八章 追想
水城の家の浴室で、私はバスタブに浸かり、天井を見上げていた。
何もやる気が起きなくて、ここに来るまで水城の世話になりっぱなしになっていた。
バスタブのなかで、じっとしているだけ。
考えなきゃいけいないことがいっぱいあるはずなのに、頭がそれを放棄している。
「柑奈……」
水城に言い当てられた事実。
ずっと見て見ぬふりをして、走り続けてきた。
私は柑奈には勝てないんだと自分に思わせて、柑奈よりも前に出ることを恐れていた。
柑奈は強いから、私がどれだけ頑張っても勝てない――そう言い聞かせて。
私は、どうしたらいいの?
どうすればいいの?
今はもう、なんのために走っていいのか分からない。
伸ばしていた脚を引き寄せ、三角座りになって、膝の間に顔を埋める。
あの台風のなかで私は涙を流しきってしまったのか、今はもう、嗚咽しか出なかった。
※
浴室のドアの向こうから、嗚咽が聞こえる。
手を止めたのは、ほんの数秒だけ。
濡れた服と下着を脱いだ私は、中折れドアに触れさせていた手を押し、ドアを開けた。
浴室に入ると、結衣の背中と後頭部が見えた。
三角座りになって、顔を伏せている。
お湯は、結衣がバスタブに入っているため、結構な高さまで上がっていた。
「結衣、そのままじゃ、溺れるよ?」
その声に、結衣が顔をゆっくりと上げる。
「私も入るから、詰めて」
そう言うと、結衣は脚を引っ込めるのではなく、自分の体ごと奥へと移動した。
「恥ずかしい、から……」
体を見られたくないのか、それとも顔を合わせづらいのか。
私は小さく笑みを浮かべ、それからバスタブに足を入れた。
そして、くるりと背中を向けて、お湯に浸かった。
背中と背中とが触れ合い、お互いの背骨がぶつかる。
「押さないで」
「脚が長いから仕方ない」
「羨ましいことで」
「私は、結衣の体格くらいがいい」
「また、ないものねだりだ」
「だね」
小さな笑い声が、浴室に響く。その声も少しずつ小さくなって、代わりに聞こえるのは窓を叩く雨風の音。
「今日……」
結衣の声が、浴室に響いた。
「病院に行ったら、杏子さんに会ったの」
「……ごめん、見てた」
「そうなんだ。じゃあ、話も聞いてた?」
「……二人が一緒にいるのが気になって、でも、盗み聞きするつもりじゃなかった……けど、言い訳にしか聞こえないよね。本当に、ごめん……」
「いいよ。話す手間が省ける」
こんなときでも、結衣はそんなことを言う。
「柑奈が……いなくなる。当然、だよね。杏子さんは元々あっちにいたんだから。そこでコーチのオファーがあるなら、行くべきだよ。だって、柑奈の面倒を見るのは杏子さんで、金銭面だって、杏子さんに頼るしかないんだから。コーチの件だって、こんな有名でもなんでもない高校なんかより、関東の有名な大学のコーチの方がいいに決まってる。だから、仕方ない。仕方ないんだよ……」
「結衣は、それでいいの?」
「私の問題じゃない。親子の問題。他人の私が、口を挟めることじゃない」
「結衣と柑奈さんのことに、私が口を挟む権利がないのと一緒?」
「……ごめん。あんな言い方、するべきじゃなかった」
「でも、否定はしない」
「……うん」
「結衣らしい。でも実際、私は口を挟めなかった」
「え?」
「こっちの話」
「……いじわる」
「お互い様」
「ねぇ」
「うん?」
「あの人、水城のお父さん……じゃないよね?」
結衣の家に連れてきたとき、出迎えてくれた相手が、父親にしては若すぎると思ったのだろう。
そういえば、私は自分のことを結衣に話したことがなかった。
