七章 嵐

 急速に発達した低気圧が、台風となって接近している。

 翌日の日曜日には、空が雲に覆われていた。

 その雲も、まるで流れるように動き、どんどん色濃くなっていく。

 私は午前中に、河川公園で与えられた特訓メニューをこなしていた。

 最後にスマホを取り出し、いつもの音声を再生させる。

 その音や声を聞きながら、クラウチングスタートの構えをとる。

 そうすると、いつも柑奈が現れてくれる。

 薄く透き通った、私にだけ見える、11.40の走りをする柑奈。

 私は走るのが好きだ。

 でも、それよりも競走が好き。

 ひとりでただ走るんじゃなくて、誰かと競い合う。

 並んで走って、どっちが先にゴールするか。

 それが、私は好きだった。

 なのに、こうやって柑奈と走れているのに、楽しさを感じられない。

 柑奈と走れるだけで、幸せなはずなのに。

 走っても、走っても、走っても走っても走っても……私は柑奈には勝てない。

 柑奈が私の前を走る。

 初めて出会ったときから、ずっと。

 走っているとき、柑奈はどんな顔をしているんだろう。

 それすらも、分からない。

 だって私は、柑奈には勝てないから。

 スタート地点に戻り、スマホを手に取る。

 休日は、午後から病院に行くようにしている。

 この二年間、ずっと変わらずに続けてきたことを、今日もするだけ。

 でも、今日だけは違う。

 それが、私にはどうしても恐ろしく感じてしまうのだ。


            ※


「吉田さん」


 病院に着くと、そこには杏子さんがいた。


「杏子さん……」


 どうしてここに? と続けて言おうとし、思い留まった。

 どうしてもこうしても、杏子さんは柑奈の母親だ。

 来る回数が少なくたって、それを咎めることなんて私にはできない。

 杏子さんと柑奈は、親子なのだから。


「ちょうど良かったわ」


 ドクン、と胸に痛みが走る。


「吉田さんに、話しておきたいことがあるの」

「私……に……」

「ええ」


 杏子さんに促され、私はいつもの休憩スペースのカウンター席に座った。


「水を持ってくるわね」


 一度は座った杏子さんが立ち上がろうとする。


「いえ、それよりも……話してください」


 杏子さんの目を見つめると、あげかけていた腰を下ろし、再び椅子に座った。


「実は……昔、お世話になった大学から、陸上部のコーチをお願いできないかって、オファーがきたの」

「そこって――」

「埼玉よ」

「――ッ! じゃ、じゃあ、柑奈はどうするんですか! 見捨てるつもりじゃ――」


 詰め寄る私に、杏子さんが大きく首を振る。


「柑奈も、連れて行くつもりなの」

「そん、な……」


 私は、浮かした尻を椅子に落とした。


「吉田さん――あなたが、柑奈のことをどれだけ想ってくれているのか、分かっているつもりよ。でも、それでも、あの子があなたの負担になっていると、私は思うの」

「そんな、負担だなんて思ってません! やっぱり、ここに来てたのが迷惑だったんですか? だったら……だったら……」


 そこから先を、私は言えなかった。

 だって、柑奈に会えないなんて、そんなの、いなくなるのと同じことだから。


「違うのよ、吉田さん。それは違う。あなたが今までしてくれていたことを迷惑だったなんて思ったことはないわ。これは、私の問題なの……ごめんなさいね」

「う、あ、あぁ……ぁ……」


 私は堪え切れなくなって、泣いてしまった。

 そんな私をまわりから隠すように、杏子さんがそっと抱きしめてくれた。

 その胸のなかで、私はただ、泣いていた。


            ※


「あなたが水城さんなのね」


 受付で名前と面会の相手の名前を書いてバインダーを戻すと、受付の若い女性の人に声をかけられ、私は思わず身を引いてしまった。


「結衣ちゃんから、時々耳にする名前だったから、どんな子なんだろうなぁ~って思ってたの」

「は、はぁ……」

「結衣ちゃんなら、ついさっき来たところよ。立花さんの病室は、あっちね」

「ありがとうございます」

「結衣ちゃんのこと、よろしくね」

「はぁ……」


 とにかくよく喋る人だなと思いながら、私は軽く頭を下げ、廊下を進んでいった。

