い捨て、走る構えをとる。私も構えると、先生の合図で同時に走った。
そして――フィニッシュしたのは、村上さんの方が先だった。
「うそ……」
「私の勝ち」
自慢するわけでもなく、ただ事実を言う村上さんに、私は驚き、そして――
「う……うう……」
みっともなく泣いてしまっていた。だって、今まで一度だって負けたことがないから、悔しくて仕方がなかったのだ。
「悔しいの?」
「だって、今まで一度も負けたことなかったんだもん」
「吉田さんは、速く走れるようになりたいの?」
「うん」
「なんで?」
「だって、速く走れるようになったら、競走で勝てるから」
「勝ちたいから、速く走れるようになりたいんだ」
「ふつう、そうじゃない?」
そう言うと、村上さんが笑った。
「そう、だね。そうなんだね。うん。吉田さんは、速くなれるよ」
「ホントに?」
「うん。悔しさは力になるって……お母さんが言ってた。だから、吉田さんは速くなれるよ」
「でも……これ以上速くなれないよ。さっきのだって全力だったもん」
「じゃあ、教えてあげる。速く走れる方法」
「いいの?」
「いいよ。その代わり、これからも競走しよう。競走って、楽しいね」
「うん。いいよ。村上さんに勝つまで続けるんだから」
そうして、私たちは友達になった。
お互いを名前で呼び合うようになるのに時間はかからなかった。
翌日には、村上さんに白いリボンを貰った。
私はそれで、憧れの選手の髪型を真似して、ポニーテールにした。
そのリボンには、マジックで文字が書かれていた。
村上さんは、白いリボンをお守りとして持っていた。
それをくれたのだ。
最初は断ったけど、どうしても言われ、私はそれを受け取った。
それから私たちは、走り合った。
何度も、何度も何度も、何度も――
※
「おきろー!」
七瀬さんの起床の大声で起こされた私は、すでに杏子さんがいないことに、さすがは大人だと感心した。
起きた私を確認した七瀬さんが、満足したように頷き、ドアを閉める。
「おはよー、柑奈」
起きた目の前に柑奈がいることに、私は頬をゆるめてしまう。
ドアが開く音に顔を上げると、杏子さんがビニール袋を引っ提げて戻ってきた。
「コンビニで朝食を買ってきたの。色々買ってきたから、好きなのを選んで」
おんぎりとパン、お茶とコーヒー。
であれば組み合わせは自ずと決まる。
「じゃあ、おにぎりとお茶で」
それぞれを手に取ると、残ったパンとコーヒーを杏子さんが引き取る。
そうして私たちは窓辺で朝食をとり始めた。
「吉田さんは、柑奈と一緒にいたい?」
「ふぇ?」
おにぎりにかぶりつこうと大きく開けた口が、呆けた声を出す。
「子を想うなら、この子はここにいた方が――」
「それは、母親の杏子さんが決めることだと、私は思います」
「……残念。せっかく吉田さんに決めてもらおうと思ったのに」
「お見通しです」
冗談を言い合って、でも本当は冗談じゃなくて、
「私、決めたんです」
杏子さんの視線が、「何を?」と聞いてくる。
「北信越の大会で、私は許されないことをした。あの場で、インターハイに出たい一心で本気を出して走っていた人たち全員を裏切った。杏子さんも、真菜も……」
最後にトルソーを投げこむこともせず、むしろ足を緩めてもいた。
それでも、私はインターハイへ行くにたる結果を出した。
タイムなんて関係ない。
一番になればいい――なんて言って。
一緒に走った人たちをコケにした。
罪滅ぼしがしたい。
ならば、どうすればいいか。
決まっている。
方法は、ただひとつ。