「違う。あの人は、私のお母さんの弟で、叔父さん。名前は秋人で、私は小さい頃から秋お兄ちゃんって呼んでる」
「水城の口から『お兄ちゃん』なんて言葉が出るなんて、かわいい」
「余計なお世話」
足でバスタブを蹴り、結衣の背中を押す。
湯が揺れて、体をちゃぷちゃぷと撫でる。
「じゃあ、両親と一緒に、叔父さんの家に引っ越してきたの?」
「言ってなかった?」
「何が?」
「引っ越しは、私ひとりだけ」
「へ?」
湯が波のように大きく揺れる。
結衣が振り返ったのだと分かった私もまた、足を引き寄せから体を反転させた。
そうして向き合った私と結衣。
心底驚いたような結衣の顔が、視界いっぱいに広がる。
「あんた、ひとりであっちからこっちに引っ越してきたって言うの?」
「そう。ここはお母さんの実家で、今は秋お兄ちゃんがひとりで住んでる。だから、ここで居候させてもらってる」
「水城のお母さんもお父さんも、それを許してくれたの?」
「うん。最初は驚かれた。でも、説得した」
「どうやって?」
「土下座」
「マジか……」
「マジ。だけど、ここに住むのと、一年間だけっていう条件つき」
「なんで……そこまでして……」
「そこまでして、成し遂げたいことがあったから」
身を乗り出していた結衣が、脱力するかのようにバスタブに背中を預けた。湯が揺れて、私と結衣の胸を交互に撫でる。
「私と……走る、ため……」
「うん。ずっと、そのことだけを考えてきた。ずっと、ずっと……」
私は立ち上がってバスタブを出た。
背中を向けたまま、中折れのドアに手を当てる。
「それが、約束だから」
それだけ言って、私は先に浴室から出た。
※
「約束……」
水城が出て行った後も、私は立ち上がれず、しばらくバスタブの中にいた。
お風呂から上がると、私は水城が用意してくれたパジャマを借りて、それからリビングで夕食をいただいた。
水城は食器の後片づけがあるからと言って、私は先に水城の寝室に通された。
水城の部屋は、八畳間の和室だった。
和室は本来、来客用などに使用するため、普段から使われることはない。
だけど、今は水城の部屋になっているため、ローテーブルや本棚、衣類の収納ケースなどが置かれていた。
和室には二人分の布団が敷かれていている。
端に寄せられたローテーブルには、教科書やノートがきちんと揃えられていて、水城らしさがうかがえた。
先に部屋に通されたものの、私はなんとなく落ち着かず、そわそわしていた。
(そうだ)
私はひらめくと、一度和室を出て、階段を見上げた。
明かりが見える。
おそらく、秋人さんは二階にいるのだろう。
私は階段をのぼって二階に上がった。
ドアのひとつから明かりが漏れているのを見た私は、控えめにノックをした。
少し待つと、ドアが開いて秋人さんが顔を出してくれた。
「吉田さん?」
「あの、今日のこと、改めてお礼を言いたくて」
「そんなの気にしなくていいよ」
「いえ、でも――」
「ボクは何もしていないよ。吉田さんがお礼を言うべき相手は、真菜なんじゃないかな」
「……そうですね」
急に恥ずかしくなって、私はもう戻ろうとした。
「真菜は――」
そんな私を、秋人さんが留めるように言った。
「もう毎日まいにち、キミのことを話してたんだ」
「私のこと、ですか?」
「ああ。もう耳にタコができるくらいに」
「水城が……」
「転校する前日は、もうガッチガチで、見てるこっちがハラハラしたよ。吉田さんに会えるか、声をかけることができるか、ってそればっかり心配して。で、初日は見事に撃沈。会えたけど、声をかける勇気が出せなかったって、その日の夕食はお通夜みたいだったね」