 結衣とは待ち合わせをしているが、まだ少し時間があるため、私はトイレに行った。

 そこで用を足すわけでもなく、ただ立ち、気持ちを落ち着かせる。

 自分で柑奈さんに会いたいと言っておきながら、何を言っていいのかも分からない。

 柑奈さんは昏睡状態で、こっちから何を言っても、関係ないというのに。

 それでも、結衣が同伴しているから、下手なことも言えない。

 言いたいことは考えてきたのに、いざここまでくると、頭が真っ白になってしまう。

 時間が迫る。

 遅れるわけにはいかない。

 私はトイレから出ると、そこで足を止め、思わず身を引いて隠れてしまった。


(結衣と……立花コーチが……なんで……)


 二人のことが気になって、私はその後を追っていた。

 盗み聞きなんて、するつもりはなかった。

 休憩スペースのカウンター席に座り、背中を向けて二人が話している。

 だけど、すぐにお互いに顔を向け合い、声を大きくして言い合っていた。

 それが、廊下の壁に隠れていた私の耳にも届いて、気がつけば、その場を離れていた。

 そして向かった先は、柑奈さんが眠っている病室だった。

 スライドドアを開けて、中に入る。

 ベッドの足下で立ち止まり、柑奈さんを見つめる。

 空調の効いた部屋は涼しく、だけど寒くはない。

 タオルケットがかけられ、体のシルエットが浮いて見える。

 それでも分かってしまう。

 あまりに、痩せ細っていることが。

 本当に、ここが病室でなければ眠っていると思ってしまう。

 だけど柑奈さんは競技中に倒れ、頭を打ち、昏睡状態になっている。

 見た目より、深刻な状態だ。

 あの、絶対的な走りを見せていた勇ましい姿は、ここにはない。

 私の記憶にある柑奈さんは、あまりに強く、それでいてどこか儚げだった。

 中学の全国大会で、私は柑奈さんと競い合った。

 私がこんなにも全力で走っているのに、それよりも前を走る柑奈さんは、まだ全力じゃない、余力を残しているような表情でいつも走っていた。

 走り終わった後も、もう立てないとばかりに膝に手をつく私の前で、柑奈さんはただ立っているだけで、呼吸だって恐ろしいくらいに整っていた。

 その姿が、私は恐ろしいと思った。

 これが、頂点に立つ者なのかと。

 だけど、私だって諦めなかった。

 約束していたから。

 中学では勝てず、ならば高校のインターハイでと私は意気込んでいた。

 だけど、その年のインターハイに、柑奈さんはいなかった。

 その代わり、北信越大会で11.40という新記録を樹立させ、それを残した。

 柑奈さんに勝つと言うことは、この記録を塗り替えるということ。

 私も最初はそれを目標にしていた。

 だけどすぐに気づいた。

 これは、違う。

 私は、こんなものを目指していたんじゃない。

 柑奈さんに勝つことは、あくまでも手段であって目的じゃない。

 私の目的は、結衣と……結衣ちゃんと、最高の舞台で走ること。

 だから、転校までして、ここに来た。

 結衣に、やっと会えた。

 それなのに、結衣は、結衣の目には……柑奈さんしか、映っていなかった。


「ねぇ、柑奈さん」


 眠る柑奈さんに、私は声をかける。


「いつまで、寝てるの?」

「……」

「いつまで、結衣に心配かけ続けるの?」

「……」

「どうして、目を覚ましてあげないの?」

「……」

「ねぇ、応えて……応えてよ!」

「……」

「結衣は毎日まいにち、あなたのために尽くしてる。それは、あなたとまた走りたいと思ってるから! あたなが目を覚ますと信じてるから! そこまで結衣に想われてるのに、二年も寝たままなんて……ずるい……ずるいよ……」

「……」

「柑奈さんは憶えてないかもしれないけど、私は憶えてる。中学一年のときも、二年のときも、三年のときも、私は一度もあなたに勝てなかった……」

「……」

「意固地になって、あなたに勝ったら結衣に声をかけるなんて勝手に決めて、勝てなくて……ずっと、結衣のこと、見てることしかできなかった……」

「……」

「分かってる。柑奈さんは何も悪くない。悪いのは……馬鹿なのは、私だから。でも、だからこそ……絶対に勝つんだって、そのために……一生懸命、練習だってしたのに……あなたは……本当に、速くて……」

