六章 休息
期末テストが行われた週の金曜日。
採点が終わったテストが配られていく。
その科目の授業があるたびに返却され、結果を目にする。
よりにもよって、またもや英語が最後だった。
英語以外はどれも六十点以上だったから、私としては上々だ。
でも、最大の壁にして最後の敵が待ち構えている。
先に返却されたテストを受け取った伊月さんが、机に伏す。
伊月さんの体に潰されたテストは、しかし私に点数が書かれた部分だけをさらけ出せていた。
そのテストの点数に、私は心のなかで合掌した。
苗字が吉田であるため、私は最後だ。
クラスメイトたちが返却されたテストを見せ合い、喜んだり落ち込んだりしているなかで、私はそわそわしながらその時を待ち、
「吉田さん」
「はい!」
呼ばれるなり、教卓の前まで移動し、先生がテストを差し出された。
「よくやったわ、吉田さん」
「え?」
「これで、今年の夏休みにあなたと顔を合わせることはなさそうね」
笑みを浮かべる先生に、私は受け取ったテストの点数を見た。
そして、
「よ――っしゃああああああああああああっ!」
隣の教室に届くくらいの歓喜の声を響かせた。
※
休日になり、私と水城はアミに来ていた。
駐輪場にクロスバイクとママチャリを停める。
正面入口を入ってすぐ目の前にある階段をのぼり、二階に上がる。
通路を進みながら、お目当てのものを探していると、それはすぐに見つかった。
店の中に入らずとも、通路に出ていた。
ハンガーラックがずらりと並び、そこに水着がいっぱい掛けられている。
背景には飾り付けがされていて、金網状の衝立に、浮き輪や西瓜のボール掛けられていて、『夏を楽しもう!』と丸く切り取った色紙に一文字ずつ書かれ、貼りつけられていた。
「これだけあると、逆に迷っちゃうなぁ」
とありあえずバリエーションを確認しながら、自分に合うものを探していく。
「あ……」
水城の声に、私は顔を横に向けた。
その水城は、水着ではなくて、違うものを見ていた。
それは、水着コーナーのすぐ横に設置されていた、浴衣コーナーだった。
「浴衣?」
「うん。水着とセットで買うと、それぞれ半額になるんだって」
物欲しそうに浴衣を見つめる水城に、私は背中を押してみた。
「浴衣着て、まつりでも行く?」
「う、うん。おまつり――森田まつりに行きたい」
「ああ、あれね」
森田地区において、最大の行事。
それが、森田まつりだ。
町内にも、のぼり旗がそこら中に設置されている。
森田まつりは通称で、のぼり旗にある正式名称は『鮎の里フェア』だ。
九頭竜川の河川敷で行われるまつりで、ステージでイベントもあるし、屋台の数だって、そこら祭りに負けないくらいある。
極めつけは、二日目の日曜日の夜に行われる花火大会だ。
横からではなく下から見る花火は、文字通り体で感じることができる。
間近で感じる、花火が弾けるときの音と振動。
小さい頃に味わったあの感覚は、今でも忘れられない。
「最近は行ってなかったなぁ」
「そうなの?」
「うん」
私は控えめに笑ってごまかした。
去年も、その前も、私は特別に許可をもらって、柑奈の病室から一緒に花火を見ていた。
花火は小さくて、音もずれるけど、それでも、少しでも柑奈に感じてほしかったから。
でも、今年は……。
「じゃあ、今年は一緒に、行かない?」
まるで一世一代の告白をするような、そんな仕草をする水城に、
「……いいよ」
そう言うと、水城は嬉しさよりも安堵が先に来たのか、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「そうと決まれば、水着と浴衣、選ぶよ」
「うん」
私は水着を、水城は浴衣を、それぞれ物色し始めた。
※
終業式当日。
「明日、どうする?」
終業式とホームルームが終わると、私は廊下で水城を待ち、合流してから下駄箱に向かった。
「それなんだけど、うちのお母さんが送ってくれるって」
「結衣のお母さんが?」
「うん。車で」
「いいの?」
「実は、水着と浴衣を買うお金、お母さんが出してくれたんだ。赤点とらなかった記念にって。で、芝政ワールド行く話ししたら、お母さんの方から送ってあげるって言ってくれて。ついでにプールの料金も払ってくれるって。しかも、水城の分まで」