思い出したのか、秋人さんが笑う。
「それでも日を重ねるごとに、今日は声をかけることができたとか、一緒に競走できたとか、一緒に登校できたとか、部活に誘えたとか、一緒にお昼を食べることができたとか、テスト勉強で家に誘ってもらえたとか、プールにも行って、森田まつりの約束もして――少しずつ真菜に笑顔が増えて、ボクも自分のことのように嬉しくなったよ」
ああ、この人は本当に水城のことを大切に想っているんだなと、実感した。
「ありがとう、吉田さん」
「え?」
突然のお礼に、私は戸惑った。
「今の真菜があるのは、キミのおかげなんだ」
※
「結衣……?」
襖を開けると、そこには誰もいなかった。
すると、階段を下りる音が聞こえて、結衣が姿を現した。
「秋お兄ちゃんに会ってたの?」
「うん。お礼を言ってたの」
「そっか」
ホッとして、私は和室に入ると、続けて結衣も入り、襖を閉めた。
「どうする? まだ早いけど、もう寝る?」
布団の上に座ると、結衣も隣の布団に腰を下ろし、返事の代わりにあくびをした。
「うん。今日は……ちょっと、疲れた……かな……」
結衣が申し訳なさそうに笑い、ゆっくりと横になる。
折りたたまれたブランケットがそのままになっていたから、私はそれを広げて結衣のお腹から足へそっとかけた。
冷房を効かせているから、寝苦しくはならないだろう。
「結衣……」
呟くように、呼びかける。
結衣は眠ってしまったのか、小さな寝息を立てていた。
その寝顔に、今日の出来事を思い馳せる。
「ゆっくり、休んで」
手を伸ばし、顔にかかった髪を耳にかける。
しばらく結衣の寝顔を見ていたけど、私もあくびが出たのを機に、部屋の明かりを消して横になった。
私は全部消す派だけど、今日はオレンジ色の明かりを灯したままにした。
この方が、横になっていても結衣を見ていることができるから。
(あ……)
その結衣の手に、リボンが見えた。
今は電灯のせいでオレンジ色に見えるけど、その色は本来、白。
結衣のトレードマークでもある、ポニーテールを結ぶ白いリボンだ。
いつも、こうして眠るときには握っているのだろうか。
これはきっと、柑奈さんとの繋がり。
知ってる――柑奈さんは、色違いの黒いリボンをしていることを。
首の後ろで一本に結ぶ髪。
同じ黒で分かりにくいけど、柑奈さんもまた、黒いリボンで結んでいる。
まるで、ペアのようで……。
私はそっと手を伸ばし、その白いリボンの端を掴んだ。
少し引っ張ると、結衣の手には力が入っていないため、するりと抜けた。
「……」
雨戸を叩く雨と風の音。
その音がなければ、まるで部屋に響いているかのように、私の心臓がドクドクと鳴っているのが分かっていただろう。
私にとっての結衣は強い、憧れの存在だ。
その結衣が、このリボンを通じて、柑奈さんに縋っているようで……。
(こんなものが、あるから……)
そう思うのに、指は動かない。
だって、本当は分かっているから。
こんなことしたって、結衣と柑奈さんの関係は変わらなくて、
ただ私の自己満足だけが満たされて、でもそれすらもすぐに意味のないことだと気づいて、私は私自身を愚かな奴だと罵倒するだけ。
私は、私自身を蔑む行為を、なんとか思い留めた。
指を離し、手を引っ込める。
そうして結衣に背中を向けるようにして反対を向くと、ブランケットを抱きしめるようにして丸くなりながら、私は眠りについた。
※
これは、夢。
いや、きっと現実だ。
だって、隣に柑奈がいるから。
病院のベッドで目を覚まし、リハビリをやりとげ、また走れるようにトレーニングもして、そして、私たちはまた競い合うことができるようになった。