「……」


 立っていられなくて、床に膝立ちになる。


「そんなあなただから、結衣だって、あなたの隣に……今も……」


 声が震えて、うまく喋れない。

 涙が込み上げてくるけど、絶対に流したくはなかった。


「だから!」


 私は立ち上がり、ベッドの手をつき、柑奈さんに向かって叫んだ。


「勝ち逃げなんて、許さないから! 私は記録じゃなくて、あなた自身と走りたいの! 私だけじゃない。結衣だって、きっとそう。あなたとの最後の走りを音で聞いて、毎日、あなたと走ってるの! でも、それは柑奈さんじゃない。柑奈さんが出した、記録でしかない。私も、結衣も……柑奈さんと! 走りたいの!」


 言いたいことを言って、終われば肩で息をしていた。


「……」


 柑奈さんはそれでも眠ったまま。


「水城!」


 そのとき、スライドドアが開いて、結衣が病室に入り込んできた。


      ※


「ゆ――」

「今の怒鳴り声は何? 柑奈に、柑奈に何を言ったの!」

「わ、私は……」


 詰め寄った私がどんな顔をしていたのか、私は知らない。

 だけど、私の顔を見た水城は、このときだけは怯えていた。


「私は……結衣を……もうこれ以上……」


 水城が顔を背けて、言葉を詰まらす。


「これ以上、何? あんたもそんなことを言うの? 杏子さんも、あんたも……私は、迷惑とも思ってない。不自由だと思ってない。私が好きでやってるの。誰に言われたからでもない。私がやりたいからやってるの。だから、このことで、誰にも指図なんてされたくない。お節介もいらない。あんたが柑奈に何を言いたくて私にお願いしたかは知らない。だけど、もうこれ以上は、私と柑奈に関わらないで。迷惑よ」


 いつの間にか、私は水城を部屋の奥の壁まで追いやっていた。

 水城が顔を伏せ、今にも泣きそうな表情をする。

 背の高い水城は、表情を隠したくて顔を伏せても、背の低い私には、丸見えだ。

 その表情を見て、私は少しだけ頭が冷えて、身を引かせた。


「出てって」


 そのまま横に一歩ずれ、道をあける。


「今はもう、これ以上あんたとは話したくない。だから、出てって……」


 私は水城が好きだ。

 でも、これ以上ここにいたら、言っちゃいけないことまで言ってしまって、その関係が壊れてしまうかもしれない。


「……嫌だ」

「え?」


 水城が自分の胸に右手を当て、服を鷲掴みにした。

 シワが入り、だけどそれ以上に、水城の顔がぎゅっとすぼめられる。

 そして――


「嫌だっ!」


 水城が、叫んだ。


「――ッ!」


 その声に、表情に、迫力に、私は思わず後ずさってしまった。


「私が転校してきたのは、こんなことのためじゃない! 私は本気の全力で、結衣と走りたいだけ! ただそれだけなの! だから、走ってよ! 私と走ってよ! 私じゃ……ダメなの……?」