「私はこれから先、すべての走りに対して、本気を出します。誰にも負けない。他の誰にも、真菜にも……そして、柑奈にも……」
私が柑奈に視線を送ると、杏子さんもまた視線を向け、
――ビクッ。
動いたのだ。
柑奈の、足の指先が。
「吉田さん……今の……」
「そうです。あれが、前に私が見たものなんです」
本当なら跳び上がって喜びそうなことなのに、私も杏子さんも、むしろ冷静だった。まるで、私たちの話を聞いて、反応してくれたかのように。
――やれるもんならやってみろ。
そう、言わんばかりのタイミングで。
私は立ち上がり、柑奈が眠るベッドの横まで移動すると、
「柑奈、今度のインターハイ。絶対に負けないから。だから、柑奈も本気で走って」
そう宣言して、私は杏子さんに家に帰ることを告げた。
ドアの前で、私はくるりと振り返り、柑奈を指さすと、
「決勝で、待ってるから!」
廊下に聞こえるくらいに大きな声で叫び、病室を出た。
それくらい大きな声で言ってやらないと、柑奈はこっちに気づかない。
もし迷子になってるなら、こっちだと叫べばいい。
こっちに来れば、柑奈が大好きな百メートル競走の相手をしてあげる、と。
だから、目を覚ましてと、祈りながら。
※
七月最終週の日曜日。
午後五時五十九分。
結衣の家の玄関前で待機していた私は、インターフォンのチャイムに指を当てた状態で、その時を待った。
そして、スマホの時刻が午後六時になると同時、チャイムを鳴らした。
「はーい。開いてるから入って」
結衣の声がした。
私はドアノブを引っ張ると、言われた通り鍵はかかっておらず、ドアが開いた。
「おじゃまします」
「いらっしゃい」
玄関に入ると、結衣が迎えてくれた。
いつものラフな格好だけど、そこが私は好きだった。
だって、結衣らしいから。
サンダルを脱いで廊下を進み、リビングに通される。
「いらっしゃい」
「お、おじゃまします」
リビングには結衣のお母さんが立っていて、待ってましたとばかりに迎えてくれた。
今日お邪魔したのは、浴衣の着付けを結衣のお母さんにしてもらうためだった。
この後、午後八時から花火大会があるから、そのためのおめかしだ。
リビングは洋式だけど、入ってすぐ左手側が一段高くなっていて、そこが和室になっていた。
スライド式の襖で、区切れるようになっている。
「あ、あの、結衣のお母さん、きょ、今日は、よろしくおねがい、します」
「あらあら、そんなに畏まらなくてもいいのよ。我が家だと思ってくれていいから」
結衣のお母さんは、随分と大らかな人だ。
「まずは結衣ちゃんから始めようかしら。水城さんはそこで座って寛いでて」
「は、はい」
背負っていたリュックを下ろし、ソファーに座る。
和室の畳の上で、結衣と結衣のお母さんが向かい合う。
結衣が服を脱いで、浴衣を着ると、それを結衣のお母さんが着付けていく。
私は、浴衣なんて羽織ってそれから帯を結ぶものだと思ったけど、中身を開いてみて愕然とした。
色々なものがあって、どうやってしていいのか分からなかったからだ。
勿論、説明書だって入っていたし、秋お兄ちゃんに協力してもらって、配信されている動画を参考にもした。
だけど、やるのは自分の手で、だ。
それが最終的には一番の難関となり、私は思わず結衣に相談した。
そして、結衣のお母さんが着付けができると知って、こうして招かれて、その技を目の前にして、私はその手さばきに感心せずにはいられなかった。
ただ着せるだけでなく、着ている人を、そして浴衣自身をきれいに見せようとしている。
それが私には、愛情に見えた。
