四章 夢

 翌日。

 病院に行って柑奈のお見舞いを終えると、私は三島さんから理学療法士の教本を借りるため、ジムに顔を出した。

 歩きながら辺りを見渡すも、三島さんの姿は見えない。

 とりあえず、いつも通りに筋トレでもしようかと思ったところで、


「あの」


 と声をかけられた私は、反射的に振り返った。


(あれ、この子……)


 見覚えのある子だった。

 見た目は中学生くらいだろうか。

 淡い青色のパジャマ姿で、耳の下あたりで髪を二つに結っている。

 少女は車椅子に乗っていた。


「私?」

「はい」


 自分の胸に手を当てて見せると、少女はこくりと頷いて見せた。


「手伝って、もらえませんか?」


 そう言って少女が向いた先には、リハビリ用の平行棒があった。


「でも、私、ここの職員じゃないから」


 よくは知らないが、こういったことは資格を持った人じゃないとダメだったような気がする。


「立つのを手伝ってもらうだけでいいんです。お願いします」


 言葉は控えめだが、そう言いながらも両手を差し出してくるあたり、少し強引な子なのかもしれない。

 私は辺りを見渡し、他に職員がいなか探したが、なぜか今日にかぎってひとりも見当たらなかった。

 逆に言えば、手伝ってそれが仮にダメなことだったとしても、見られていないのだからお咎めなしと言うことになる。


「はぁ、分かったよ」


 観念しましたと言うように両手を挙げて見せると、少女は嬉しそう――というよりも勝ち誇るような表情を浮かべた。


「じゃあ、いくよ」

「はい」


 少女が伸ばす手の間に顔を入れ、そのまま正面から抱きつくように密着させる。

 そして、少女の背中で両腕を組み、少女が私の首の後ろに両腕を絡ませるのを確認すると、土に埋まった野菜を引き抜く要領で少女を立ち上がらせた。

 上に持ち上げるのではなく、引っこ抜く。

 これで持ち上げる側の負担がかなり減る。

 ちょっとした、インターネットからの知恵だ。

 実践するのは初めてだったけど、こうやって簡単に立ち上がらせることができたということは、ネットの情報もあながち間違いではないということだ。

 そのまま後ろに歩き、平行棒の間を通ると、少女の両手が平行棒に伸びるのを見て、


「いい?」

「はい」


 ゆっくりと力を抜き、少しずつ少女自身に体重を移し、最後には離れた。

 そのまま後ろに歩き、平行棒の間から出る。

 本当なら、役目を終えた私はそのまま立ち去ってもよかった。

 だけど、気がつくと私は少女のリハビリを見守っていた。

 平行棒の終点で、少女が来るのを待つように。


「ん……く……ぅ……ぁ」


 少女が小さく呻きながら、必死に進む。

 だけどその速度は、あまりにも遅かった。

 横に亀を歩かせたら、そっちの方が速いんじゃなかと思うほどに。

 リハビリの過酷さ。

 普通を取り戻すための、苦行。

 ぎゅっと拳を握りしめ、頑張れと心の中で叫ぶ。

 少女の足が少し前に出て、平行棒をなぞる様にして少しだけ手が前に出る。

 その繰り返し。

 少しずつ、少しずつ、少女が前進する。

 少しずつ、少しずつ、距離が近づいてくる。

 ようやく半分を過ぎ、そこで少女の動きが止まる。

 まるで全力疾走したかのように息を荒くして、だけどそれは息が苦しいからではなく、全身を貫く苦痛からくるものだと、私は少女の痛みに満ちた表情で悟った。

 なんで、どうして私が――そんな少女の心の叫びが聞こえるようで、私は胸が痛んだ。

 ここでこうして立っているだけの自分。

 立っていることができる、自分。

 変わってあげたいと思うのは、傲慢か、無知か。

 私はただ、ここに立って、少女を見守ることしかできない。

 だったらせめて、それを全うしよう。


「あっ――」


 少女の手が平行棒からすっぽ抜けた。

 滑らせたのか、それとも力尽きたのか。

 少女は受け身もとれぬまま、体を床のマットに叩きつけた。


「大丈夫?」


 そんなわけがないのに、そんな言葉しかかけることができない。

 少女の支え、体を起こすのを手伝う。


「う……う……」


 痛みに対する呻きかと思った。

 だけど、違った。

 顔を上げた少女は、泣いていた。痛いから? 