「水城……」


 叫びから一転、水城の声が震え、涙が含まれる。


「私じゃ、柑奈さんの代わりにはなれないの? 私じゃ、結衣の隣に並べないの?」

「あんたじゃ……柑奈の代わりにはなれない」

「結衣……」

「私より遅いあんたなんかに、柑奈の代わりなんてできるはずない!」


 水城が目を見開き、また胸を鷲掴む。

 私が突き刺した言葉のナイフに、水城が背中を丸める。

 そのとき思った。

 ああ、もう元の関係には戻れない――と。

 昨日までの日々が嘘のように、頭を過ぎっていく。

 だけど、それも過ぎたこと。

 私には、柑奈さえいてくれればいいんだ。

 そうだ。

 元々、それ以上を望むこと自体が間違っていたんだ。

 友達もいらない。

 柑奈だけいればいい。

 柑奈だけいればいいんだ。

 だから、


「私は確かに、結衣よりも遅いかもしれない」


 なのに、


「でも、それなら……」


 どうして、


「柑奈さんよりも前に出ることを怖がってる結衣は、もっと大馬鹿野郎だよ!」

「――ッ!」


 まるで胸を殴られたかのような衝撃に、私は脚から力が抜け、柑奈が眠るベッドに座るようにして倒れ込んだ。

 水城が前に出て、私を見下ろす。


「北信越大会だって、決勝まで結衣はすごくいい走りをしてた。あのまま調子を上げて行けば、優勝はもちろん、柑奈さんの記録だって抜けたかもしれない」

「……て」

「なのに、最後の最後で、結衣はトルソーを投げず、それだけじゃない、力だって抜いてた。私も立花コーチも気づいてた。でも、言わなかった。言えなかった。誰よりも結衣が辛い気持ちだろうって、そう思ってたから」

「……めて」

「でも、もうこれ以上は、私も我慢の限界。結衣は、手を抜いた。私だけじゃない。陸上に青春捧げてるみんなに向かって、全力で挑まなかった。ハッキリ言って、それは屈辱以外の何ものでもない! 全力で戦って、それで負けたら、私たちだって悔しいけど、それでも悔いはない。だって、全力でぶつかり合ったから。だけど、あなたはこれまでずっと、手を抜いてきた。しかも、それは私たちに対してじゃない。柑奈さんに対しても。それがどれだけ失礼なことか、考えたことがある?」

「……やめて」

「みんな、記録のために走ってるんじゃない。その時、その瞬間、同じ組で走る、横に並ぶ走者のなかで、自分が一番にフィニッシュするために走ってるの。タイムアタックじゃない! 競走してるの! 競い合ってるの! 相手は時間じゃない。人間なの。みんな練習して、練習して、たった十何秒って戦いで一番になるために、何年も練習して、誰もが一番になりたいから、辛くても苦しくても耐えるの。それを! 全部! あなたは! 侮辱した!」

「やめて、よぉ……」

「柑奈さんだって――」

「もうやめてっ!」


 私はもう耐えられなくて、柑奈のベッドから降りると、振り返り、ベッドのシーツに顔を埋め、耳を塞いだ。


「聞きたくない! そんなの聞きたくない! 私と柑奈のことなんて何も知らないくせに!」

「結衣……」


 肩に触れる感触に、私は振り払うように腕を伸ばし、振り返った。

 その手の甲に、痛みが走る。

 骨に響いて、頭の奥まで痛くなるような痛み。

 だけど、そんな痛みなんて、そのときの私は感じている余裕がなかった。

 私が振るった手が、水城の頬にぶつかっていたから。

 水城が頬を手で押さえる。切れた唇から血が流れていた。


「あ……あぁ……」


 私は恐ろしくなって、後ずさった。

 だけど、後ろには柑奈のベッドがあって、私はそれにぶつかって、縋るようにして立ち上がった。


「大丈夫……だよ」


 水城が、健気に笑う。


「私も……言い過ぎた。だから、結衣も――」


 私は、私のしたことの恐ろしさに、それを否定したくて、何度も頭を振り、後ずさった。


「ご、ごめん!」


 振り返り、病室を飛び出す。


「結衣!」


 背中から聞こえる水城の声を振り切り、廊下を走る。

 人とぶつかりそうになり、受付で七瀬さんが声を上げる。

 だけど、今の私は誰とも離したくなくて、それ以上に、何をどうしていいのか、もう分からなくて、ただ走った。

 とにかく外にと思い、病棟の一階まで下り、正面入口を飛び出した。

 外は、雨が降っていた。

 まだ本格的ではないが、風も強くなってきている。

 雨があっという間に体を濡らす。

 それに構わず、私は駐輪場でクロスバイクを引っ張り出すと、そのまま九頭竜川の土手に上がり、森田地区へと走らせた。

 九頭竜川の水は土色になり、水位を増してきている。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 私は、私がどこに行こうとしているのかも分からず、ただペダルを漕ぎ続けていた。