愛があるから、その対象に真摯になれる。
「はい、完成!」
そう言って、用意しておいたのであろう姿見の方へ結衣を向かせる。
「うわっ、すごいよお母さん」
喜ぶ結衣だけど、ここからだと結衣が背中を見せていて分からない。
そう思った矢先、
「どう、真菜。似合う?」
そう言って、結衣が振り返ってくれた。
袖を掴んで広げて見せて、私は思わず見惚れてしまった。
それが結衣自身に対してか、選んだ浴衣の柄に対してか。
結衣が選んだ浴衣の柄は、白い生地に、赤い金魚と水草。
水彩のような淡い色が、主張しすぎておらず、白い生地にマッチしている。
結衣は、ポニーテールをしている白いリボンの影響か、白を選ぶ傾向にある。
だから水着だって白だったし、浴衣も白だ。
「うん、すごく似合ってる」
「えへへ、ありがと」
結衣の照れた顔が、胸に焼き付く。
「さて、予行練習も終わったことだし、次が本番よ」
「ちょっ、それって、実の娘に対して失礼じゃない?」
「実の娘の友達にする方が失礼だと思うけど?」
「ぐぬぬ……」
「いいから、髪をセットしてきなさい」
「私のよりきれいにできてなかったら許さないからね」
実の母親にそう言い残し、結衣がリビングを出て行った。
「ごめんね、騒がしい子で」
「いえ。あの活発なところが、好きですから」
「ありがとう。さっ、水城さんの浴衣を見せて」
「はい」
私はリュックから浴衣を取り出し、結衣のお母さんに見せた。
「結衣ちゃんとは対照的ね」
そう言って広げて見せた柄は、濃い目の藍染めで、淡い青と紫の紫陽花が咲いている。
「水城さんの雰囲気にとっても似合ってるわ」
「ありがとう、ございます」
自分でも似合っているかなと思っていたから、それを他の人にも言われると、ことさらに嬉しかった。
服を脱ぎ、浴衣を羽織る。
そこから先は結衣のお母さんにお任せで、私は指示通りに腕を上げたり下げたり、背中を向けたり、前を向いたりと動き回った。
そうしてほとんど着付けも終えたかなと思った私を、結衣のお母さんが背中を向けさせた。帯の手直しでもあるのだろうか。
「ありがとう、水城さん」
「え?」
思わず振り返ろうとした私を、結衣のお母さんが帯を動かして止める。
「テスト勉強で結衣ちゃんが水城さんを連れてきたとき、私は本当に驚いたの。だって、結衣ちゃんには、柑奈ちゃんしか友達がいなかったから。うちと柑奈ちゃんの家は、家族ぐるみの付き合いで、ゴールデンウィークとかお盆には、うちの駐車場でよくバーベキューをしていたわ。そんな付き合いが、ずっと続くんだと思ってた」
帯を触っていた手が、止まる。
「でも、柑奈ちゃんがあんなことになって、結衣ちゃんは変わってしまったの。毎日、柑奈ちゃんのお見舞いに行って、部活にも顔を出さないようになった。ああなったのはあの子のせいじゃないのに、雨の日でも雪の日でも、毎日病院に行くあの子を見ていたら、まるでそれが罪滅ぼしをしているんじゃないかって、そんな風に見えたの。柑奈ちゃんのことは好きだし、本当に気の毒だって思ってる。でも、そのせいで、私は、結衣ちゃんが、柑奈ちゃんに囚われてしまっているんじゃないかって、そう思わずにはいられなかったの。これが、いつまで続くのか。いつ終わるのか。柑奈ちゃんが目を覚ましたら? それとも柑奈ちゃんが……」
その先は、絶対に口にしてはいけないと、私も結衣のお母さんも分かっていた。
「それでも、私は結衣ちゃんがしていることを、やめろとは言えなかった。だって、あの子にとっては、柑奈ちゃんがすべてだったから」
その言葉に、胸が痛む。