 それもあるだろう。

 だけど少女の泣き顔は、痛いからではなく、悔しいから泣いているんだと、そう語っていた。

 壁際にあるベンチに少女を座らせると、私は落ち着くまで傍にいた。


「あの、ごめんなさい」

「ん? なにが?」

「こんなことに付き合わせてしまって……」

「気にしてないよ」


 落ち込む少女に、私は笑顔を見せた。


「あとちょっとだったね」

「いえ。いつものことです」


 それは、少女があの平行棒を最後まで歩いたことがないということ。


「それよりも、お姉さんも?」


 『も』の意味に気づいた私は、「ううん」と首を振り、


「私はこれ」


 袖をまくって力こぶをつくってみせる。


「筋トレしてるの」

「なんのために?」

「それはもちろん勝つためだよ」


 少女が首を傾げる。


「ごめんごめん。私、春江高校で陸上部に入ってて、そこで百メートルを走ってるの。そのための筋トレってわけ」

「走るのに筋トレするんですか?」

「もちろん。走る練習もするけど、それと同じくらい、筋トレは大事だから」

「じゃあ、お姉さんもムキムキになるんですか?」

「あははっ、ならないよ。ボディービルダーみたいな筋肉は、筋肉を肥大化させることを第一に考えてるから、私たちアスリートとは目的が違うんだよ。それでも、これくらいにはなるよ」


 そう言って私は、半ズボンをめくりあげ、太ももを見せた。


「それでも十分すごいです」


 まじまじと見られると恥ずかしいものがある。

 私はすぐにズボンを戻して太ももを隠した。


「お姉さんは、すごいです」

「あなたも」

「私なんて……」


 少女が自分の太ももに触れ、そっと擦る。


「私、今年の春に自転車通学中に車に撥ねられて、脚を怪我したんです。手術も必要で、それは成功して、今はこうして元通りにもなりました。でも、脚が全然、思うように動かなくて……自分の脚なのに、そうじゃない気がして、それが怖くて……」


 少女が顔を伏せ、涙を堪えるように声を震わせる。


「お医者さんも、リハビリをすれば歩けるようになるって、言ってくれました。でも……やってもやっても、全然よくならなくて、もうこれ以上は、痛くて歩けなくて……それで……」


 少女の背中を、そっと撫でる。痛みに耐えるなんて、並大抵のことじゃない。

 ましてや、それでもやらないと歩けるようにならないなんて言われたら、プレッシャーにもなるはずだ。

 子どもには、重すぎる。

 それでも、言ってあげなくちゃいけない。

 ここで同情すれば、お互いに楽かもしれない。

 だけど私は、私の意志で、それを私に許さない。

 だって私は、努力することの意味を、その価値を……知っているから。


「コンマ一秒」

「……え?」


 思わずといった風に、少女が顔を上げる。


「私は小さい頃からずっと走ってた。中学に上がって陸上部に入って、トレーニングをして、ちゃんとした食事もして、睡眠だって決められた時間は必ずとるようにした。それをただひたすらに続けてきた。ちゃんとしたトレーニングを始めてから、今年で六年目になるのかな。それだけ毎日やって、いざ本番で走って、誰よりも速く走る。でも負けて二着になって、一着とのタイム差がコンマ一秒だったら、どうする?」


 少女の見つめると、すぐに返事がきた。


「く、悔しいです。悔しいに、決まってます」


「そう。悔しいよね。だから、続けるの。そのコンマ一秒を縮めるために。自分を鍛えて、鍛えて、鍛えて、その先に、自分が一番になる姿を夢見て」

「辛くないんですか?」

「辛いよ」


 私は即答した。

 少女はもしかしたら、同情してほしかったのかもしれない。

 頑張ってね、と優しい言葉をかけてほしかったのかもしれない。

 だけど、私にはできない。

 それは、足を止めることと同義だから。


「でも、何かを得るためには、そういったことが必要なんだよ。楽に手に入るものなんてない。手に入れたいなら、どんなに苦しくても、前に進むの。一歩でもいい。最初からゴールを目指そうとしなくてもいい。今日は一歩。明日は、それよりも先の一歩。そうやって、少しずつ目標を伸ばしていくの。そうすれば、今日はやれた。明日になれば、またやれた――そうやって、毎日達成していく。昨日の自分よりも、一歩進んだ自分を褒めてあげる」