            ※


「私……馬鹿だ……」


 嵐が過ぎたように静まり返った病室で、私は壁に背中を預け、そのままずるずると引きずるようにして座り込んだ。

 言い過ぎた。

 でも、言わなければこのままで、それはそれで後悔してしまう。

 私はただ、結衣に、本気の全力で走ってほしかっただけ。

 柑奈さんをどうこうなんて、思ってもいない。

 だって柑奈さんは、結衣の大切な友達だから。


「……あ」


 柑奈さんのベッドが斜めにずれている。

 こんなにも騒いで、ベッドさえ揺れたのに、それでも柑奈さんは目を覚まさない。

 本当に、柑奈さんは昏睡状態なのだと、改めて思い知らされる。

 だって聞こえてたら、目を覚ましてくれるはずだ。

 私は起き上がって、ベッドの縁を持って、元の位置に戻そうとし――


「……え?」


 ピク、とブランケット越しに、柑奈さんの指先が動いた。


「柑奈……さん?」


 呼びかけると、また動いた。

 だけど、それ以上、動くことはなかった。

 それでも、動いたという事実が、私の脳裏には焼きついていた。

 まるで、今の話は全部聞いていたぞ、と言うように。

 もちろん、それは私の勝手な想像だ。

 だけど、もし柑奈さんの耳が聞こえていて、それが例え反射的なものだとしても、柑奈さんが何かしらのメッセージを送ってくれたのだとしたら、


「ごめんなさい。私、結衣を追いかけます!」


 ベッドも戻さないまま、私は遅れて病室を飛び出した。

 廊下には、おそらく結衣を見かけたのであろう受付の女性や立花コーチ、松葉杖をついている少女にもすれ違った。


「水城さん!」

「立花コーチ!」


 さすがに立花コーチを無視していくことはできず、通り過ぎたところで私は振り返り、


「結衣を追いかけます。柑奈さんのことお願いします」


 それだけ言って、またすぐに走った。


「水城さん!」


 立花コーチの呼び止める声も、私が結衣を追いかけたい気持ちには勝てず、私はただひたすらに走った。

 外に出ると、雨が私を濡らす。

 そんな些細なことはどうでもよく、すぐに駐輪場に向かった。

 そこから、結衣のクロスバイクが消えていた。

 私はすぐにママチャリを引っ張り出し、漕ぎ出した。

 重い。

 すごく重い。

 いつも軽やかに漕ぎ出す結衣とは違い、年代物で錆ついたチェーンのママチャリは本当に重い。

 だけど、それでも私は踏み込むことをやめない。

 これだっていい筋トレになると自分に言い聞かせ、速度を上げていく。


(結衣なら、どこにいく?)


 赤信号で停まったのをこれ幸いにと、私は思考を巡らせた。


(……もしかしたら)