「そ、それはダメ、だよ」
「いやいや。うちのお母さん、水城のことかなり気にいってるらしくて、テスト勉強するために来てくれたでしょ? あれが刺さったらしくて、是非、お礼をさせてほしいって」
「いいのかな……」
「うちのお母さん、言いだしたら聞かないからね。むしろ喜んで受け取ってほしいかな」
「……じゃあ、お言葉に、甘えるね」
「うん、そうして」
下駄箱で内ズックからローファーに履き替え、外に出る。
「あっつ~い」
「明日はもっと気温が上がるらしい」
水城がスマホを手に、そんな情報を口にする。
「マジかぁ~。でも、中途半端に曇ったり、雨降ったりするよりも、いっそのこと肌が真っ赤になるくらいに晴れてほしいよね」
「……それは、痛いから……ほどほどに……」
期待の眼差しを晴天に向ける私と、懇願するような眼差しを晴天に向ける水城。
二人のどっちの願いをお天道様が叶えてくれるのかは、明日になれば分かる。
※
翌日の空は、私の願いを叶えてくれたかのように、雲ひとつない青空だった。
水城の家を知らないため、水城には自宅まで来てもらうことになっていた。
母親に「水城は絶対に時間厳守で来るから」と言うと、五分前に車に乗り、エンジンをかけてエアコンをかけていた。
その直後、外で待っていた私の視界に、ママチャリを漕ぐ水城が入ってきた。
「本当に時間厳守で来たわね」
窓を開けた母親の声に、私は心のなかで頷いた。
「ま、待たせちゃった?」
私が外で、母親が車に乗っているのを見た水城が、おろおろしだす。
「違う違う。水城を出迎えるために、早く外に出てただけ。さっ、乗って」
「う、うん」
後部座席のドアを開け、水城を促す。
「シートベルトはオッケー?」
バックミラー越しに、母親の視線が私と水城に向けられる。
「オッケー!」
「大丈夫です」
「それじゃあ、しゅっぱ~つ!」
元気のいい母親の合図とは逆に、車がゆっくりと駐車場を出る。
「あ、あの、今日は、よろしくお願いします」
車を走らせてすぐ、水城がバックミラーに映る母親に向かって会釈する。
「水城ちゃんね。こちらこそ、結衣ちゃんがお世話になってるそうで」
「い、いえ、私が、好きでやってること、なので……」
「ホントいい子ねぇ。私のむす――」
「娘にほしいなんて言ったら、私が娘をやめるから」
「――めに欲しいくらいだわ」
「最後まで言うんかい……」
「は、はは……」
くだらない親子の会話に、さすがの水城も苦笑するしかなかった様子で、
「あの、今日は、本当に、いいんですか?」
「お金のことは心配しないで。二人で気にせず、めいっぱい楽しみなさい」
その口調はまるで、本当に水城を娘のように思っているようで、私は嫉妬とかそんな感情を抱くことはなく、むしろ水城を受け入れてくれていることが嬉しかった。
「赤点とって、三者面談で恥ずかしい思いをするくらいなら、安いものよ」
そして、いちいちひと言多い、我が母親なのであった。
※
芝政ワールドには、さまざまなプールがある。
大人から子どもまで入れる、深さの違うプール。
滑り台のようなスライダー。
流れるプールに、波の出るプール。
曲がりくねったチューブ型のスライダー。
それだけでも十分に楽しめるだろうが、ここにはまだあるのだ。
大きな浮き輪に二人から四人までが乗って滑る、巨大なラッパのようなスライダーに、そそり立つ絶壁のように急上昇と急降下をするスライダーもある。
また、プールエリア内には休憩スペースがあって、テントやパラソルが立てられており、芝生も広がっている。
「なるほど」
水着に着替え終えた私は、水城曰く「お花を摘みに行ってくる」という言葉を受け、先に更衣室から出ていた。
そして、出ですぐ目の前にあった案内図を見ていたのだった。
「結衣」
その声に、私は振り返り、目を見開いた。
長く、それでいて逞しい脚。
決して平坦ではない、女性らしさを感じさせる胸の膨らみ。
日焼けとは無縁を思わせる、白い肌。
そして、それと対比するような、黒いビキニの水着。
水着の縁にはフリルがあしらわれていて、煽情的でありながも可愛らしさも感じさせる。
もし私が男だったなら、いや――これはもう男女関係なく、見惚れてしまうわ。
「お、お待たせ」