「そうすれば、いつかゴールできますか?」

「あきらめなければ、ね」


 ぎこちないウィンクをして見せると、少女の表情に笑顔が戻った。


「ありがとうございます、お姉さん。私、もう少しだけ頑張ってみます」

「うん。絶対に歩けるようになるから」


 そうして二人して笑い合った。


「あの、お姉さんの名前、教えてもらってもいいですか?」

「私は吉田結衣。春江高校三年。よろしくね」

「私は一ノ瀬薫です。森田中学校の二年生です」


 示し合わせたわけでもなく、お互いに差し出して手で握手をする。


「あの、結衣さんって呼んでもいいですか?」

「じゃあ、私は薫ちゃんて呼ぶね」

「はい。結衣さん」

「薫ちゃん」

「ふふふ」

「あはは」


 手を握り合ったまま、二人して声を上げて笑い合った。

 その後、薫ちゃんと別れて三島さんを探したけど、何か用事があったのか、その日は見つからなかった。

 私はひとり筋トレを行い、いつもより少しだけ遅れて家に帰った。


            ※


「ん……」


 スマホのアラーム音に、私は目を覚ました。

 体を起こしてカーテンを開く。

 早い時間帯で決まった時間に起きていると、季節で太陽の高さや空の明るさが違うことに気づく。

 これが冬になると、まだ薄暗いのだから。

 顔を洗って朝ご飯を食べて、顔を洗って歯磨きして、部屋で制服に着替える。

 鏡に映るセーラー服の自分。

 五月に入ると、長袖が暑く感じることがある。


(早く衣替えにならないかなぁ)