どうして、よりにもよって私に、こんな話をするのか。
こんな話を聞かされたら、せっかく着付けてくれた浴衣の意味がなくなってしまう。
「そのすべてを取り上げたら、結衣ちゃんがどうなってしまうのか、怖かったから。私は、何もできなかった」
でも――と結衣のお母さんが言って、私を振り返らせた。
「水城さん――あなたが来て、結衣ちゃんは変わった」
結衣のお母さんの手が、そっと私の頬に添えられる。
「あなたのおかげで、あの子はまた陸上を始めた。家でも、よく笑うようになった。少しずつ、あなたに関する話が増えて、家にまで連れてきた。一緒にインターハイにも出るくらいに速くて、結衣ちゃんを支えてくれた」
私を見つめるその瞳が滲む。
「あの子の二年間は、ずっと止まったままだった。あの子自身も、辛かったんだと思う。でも、あなたのおかげで、ようやく前に進める」
目尻に溜まった涙が流れるのを見て、私の視界もまた滲んでいった。
「ありがとう、水城さん」
結衣のお母さんに引き寄せられ、そっと抱きしめられる。
「これからも、あの子の友達でいてあげてね」
陰っていた気持ちに、光が差し込む。
母親という、偉大な存在。
親はいつだって、子を想う。
こうして私と二人っきりの状況をつくって、感謝を述べてくれる結衣のお母さん。
柑奈さんのために福井に引っ越し、面倒をみている立花コーチ。
それに、ひとりで転校することを許してくれた、私の両親。
まだ高校生の私たちは、どうしたって親の庇護下にある。
当たり前に思えていたことが、本当は守られていたんだって、気づくときがくる。
だから、今は甘えてもいいんだと思う。
私は、結衣のお母さんの背中に手を回し、抱き合った。
「はい」
目尻から流れるひと筋の涙。
その涙は、今まで流したどの涙よりも、熱い涙だった。
※
リビングに戻ると、真菜の着付けは終わっており、食卓用のテーブルで母親に化粧をしてもらっていた。
準備を終え、玄関を出る。
浴衣にサンダルではいつもの移動ができないため、会場までは母親に送ってもらうことになっている。
外に出ると、少しずつ夜の帳が下りてきていた。
夜の黒と、夕方のオレンジが山の向こうで混ざり合っている。
「ねぇ、結衣」
「ん?」
「写真、撮ってもいい?」
「ん? いいよ」
私は真菜がまた自撮りでもするのかと思っていたけど、違った。
真菜が後ろに下がり、スマホを構える。
どうやら私ひとりの全体像を撮るようだ。
「いい?」
「ちなみにポーズは?」
「自然で」
「それまた難しいご指示で」
そう言われて、私は本当に自然な立ち姿で動きを止めた。
ただ、表情に笑みを浮かべて。
真菜が撮り終えると、私は「ストップ! そのままで」と言って、スマホを構えた。
「今度は私の番」
「え、でも……」
「ほらほら、緊張しないで、リラ~ックス」
「う、うう」
真菜が急に恥ずかしがり、縮こまる。
それが真菜なんだと思うと、私は反射的に撮っていた。
そうして撮り終えて駐車場に向かおうと振り返った私の前の前に、母親がいた。
「結衣ちゃん、スマホ貸して。二人で撮ってあげるわ」
そう言われ、私は真菜に振り返った。真菜が頷く。
「じゃあ、お願い」
スマホを渡し、真菜の隣まで移動する。
肩を並べるが、なぜか真菜との距離を感じた私は、離れないよう真菜の腕に手を回し、引き寄せた。
「笑って笑って~……はい、チーズ!」
写真を撮り終えると、返されたスマホを二人で見た。
「あとで、私にもちょうだい」
「うん」
「そろそろ出発よ」
母親が車に乗り、エンジンをかける。