お互いに見つめ合い、それが恥ずかしくて、誤魔化すように笑い合う。
それから、負けない、絶対に勝つという意志のこもった瞳が火花を散らし、どちらから合図をするわけでもなく、私たちはクラウチングスタートの体勢をとった。
そして、スターターピストルの音と同時、私たちは駆け抜けた。
今、この走りをしている私のコンディションは最高で、まるで風と一体になっているようだった。
腕と脚の動きが完全にマッチし、お互いの動きがお互いを高め合い、いつもより一枚上のギアへとシフトアップさせる。
並んでいた柑奈が少しだけ下がる。
いや、私が前に出ているんだ。
ずっと勝てなかった柑奈に勝てる。
その喜びと同時に、私は百メートルを走りきり、フィニッシュ地点を通過した。
ずっと、柑奈がどんな表情をしているのか知りたかった。
私はフィニッシュと同時に振り返り、
「か――」
そこには誰もいなかった。
※
「――ッ!」
瞼を開くと同時、オレンジ色が視界に広がった。
「あ、ああ、ああああああっ!」
何かを求めるように宙に手を伸ばし、ただ叫び声を上げる私に、
「結衣っ!」
視界いっぱいに、水城の顔が映った。
「落ち着いて、深呼吸して」
空を切る手が、水城の二の腕を掴み、そこで私は肩で息をするほどに乱れていた呼吸を、ゆっくりと整えていった。
「水城……」
「うん、私。だから、安心して」
水城の声はとても静かで、やさしくて、私は最後にゆっくりと息を吐き出した。
「大丈夫?」
「うん。もう、平気……」
「汗かいてる。水、持ってくるね」
そう言って立ち上がろうとする水城。
掴んでいた手から、二の腕がするりと抜け、
「結衣……」
縋るように伸ばした手が、膝立ちになった水城の手首を掴んだ。
水城と視線が交わる。
少しすると、水城は腰を下ろし、その場で座り込んだ。
眠る前にはひどくうるさかった雨戸を叩く音が、今は静かになっている。
手首を掴む私の手に、水城の手が重ねられる。
何も言わず、ただ、ここにいてくれる。
(なんで、どうして……)
水城はこんなにも私に尽くしてくれるのか。
どうして、水城は私にこれほどまでに固執するのだろうか。
すべてを陸上に捧げ、私と走るために、転校までしてきた。
親に頭を下げて、たったひとりで。
全部、私のために。
水城は私を知っている。
だけど、私は知らない。
いや、憶えていない。
だったら、思い出せ!
いい加減、自分で自分の態度が嫌になる。
こんなにも真っすぐで、一途で、どんなときだって私のことを思って、私のために行動して、口喧嘩で関係が崩れたかもしれないのに、柑奈の前であんなにも思いの丈をぶつけてくれて。
これまでの水城に、私は報わないと――いや、応えないと。
思い出せ。
秋人さんが言っていたじゃないか。
どうしてあれを訊いても思い出そうとしないんだ。
私にとって、柑奈は唯一無二の存在。
だけど、もっと前に、出会っていたんだ。
私にとって間違いなく友達で、走ることを好きになってくれた、かけがえのない存在を、私は、柑奈との関係を唯一にしたくて、消してしまったんだ。
その子がずっと、今日までずっと、私のことを想い続けてくれていたのに。
水城が走ることを大好きになったきっかけが自分なのだと、秋人さんが言っていた。
そんな出会いを、私はしただろうか。
柑奈と出会ったのは、小学五年生の頃。
それから先は、ずっと柑奈と共にいた。
だったら、もっと前。
そして水城は四年生のときに転校したと秋人さんが言っていた。
だったら、水城との出会いは、その間ということになる。
「……あ」