 今の結衣が、行く場所。

 私の思っていることが間違っていたなら……でも、行くしかない。

 信号が青になると同時に、私は立ち漕ぎでまた重いべダルを踏みつけた。

 何度だって、踏んでやる。

 その先に、結衣がいるのなら。


            ※


 河川敷に設置されているスピーカーが、警報のサイレンを鳴らしている。

 いつもならそれを家で聞いているのに、今回は、間近で聞いていた。

 剥き出しの肌に痛みが感じるほどの、横なぶりの雨と風。

 その真っただ中で私は、いつも練習に使っていた河川公園の駐車場に立っていた。

 防水使用のスマホだが、雨に濡れて、画面がよく見えない。

 それでもなんとかいつもの音声ファイルを再生させることができた。

 音量を最大にして、耳元に当てる。

 瞼を閉じれば、台風の音が消えて、代わりにあのときの大会の様子が浮かんでくる。

 柑奈と並び、私はこれまでに感じたことのないコンディションで挑んだ。

 スターターピストルが鳴って、私と柑奈は他の走者を置き去りにするほどの加速力で抜け出し、そのままぐんぐんと引き離し、二人だけの勝負に持ち込んだ。

 それまでずっと、柑奈の背中を見てきた。

 柑奈には一度も勝てず、私は柑奈に対して、全戦全敗だった。

 普通なら心が折れて、走ることすら嫌になってしまうだろう。

 だけど、私は悔しかったけど、それ以上に、いつも一緒に走ってくれる柑奈が大好きだった。

 私だけは知っている。

 柑奈はこれまで一度として、本気で走っていないということを。

 それでも柑奈は常に一番だった。

 柑奈は感情表現があまり得意じゃない。

 それでも、いつも走り終わった柑奈の表情は、どこか物足りなさそうで、一度だって満足そうな顔はしたことがなかった。

 それを見るたびに私は、自分では柑奈を満足させてあげられていないのだろうかと、不安になった。

 だから、何度だって挑んだ。

 負けても、負けても、何度だって。

 年齢を重ね、体つきも変わって、私は少しずつ、少しずつ速くなった。

 中学三年の全国では、本当に惜しいところまでいった。

 それでも、柑奈は余裕だった。

 次こそは――そう意気込んで挑んだのが、あの北信越だ。

 そこで私は間違いなく、過去最高の実力を発揮できていた。

 そしてフィニッシュの瞬間、あの柑奈がトルソーを投げ込んでいた。

 柑奈が本気で走ったのだと、私は思った。

 私に対して、本気になってくれたんだって。

 でも、その直後に柑奈は倒れて、病院に運ばれた。

 新記録を樹立させたほどの走り。

 だけど、そのせいで柑奈は、目を覚まさなくなった。

 ……私のせい?

 私が、柑奈を本気にさせたから?

 私が……私が……私如きが、前に出るべきじゃなかった。

 私はずっと、柑奈の後ろを走ってきた。

 それでよかったんだ。

 それ以上のことを望んで、柑奈に勝とうとしたから、柑奈は倒れたんだ。

 私のせいで……私のせいで……。


「ごめん……なさい……」


 会場がざわめく音に、私の手からスマホが落ち、コンクリートの地面に落ちる。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん……なさい……」


 膝をついて、水溜まりに額を押し付けて、頭を下げる。もう、誰に何を謝っているのかも分からない。

 警報のサイレンが鳴り響き、私の声すらも自分の耳に届かない。

 このまま消えてしまえばいいんだ。

 川が増水して、そうすれば、私なんてちっぽけな存在は、あっという間に流されて、海に押し出されて、そのまま藻屑になる。

 なってしまえばいい。

 私なんて、誰も……誰も……。


「――ぃ!」


 サイレンの音に混じって、何かが聞こえた。私は、顔を上げた。


「結衣っ!」


 その視界いっぱいに、水城がいた。

 膝立ちする私に、水城が正面から抱きしめてくる。


「……水城……なんで……」

「なんでって……あんな顔した結衣、放っておけるわけない!」

「でも、私、水城に、酷いこと、言って……」

「いいよ。言いたいことがあるなら、言って。私は受け止める。全部、受け止めるから。だから、もうこれ以上、ひとりで悩まないで」

「水城……」

「答えなんて出せないかもしれない。正しい道なんてないかもしれない。でも、一緒に考えることはできるから。付き合うから、私が、ずっと……」

「なんで、どうして水城は……そこまで……」

「決まってる」


 水城が、ぎゅっと、より強く私を抱きしめる。


「結衣のことが、大好きだから」


 そのひと言で、私の中で固まっていた何かが、崩れた。


「ずっと、ここで走ってたの」

「うん」

「柑奈と、走ってたの」

「うん」

「柑奈が倒れたあのときの大会の音を流して、あのときの柑奈といつも走ってたの」

「うん」

「その柑奈に勝つために、私、毎日練習して、一功さんが亡くなる前に、私のために考えてくれたメニューも毎日こなして、毎日柑奈と競走してたの」

「うん」

「少しずつ、差が縮まってるのが分かって、嬉しかった。でも、もし柑奈よりも前にゴールしたら、いつも隣で走ってくれてた柑奈がいなくなっちゃうんじゃないかって、そう思ったら……本気、出せなくて……」

「うん」

「ごめん、水城。私、本当は勝てる気がしてた。北信越の大会でも、柑奈がいたの。一緒に走って、それで、勝てそうだった。でも、そう思ったら、足が竦んで、どうしても前に出られなかった。ごめん、本当に、ごめん」


 私は水城の背中にしがみつき、その胸で泣いた。

 その声は警報のサイレンよりも大きく聞こえて、そんな私を、水城は抱きしめ続けてくれていた。

 背中を撫で、ぎゅっと身を寄せ合い、あやしてくれた。

 台風のなかで、私はちっぽけな存在だったけど、今こうして二人でいる瞬間だけは、私たちが中心だったように感じていた。

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