「そういえば、真菜ってよく写真撮るよね」
何気ないひと言に、車の反対側に回り込んだ真菜が乗ろうとしたとこで顔を上げた。
「だって、私がこっちにいられるのは、一年間だけだから」
(あ……)
そう言って、真菜が車に乗り込む。
「あ~」
私は馬鹿だ。
なんて馬鹿なことを聞いてしまったんだ。
自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
こうなったら、今日からでもバンバン撮ろうじゃないか。
真菜が遠慮して、引いてしまうに。
「よし」
気合いとばかりに車のルーフを叩いてしまった私は、割とガチで母親に怒られた。
※
午後七時を過ぎ、花火大会まで一時間を切った。
「先、場所取りしといてあげる」
一緒に会場まで来た母親が、レジャーシートを片手に、川に近い方へと消えていった。
「きっと、いつもの場所だ」
「いつもの?」
「森田まつりって、私的には結構有名だと思ってるんだけど、それでも結構、地元感が強いんだよね。あんまりよその人が来てない感じ。だから、花火大会が始まると、ステージ前の開いてる場所に集まるんだけど、そんなにいっぱいにはならないんだ。で、私たち吉田家は毎年、一番前で観てるの」
「一番前? でも、そこだと花火を見上げることにならない?」
「そう。だから――いや、これは実体験した方がいいから、そのときに教える」
「気になる……」
「是非、気になって」
私は、花火大会となると森田まつりしか知らないから、他がどうかは分からない。
それでも、この距離感ならではの楽しみ方がある。
「それよりも、時間まで遊ぼう!」
「私、かき氷が食べたい」
真菜の要望で、私たちはかき氷を食べることにした。
「真菜のは何味?」
「私はレモン味。これが一番好き」
「私はイチゴ味。やっぱりこれなんだよねぇ」
そう言いながらも、真菜が口に入れる黄色い氷が、なんだかおいしそうに見えてくる。
「真菜」
名前を呼び、それから口を開けてみせる。
「……まったく」
最初に呆れ、それから仕方ないとばかりに真菜がスプーンストローですくったレモン味のかき氷を口に入れてくれた。
「うん、レモン味もいけるかも」
甘いのに、それでもレモン味だからなのか、どこか酸っぱさも感じられる。
「はい、じゃあ真菜にも」
私はよく混ぜてイチゴ味を染みこませると、それを真菜へと差し出した。
「ほら、あ~ん」
背の高い真菜に対して、私は自分の顔よりも少し高めにスプーンストローを上げた。
しかし、なぜか真菜は戸惑っていた。
「早く。溶けるし、腕がもたない」
わざと腕をプルプルさせると、真菜がようやく口に含んでくれた。
スプーンストローを真菜の口から抜き取り、そのまま次は自分の口に含む。
それを見ていた真菜が顔を赤くし、自分のレモン味のかき氷を食べ、何かを思い出したような顔をすると、まるでイチゴ味のかき氷のように頬を真っ赤にするのだった。
「あっ、これ」
真菜が立ち止まる。
遅れて立ち止まった私はそのままくるりと反転した。
その屋台では、蛍光色のいろんな小物が置かれていた。
夜のまつりではよく映えるが、これが家に持って帰ると途端に寂しくなるのだ。
さらに翌日になると、蛍光色は消え、ただのものになる。
真菜は、言葉は少ないけど、表情に出る。
その視線が、蛍光色を放つブレスレットに向けられている。
そうして察してしまった以上、私は放ってはおけない。
「真菜は、何色が好き?」
「……黄色」
「好きだねぇ、黄色」
かき氷がレモン味なのも、黄色だからか?