それは、まるで走馬灯のようだった。
私は小さい頃から走るのが好きだった。
保育園の頃からよく走っていたと母親から聞かされた。
小学校に上がってからも、体育の時間が好きで、運動会でリレーの選手にも選ばれ、アンカーも任されていた。
私は女子でありながらも、平均的な男子よりも速かった。
学年が上がり、体が成長するほど走る速さも増した。
女子で私に敵う者はいない。
教室内では私の足の速さを知らぬ生徒はおらず、もてはやされた。
だけど、そんな並ぶ者なしと思っていた私の隣に、現れたのだ。
その少女との出会いは、小学四年生の三月。
冬が終わり、ようやく体育の授業がグラウンドで行われ、競走もできるようになった。
その日の授業は、いつものように隣の組と合同で、最初に百メートル走の測定をした。
そして、残りの時間でトラックを使ってのクラス別対抗リレーが行われた。
走る順番は、計ったタイムの遅い順。
つまり、私はいつものようにアンカーだった。
同じクラスの女子生徒たちがバトンを繋いでいき、最後に自分の番がくる。
横に立つのは、隣のクラスで一番タイムの速い女子。
だが、その見た目はあまりに地味だった。
細いメタルフレームのメガネに、長い髪をゆるく三つ編みにした髪型。
だけど何よりも私の目を惹いたのは、今から走るというのに、まったく冴えない少女の表情だった。
「あなた、クラスで一番速いんだよね?」
私が声をかけると、少女はビクッと肩を震わせた。
「わ、わたし?」
「そう、あなた」
「わ、分からない」
「分からないの?」
首を傾げる私に、少女が頷く。
「まぁいいよ。勝つのは私だから」
そう言って、私は胸を張って見せた。
「そ、そうだね……」
対する少女の反応が薄く、私はムッとした。
せっかくのアンカー対決、しかも相手は自分と同じでクラスで一番速い子なのに、その相手にやる気がまったく見られないのだ。
どうにかしてやる気を出させられないだろうか――と思ったところで私は思いついた。
「ねぇ、勝負しようよ」
「え?」
少女が顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべる。
「お互いクラスで一番。だから、ここでどっちが速いか競うの」
「そんな、私……」
顔を背ける少女に、私は引かず、むしろ押す勢いで言った。
「それで勝った方が、負けた方に何でも好きなことをひとつ、言うことを聞かせられるの」
「え……えぇっ!」
驚く少女に、言うだけ言った私は正面を向き、顔を後ろに向けた。
ひとつ前の走者が迫り、バトンを渡そうと必死に走ってくる。
ここに至るまでの勝負は、向こうの方が先だった。
「ちょうどいいハンデ」
そう呟く私の横で、少女がバトンを受け取り、走り出す。
競うという点では、同時スタートではないため、公平な勝負にはならないのだが、後追いという状況が私の高揚感を高めていた。
そもそも、自分のクラスが負けているところを見たからこそ、この勝負を思いつき、口にしたのだから。私には、何よりも追いつける自信があった。
「結衣ちゃん!」
「任せて!」
遅れてバトンが手渡され、走り出す。
その速度は、控えめに言っても速かった。
走り終えた生徒たちが、最後の走者に声援を送る。
これも、アンカーの醍醐味のひとつだ。
この応援が力になる。
勝てばみんなの勝利となるのだが、それでもやはりフィニッシュを決めるアンカーは格別だ。
今回も勝つ。勝てる。
その自信と、それを裏付ける足が、私にはある。
それなのに、半分を過ぎたところで、私は感じていた。
(あの子、速いっ!)