いやいや、やっぱり私が男で、しかもこのシチュエーションが彼女を待つ彼氏だったなら、もう……まわりに自慢せずにはいられまい。
「ゆ、結衣……?」
水城から見れば茫然と、しかし自分からすれば見惚れていたために硬直していた私に、水城が不安げな表情を見せる。
「もしかして、に、似合って、ない?」
内股になって、背中を丸めて、腕で胸を隠すその仕草。
いやいやいや、これはもう触れちゃいけない存在だろう。
「う、ううん、そんなことない。すっごく似合ってる。もう、なんて言うか、うん、そのままで」
「そ、そう? ありがと……」
そのポーズのまま、白い頬を赤く染め、嬉しそうな表情をする水城に、私は完膚なきまでに打ちのめされた。
「結衣も、似合ってる」
その言葉に、夢から覚め、私は現実と向き合うことになった。
視線を下に、自分の水着を見やる。
水城がお揃いがいいと言うので、ポニーテールにしている白いリボンを合わせて、私は白基調の水着にしていた。
フリルもついていて、私の方は淡い水色の水玉模様がちりばめられている。
私は身長が女子の平均よりも少し下だ。
水城と並ぶと、まるで大学生と中学生のようだ。
そして、胸の成長もまた、平均(があるのかどうかは知らないが!)以下なのだ。
アスリートとして、年頃の女として、どっちをとるべきか。
これは恐らく、永遠のテーマとなるだろう。
悔しくない。
悲しくなんてない。
私は今、ひとりのアスリートとして、走ることに全力を尽くす。
そのためならば、この胸の膨らみのなさだって、利点として捉えてやる。
私が、水城よりも勝っている点として……あれ、なんでだろう、涙が――
「よしっ! 今日はめいっぱい遊ぶぞー!」
「結衣……今、泣いて――」
「ない!」
水城の手をとり、私は走り出した。
※
最初は水に慣れるため、流れるプールに入った。
私は泳げないから浮き輪を借りると、水城も浮き輪を借りていた。
「私、泳いだことない」
その台詞には私も度肝を抜かれた。
泳いだ経験がないのに、プールに誘うとは。
水城の外見で浮き輪をかぶる様は、シュールだった。
だからといって、私ならお似合いだとか、そういう意味ではない。
流れるプールに入ると、水城は流されるままになり、怖がっていた。
「ゆ、結衣、助け――」
「そんな慌てないの。流れるプールなんだから、流れに身を任せなさい」
水城の浮き輪を掴み、一緒に流されていく。
何もしなくても景色がかわり、兄弟姉妹、親子、カップルたちが楽しそうに遊ぶ風景を見ながら、私たちも傍から見たら、友達同士に見えているのだろうかと思った。
ときどき、男の視線が気になるが、これは水城に向けられているもの。
当の本人は浮き輪に必死に掴まってそれどころではないが。これは目を離すわけにはいかないな、と私は思うのだった。
流れるプールを何周かすると、今度は波の出るプールに向かった。
水城は腰に浮き輪をはめたまま移動しており、思わず笑ってしまった。
「これはとりあえず外して、っと」
水城の浮き輪を下ろし、手を取って引っ張る。
「ま、待って、結衣!」
「大丈夫、怖くないから」
後ろを向きながら、私が先に入っていく。
波の出るプールは、海のように斜面になっており、少しずつ深みに入っていくようになっている。
水城も最初は怖がっていたけど、足首をくすぐる波に、少しずつ前へと進んでいった。
それでも、膝より深くなると、そこで足を止めた。
「ほらほら、もっともっと行くよ」
「も、もうこれ以上は、む、無理……」
「え~怖いの? 水城は臆病だなぁ」
煽りながら、私は後ろ向きに深みへと入っていった。
太もも、お尻、背中と少しずつ沈んでいく私を見て、水城が手を伸ばそうとする。
「ゆ――」
「どわぁ!」
そんな私の背中に、ひときわ大きな波がぶつかった。
私はそれを見ていなかったために完全な不意打ちとなり、そのまま押し戻されると、目の前にいた水城と抱きつくような形で倒れた。
「きゃっ!」
水城が尻餅をつき、水飛沫を上げる。
「ご、ごめんごめん」
水城がクッション代わりになってくれたおかげで、私は顔を打たずに済んだ。
「立てる?」
手を差し伸ばす。
水城が私の手を掴むと、そのまま一緒に立ちあがった。
立ち上がってすぐ水城が胸を隠すように、そっぽを向く。