「これ、ひとつください」
「え、でも――」
「いいから」
半ば強引に私は料金を渡して、黄色い蛍光色のブレスレットを買った。
「腕、出して」
私の意図が伝わったのか、真菜が袖を引き、右手首をさらけ出した。
「これは、これまでのお詫びと、これまでの感謝の証に」
ブレスレットのアタッチメントを外し、真菜の手首に回してはめる。
「ありがとう、結衣。大切にするね」
「安物だけどね。そろそろ時間だから、お母さんのところに行こっ」
私は先に歩き出し、川の方へ向かう。
「結衣」
あと半分のところで、真菜に呼ばれ、私は振り返った。
「左の方の腕、出して」
「へ?」
真菜が両手を背中に回している。
何かを隠すかのように。
「分かった」
私は左腕を差し出した。
袖が腕を滑り、手首をあらわにする。
「これは、私たちの友情の証に」
ピンクの蛍光色のブレスレットが、手首にはめられる。
「これで、お揃い、だね」
腕を掲げて見せる真菜が、どこか照れくさそうに、だけど嬉しそうにはにかんだ。
※
「お母さん」
会場の川に近い場所には、多くの人たちが集まっていた。
みんなレジャーシートを敷き、家族連れとなるとかなりの面積を確保している。
その中で、二人分のシートに、母親が足を伸ばして座っていた。
「ここ、使いなさい」
そう言って、母親が入れ替わるようにして立ち上がる。
「え、でも、お母さんは――」
「お母さんだって、野暮じゃないわ。親に遠慮しないで、二人で楽しみなさい。終わったら、車で待ってるから」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
離れていく母親の背中を見送り、私と真菜でレジャーシートに座った。
「結衣のお母さん、とっても親切だね」
「ホント、真菜のことが気にいってんだよ。普段の私に対する態度は、あんな甘くはない」
秋人さんにしても、母親にしても、どうしてこう真菜に甘いのか。
性格か? 見た目か? どっちも適う気がしない。
「なんだか、不思議な感じ」
「え?」
花火を待つ間、脚を伸ばして座っていた私たちは、どちらが話すわけでもなく、しばらくの間、沈黙が流れていた。
それは嫌な沈黙ではなく、心地よいものだった。
その合間に、真菜の声が入り込む。
「こっちに引っ越して、転校してきたときには、こうやって一緒に花火を見ることができるなんて思ってなかった」
「私も」
「最初は結衣、冷たかったから」
「ごめんって。でも、知らない相手に、私、あなたのこと知ってます。私のこと思い出してください――なんてせめられたら、さすがに警戒するよ」
「うう、だって……」
「だから、ごめん」
「……いいよ。今はこうして、隣にいられるから」
お互いに顔を見合わせる。
「私、結衣の隣にいても、いいよね?」
不安げな表情。
「いいに決まってる。いてほしい」
ここで言わないと、と私は思った。
「私……ずっと考えてた。今の私に、インターハイに出る理由はあるのか――って」
「結衣……」
「色んなことで頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう何がなんだか分からなくなって……でもね、本当はとっても簡単なことだったんだよね」
不安に揺れる真菜の瞳に、私は満面の笑みを浮かべて見せた。
「私は、走るのが好き。そして、速い人と競走するのが好き。インターハイは、そんな私にとっての最高の舞台。だから――」
誰のためでもない、何よりも自分のために、
「私、走るよ」
「――ッ!」
真菜が目を見開く。
「本気で走る。もう、誰にも負けない。誰にも……」
そう宣言すると、真菜もまた、対抗するように言った。
「私も、絶対に勝つから」
見つめ合う。
そのとき、会場の水銀灯の明かりが消え、最低限の光源を残して暗くなった。
そして、始まりを告げるために打ち上げられた花火が、夜空に咲いた。
「真菜、横になって」
言うより先に、私は仰向けに寝転がった。
真菜がそれに倣って、私の横で仰向けになる。
その状態で、私たちは花火を見ていた。
最初は間隔を空けて打ち上げられる花火。
ドン、ドン――その一発いっぱつが、体の芯の奥まで響き、体と心を震わせる。
こうやって仰向けになって見ると、視界に夜空以外が入り込まなくなって、花火だけを見ることができるのだ。
しかも、これは打ち上げ地点から近いところでやらないと花火自体が見えないため、この場所の確保が必須だったのだ。
そして、これもまた至近距離ならでは、腹に響く重低音が堪らなく心地いい。
しかも花火が文字通り花開く瞬間と音にズレがないから、その咲いた花の音を感じることができる。
「……」
無心になって花火を見ていると、左手に何かが触れる感触がした。
見上げたまま、それが真菜の右手だと感じ取っていた。
探るように絡めてくる真菜の細い指。
結衣もそれに応え、お互いの指と指とを絡め、手をつなぐ。
その手にはめられたブレスレットが触れ合い、暗い地上のなかで、繋がれた二人の手を、ほのかに照らしていた。
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