追いついてはいる。
だけど、その差を詰めるのに、時間がかかっている。
カーブを走り、最後の直線に入る。
少女の背中はすぐ目の前にまで迫っていた。
最後の直線は、私が大好きなところだ。
ここで力のすべてを出し切り、圧倒する。
だけど、いま私は初めて、圧倒するためではなく、追い抜くために力を出し切っていた。
少女は前半で力を出しすぎたのか、明らかに失速していた。
目の前にゴールが迫り、二人が横一直線に並ぶ。
そして、次の一歩で、私は少女を抜き、その直後にゴールした。生徒だけでなく先生もその僅差の戦いに白熱し、声を上げた。
速度を落としながら歩き、息を切らしながら立ち止まる。
振り返ると、少女は限界を超えていたのか、膝に手を当て、荒く息をしていた。
「ねぇ」
私は少女に駆け寄った。
そして、顔を上げる少女に、
「めっちゃ楽しかったね」
と満面の笑みを浮かべて言った。
「すごいよ。こんなに速いなんて思ってなかった。私、こんなに走るのが楽しいと思ったの、初めてだったよ。あなたはどうだった?」
「わ、わたしも……」
少女は体を起こし、
「私も……た、楽しかった」
そう言って、笑ってくれた。
その時の笑顔は、決して彼女は地味なんかではなく、ただ気持ちをうまく表情に出すことができなかっただけで、こうやって楽しいと思ったことを笑顔で伝えてくれた少女は、とても輝いて見えた。
「また、一緒に走ろうね」
「う、うん!」
お互いに笑顔を浮かべる。
それが、勝った私の願いであり、負けた少女はそれを笑顔で受け入れてくれた。
「私、吉田結衣。あなたは?」
「わ、私は……」
少女は恥ずかしげにもじもじするも、意を決し、
「私の名前は、水城――」
「――真菜」
「え?」
無意識に呟いたその名前に、水城――真菜が驚いたように反応する。
私は体を起こして、真菜と向かい合った。
「思い、出したの……」
その言葉の意味することに、真菜が思わず口元を手で覆う。
「小学四年のころ、クラス対抗リレーのアンカー対決」
真菜が、込み上げる気持ちを抑えようと、口元を手で覆いながら何度も頷く。
「真菜」
もう一度、名前を呼ぶ。今度は、昔呼んでいたその名前を思い出しながら。
「結衣、ちゃん」
真菜もまた、当時の呼び方で私を呼ぶ。
その瞳が潤み、溢れたそれはひと筋の涙となり、目尻から零れ落ちた。
「待たせてごめんね」
真菜が何度も首を振る。
「こんな私のために、待っててくれて、ありがとう」
真菜の手を引き寄せ、抱きしめる。
「ううん。結衣なら、思い出してくれるって信じてた。私の方こそ、ありがとう。こんな私のことを思い出してくれて」
「本当に、ごめん。でもね――」
そう言って、私は一度離れて向き合い、
「真菜、変わりすぎだよ。こんなに綺麗になってたら、分からないよ」
意地悪するような笑みに、「もうっ……」と真菜が顔を赤くする。
「あの時の約束、覚えてる?」
「全部、思い出した。だからインターハイなんだね」
「うん」
私と真菜は、それから休み時間のたびに外で走り、体育の授業で百メートルのタイム測定があれば競い合い、リレーでは二人のアンカー対決が名物となった。
私にとって、そして真菜にとって、初めての競い合える相手。
それがお互いを刺激し、高め、走りへの意識を高めた。
だけどそれは、ひと月にも満たない、あまりにも短い時間だった。
真菜は、私と知り合う前から、春休みの間に関東に引っ越すことになっていたのだ。
私が知ったのは、真菜の最後の登校日だった。
ホームルームでその話を先生から伝えられた私は、急いで真菜のところへ向かうと、ちょうど校門を出るところだった。
「真菜!」
「ゆ、結衣ちゃん……」
立ち止まる真菜と向かい合う。
本当なら、「どうして話してくれなかったの」とか責める言葉も出ていたかもしれない。
現に、真菜は何か言われるのではないかと怯えていた。