その行為で私は、自分の頬に触れた感触を思い出した。
水着越しだったけど、確かに感じた。
だけど、私はそれを必死に振り払うと、なんでもない風を装って、
「次、行こっ!」
自分も顔が赤くなっているのを悟られないよう、水城をまた引っ張るのだった。
プールに慣れてきた水城を、今度はウォータースライダーに誘った。
白と黒、赤の三本のチューブが、絡み合うようにうねりながら地上のプールまで続いている。
私は白、水城が黒のチューブに入口に並ぶ。
「グッドラック!」
そう言い残し、私は先に飛び込んだ。
水の流れに乗って、スライダーを滑る。
左、右と揺られるのが楽しくて、私はチューブのなかで叫び、出口が見えた瞬間、明るい太陽に出迎えられながらプールへと着水した。
「――ぷはぁ!」
プールから顔を出し、そのまま黒いチューブの出口へと向かう。
「……」
なかなか水城が排出されてこず、私は遠くから覗き込むようにして黒いチューブの正面へと移動し、
「――ぁぁぁぁぁぁ」
声が聞こえてきたかと思うと、
「ああああああああああああっ!」
ぽんっ、とまるで胎児のように体を丸めた水城が飛び出してきた。
絶叫と共に。
「ちょっ――!」
頭は反応できているのに、プールに入っているためにすぐに動けず、水城の尻がまるでスローモーションのように迫りくるのを、私はただ見ていることしかできなかった。
「最後にあれ、乗ろう!」
「嫌」
即答された。
私が指さす先にあるのは、青と黄のストライプ模様が目を惹く、円錐型の巨大なスライダーだった。
大きな浮き輪に複数人で向き合うようにして乗るタイプのやつだ。
「思い出、思い出!」
水城の手をとり、強引に引っ張ろうとしたが、
「ヤダヤダヤダ!」
あろうことか水城はしゃがみ込み、そのまま地面に座り込んだ。
お互いに手を繋いだまま、私は半分引っ張られたような形で中腰になる。
「はぁ……分かったよ」
私はそのまましゃがみ込み、水城と視線の高さを合わせた。
「そろそろお昼だし、少し早いけど、ご飯食べよっか」
「……うん」
一緒に立ち上がり、手は繋いだまま、私たちは並んで歩いた。
それからフードコートでお昼にして、私たちは午後には帰路に着いていた。
母親に事前に連絡すると、近くでぶらぶらしていたらしく、すぐに迎えに来てくれた。
※
心地よく疲れた体に、お昼を食べたこともあり、クーラーの効いた車内は眠気を誘うには絶好の環境なのだろう。
「……」
「……」
静かに運転しながら、チラッとバックミラーを見る。
最初は喋っていた二人も、いつの間にか眠りについていた。
赤信号で車を停め、肩越しに振り返る。
「ふふっ」
その光景に、思わず微笑んでしまう。
お互いがお互いを求めるように、かすかに指が触れ合っていた。
※
「はぁ~、楽しかった」
家に到着すると同時に目を覚ました私は、車を降りると、うんと伸びをした。
反対から下りた水城が、母親にお礼を言っている。
母親は「いいのよ」と手を振り、先に家に戻っていった。
「来週は森田まつりかぁ……いいのかな、私たち……」
「何が?」
首を傾げる水城に、私は少しだけ申し訳ない気持ちになっていた。
「だって、三週間後にはさ、インターハイなわけで……気ぃ緩んでないかなって」
「でも、やるべきことはやってる。立花コーチの指導通りにやれば、勝てる」
「勝てる……か」
頭に思い浮かぶのは、柑奈。
「ねぇ、結衣」
「ん?」
「最後に行きたいところがあるの」
「まだあるの? 水城は欲張りだねぇ。いいよ、言ってみて」
私は、自分でも驚くほど、水城と仲良くなっていると思う。
だけど、私はまだ、水城のことを知らない。
知り合いだったことすら、忘れてしまっている。
水城がどんなことを考えて、どう生きているのか。
「私は……」
荷物の入ったカバンを持つ水城の手が、ぎゅっと握られる。
「柑奈さんに、会いに行きたい」
「……え?」
風が吹いた。
不穏な、風。
朝は雲ひとつなかった青空の向こうから、暗い影が流れてくる。
朝のニュースで言っていた。
台風が、来ると。
でも、私にはこれが、嵐のように思えてならなかった。
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