だけど、私が言いたい言葉は、そんなものではなく、
「真菜。あっちに行っても、走るよね」
「え? う、うん……私、走る」
「じゃあ、安心した。私、中学校に上がったら、陸上部に入って、日本一を目指す。だから、真菜も向こうで目指して。そうすれば、一番を競う場所で会えるから」
そう言って、私は一番を示すように人差し指を立てた。
「分かった。私も走る。それで、結衣ちゃんに勝つ」
真菜もまた、人差し指を立てる。
「約束だよ」
「うん。約束」
そして小指ではなく、立てた人差し指で指切りをかわした。そんなやりとりに二人して吹き出し、それから指をそっとはなした。名残惜しかったが、心は晴れやかだった。
それが、真菜との最後の記憶。また会えると、そう信じていた。そして二年が経ち、中学生になった私は、だけど真菜と出会うことはなかった。
「どうして、声をかけてくれなかったの?」
そう問う結衣に、真菜が顔を伏せる。
「中学一年の時に全国に出て、すぐに結衣のこと探した。それで、見つけた。すぐに分かった。ずっと追い続けてたから。それで、やっと最高の舞台で勝負することができるんだって、結衣もまた私を探して、それで一緒に走ることができるんだって、そう思ってた。でも……」
真菜が言い淀む。
そのときのことを思い出した私は、どうしてなどと訊いた自分の不甲斐なさに、心底嫌になった。
「柑奈が……いたからなんだね」
真菜が俯かせた顔を小さく頷かせる。
「結衣の隣は自分の場所なんだって勝手に思い込んでて、その場所に柑奈さんがいるのを見て、私は……もう……結衣にとっては……忘れられた存在なんだって……そう思って……そう、思ったら……」
真菜の声に嗚咽が混じり、自分の胸をおさえる。
「悲しくて……でも、それ以上に悔しくて……その悔しさを、柑奈さんと同じ組で走ることになったとき、ぶつけてやろうって思った。でも、ぶつけられたのは私の方だった。柑奈さんは、誰よりも速かった。速すぎて、レベルが違った。本当は、柑奈さんに勝って、結衣の元に行くつもりだった。だけど、負けた。完膚無きまでに。柑奈さんは私のことなんて知らない。だけど、負けた私は、もう二人に近づけなかった。勝った柑奈さんに駆け寄って喜び合う結衣の笑顔を、見ていられなかった」
「……ごめん。本当に……ごめん……」
真菜には泣く資格がある。
だけど自分にはない。
だから、溢れそうになる涙を必死に堪え、ただ謝ることしかできなかった。
「それから決めたの。全国で柑奈さんに勝ったら、結衣に話しかけるって」
真菜が顔を少し上げる。
だけど、視線は伏せたまま。
「でも、二年のときも、三年のときも、全国には行けても、柑奈さんには勝てなかった」
真菜が、諦めにも似た口調で語る。
中学で全国三連覇を果たした柑奈は、陸上界で話題の人となっていた。
中学生記録を年度毎に更新し、今でも三年時の記録が残っている。
「私、あっちに転校して、ひとりで走ってた。今の結衣と同じ、河川敷の土手でね。そこで、出会ったの」
真菜が顔を上げる。
「柑奈さんのお母さん――立花コーチに」
「杏子さんに?」
少し驚く私に、真菜が頷く。
「あとから知ったことだけど、そのときのコーチは、離婚して、柑奈さんとも離ればなれになって、すぐだったらしい。そこで私を見かけて、声をかけてくれたの。多分、柑奈さんと同じで走るのが好きな私を、重ねてしまったんだと思う」
そう言う真菜の声音は、少しだけ憐れみを含まれていた。
「でも、そのおかげで私は最高のコーチと出会えた。小さい頃からオリンピック選手に教えられて、速くならないわけがない」
それでも、同じオリンピック選手に育てられた柑奈には勝てなかった。
「中学の陸上部で、顧問に教えられることが立花コーチとは違って、すごく戸惑った。立花コーチは高校の陸上部で顧問をしているって聞いて、絶対にコーチがいる高校に入学するって決めた」
真菜にとって杏子は、もしかしたら第二の母親的な存在だったのかもしれない。
福井に戻る形で転校してきたのも、自分と走るためと言っていたが、杏子の下で指導を受けたい気持ちも、やはりまだあったのではないだろうか。
「高校に入って、すぐに陸上部に入部して、コーチも喜んでくれた。コーチは有名だったから、陸上部も人数が多くて、そこで勝ち上がるのは難しかった。でも、私には目標があった。そのために一年であろうと遠慮しなかった。同級生にたしなめられても、上級生にちょっとした嫌がらせを受けても、全部実力で黙らせた。『文句があるなら、足で語れ』って」
「なにそれ、カッコよすぎ」
そう言うと、ちょっと得意げに、真菜が笑みを浮かべる。
「だから、私自身も負けるわけにはいかなかった。負ければ侮られる。高校に入ってから、全部陸上に捧げた。それでインターハイに一年で自分だけが選ばれて、今度こそ柑奈さんに勝てる自信もあった。だけど……柑奈さんも、結衣も、インターハイにはいなかった」
真菜が悔しさに顔をしかめる。
「理由が分かって……そして、柑奈さんのレコードタイムだけが、私の前に立ち塞がった。柑奈さんがいなくなって、結衣に声をかけることだってできるのに、11.40っていうタイムの壁が、私と結衣との間に、絶対に越えられない壁として立ち塞がった」
でも、と真菜が悔しさに打ち拉がれながらも、声を上げる。
「それでも、私は結衣と走りたかった。二年のときにもインターハイに結衣がいなくて、次の年が最後のチャンスになった。でも、結衣が来るかどうか分からない。そしたら、冬にはコーチも福井に行くことになって顧問を辞めることになった。それがきっかけだった。元々、コーチがいたから選んだ高校だった。だから、コーチがいなくなるなら私も、って……いま思えば、ちょっとどうかしてたかもしれない」
そう言って、真菜が自嘲する。
「ちょっとどころか……」
かなり、どうかしている。
「そうだよね。でも、きっかけなんだよ。おかげで、親も説得できた。私にとっての最後の一年――ラストチャンス」
「そうだったんだね。ようやく分かったよ。これまでの真菜の言動の意味が」
「出会って初めて話して、本当は凄く嬉しかった。でも、自分から正体を明かすのが恥ずかしくて、結衣の方から思い出して欲しいなんて言って……ホント、馬鹿。最初から全部明かしてれば、遠回りせずにすんだのに……」
「そんなことないよ」
私は手を伸ばし、真菜の手を掴んだ。
「もし最初に教えられてたら、私は自分を許せなかったと思う。今ももちろん、不甲斐ない自分を殴ってやりたい気分だけど、隠してくれてたおかげで、私は真菜と友達になれた。小学四年生の私たちじゃなくて、高校三年生の私たちだから、こうやって今、一緒にいられる。私に思い出させてくれたから、思い出した今も、私は真菜と一緒にいたいと思える」
「結衣……」
真菜がまた涙ぐむ。
「もう、また泣く。真菜は泣き虫なんだね」
子どもをあやすように、真菜の頭を撫でる。
「本当に、ありがとね。真菜がいなかったら、私……」
柑奈がいなくなると知ったとき、結衣の心は大きく抉られた。
だけど、その残った部分には真菜がいてくれた。
だからこうしていられる。
真菜を前にして、安らぎを得られている自分がいる。
「……安心したら、眠くなってきちゃった」
「もう、大丈夫?」
「平気だよ」
一緒に横になり、向かい合う。
「でも――」
私は手を伸ばし、
「手……握ってくれたら、ぐっすり眠れるかも」
言うや否や、真菜の手が伸び、ぎゅっと握られる。
「私がいる。だから、安心して眠って」
「ありがと……おやすみ、真菜」
「おやすみ、結衣」
そうして、二人して瞼を閉じる。
数分後には、二人分の穏やかな寝息が和室に静かに聞こえていた。
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