 私は、夏服のセーラー服が好きだ。

 生地も薄くなって、胸元のスカーフも赤に変わる。

 何よりも動きやすい。

 あと一ヶ月の辛抱。

 私は鏡に映る吉田結衣にそう言い聞かせると、リュックを担いで家を出た。


            ※


「なんであんたがいるのよ」


 家を出るなり、私はげんなりとした。家の前の道に、ママチャリを傍らに水城が立っていた。

 いや、待ち伏せしていたと言うべきか。


「一緒に登校……したい、から」

「そうじゃなくて。どうして私の家を知っているのですか、神様!」


 わざとらしく天を仰ぎ、青空へと訴える。だけど返ってきたのは、水城の口からだった。


「結衣の家は知ってる、から」

「あ……」


 私は水城のことを知らないだけど、水城は私のことを知っている。

 それが、私の家の場所を知っている理由。

 だとすれば、水城は昔、ここにいた――どころか、私の家を知るような仲だったということになる。


「じゃあ、行こっか」


 水城がママチャリを引いて歩き出す。


「ん……あ、ああ……」


 半ば強引に一緒に登校させられている気がしたが、私はクロスバイクを取ってくると、すぐに水城を追いかけた。

 そして、これみよがしに抜いて見せたのだった。


            ※


 ホームルームで中間テストと期末テストに関する話をした担任が教室を出て行く。


「おっ、忠犬ちゃん」


 そう言って伊月さんが、顎で開かれたドアの先の廊下を指す。


「忠犬ちゃんって……」


 思わず笑ってしまったが、実に言い得て妙だ。

 私はゆっくりと立ち上がり、教室から出るためにリュックを担ぎ、歩き出した。

 ドアの向こう――その廊下に佇む水城。

 決して自分からは教室に入って声をかけてきたりはしない。

 廊下で待つその姿は、まるで主人の帰りを待つ犬のようで、


「行こっか」

「うん」


 廊下に出て声をかけると、水城はどこか嬉しそうに頷き、私の後ろをついて歩くのだった。


            ※


 部活動が始まり、水城とウォームアップをする。

 ストレッチをしているように見えるが、そうではない。

 最近では、あまりに無理に筋肉を伸ばしすぎるのはよくないと言われているため、走ったりせず、その場で筋肉をほぐして温める動きをするようになっている。


「県体まで、あと二週間」


 ぽつりと水城が呟く。


「そう言えば……」

「忘れてた?」

「まさか」


 すっかり忘れていた。


「まぁ、県体なんて目じゃないから。目標はインターハイ優勝。北信越だって、私にとっては通過点に過ぎないの」

「自信満々」

「当たり前」


 陸上競技において、インターハイに出場するまでには二つの壁がある。

 最初に五月の下旬に行われる、福井県内での代表を決める春季高校総体。

 次に六月の中旬に行われる、北信越代表を決める北信越高校総体陸上。

 そして、その二つの壁を越えた先にあるのが、八月の頭に行われる全国高校総体陸上――インターハイだ。


「そういえば、今年の北信越大会はどこで開催されるの?」

「今年は長野」

「長野かぁ……」

「ちなみに、今年のインターハイは福井」

「ん? え? ここ?」


 思わず地面を指さす私に、


「うん、ここ」


 と水城が頷いて見せる。


「場所は県体と同じ――福井県営陸上競技場」

「あそこか……」


 三年前、男子百メートル競走で日本新記録が出た。

 その場所が、福井県営陸上競技場。その記録を記念し、県は競技場に『9.98スタジアム』の愛称をつけた。

 だけど私にとって、この競技場は因縁の場でもあった。

 柑奈が高校女子百メートル競走で新記録を樹立した場であり、そして、


(柑奈が……倒れた場所……)

 

 11.40


 柑奈が築き上げた難攻不落の壁。

 すぐ目の前に見えているのに、越えることができない巨大な壁。

 それを越えるために、こうして部活に勤しんでいるのだ。

 ウォームアップを終えると、杏子さんの反復トレーニングを行っていく。

 最初はすべての種目を全員でこなしていたけど、ひと月経つと、杏子さんはそれぞれに用紙を渡し、そこに書いてある反復トレーニングを行うように指示してきた。

 どうやらこのひと月の間で行っていた競走で、ひとりひとりの得意、不得意を見極め、得意を伸ばし、不得意を少しでも埋めるためのメニューを考案していたようだ。

 私は、自分で自分のことを理解している。

 それは、一功さんの教えによるものだった。

 ただ走るのではなく、どうしたら速く走れるのかを考えて走れ。

 考えろ――それが一功さんの口癖だった。

 その教えは私の頭に深く浸透していて、私は走るたびに、自分の走りを分析していた。

 良かったところ、悪かったところ、どうすればいいのか、こうしてみよう、やっぱりダメだった、これは良い感触だ――そうやって、コンマ一秒を縮めるために考えるのだ。

 そんな私でも、伸びしろに悩んでいるところはある。

 そして、私用のメニューには、まさにそれを伸ばすための内容が書かれていた。


(やっぱり、杏子さんはすごい)


 メニュー表を見るふりをしながら、ひとりひとりの下へ行き、内容についての説明をしている杏子さんを見やり、改めてその偉大さを実感するのだった。


            ※


 県体前日の放課後。

 私は柑奈に明日のことを報告した。


「明日、県体なんだ」


 布団をまくり、足裏のマッサージを行う。


「久しぶりの大会で大丈夫かって? よゆーですよ、よゆー」


 そう言って笑って見せる。だけど、柑奈に反応はない。


「柑奈以外の誰にも負けるつもりはない」


 そっと柑奈の足をベッドにおろし、私は頭を下げた。

 まるで、祈るように。

 その額を小突かれる。

 柑奈の足の指だ。

 その指先を額に当てたまま、結衣はただ静かに瞼を閉じた。


「また、一緒に走りたい」


 声に、涙がにじむ。


「走りたいよ……柑奈ぁ……」


 どうしたら柑奈は目を覚ましてくれる?

 毎日ここに来て、声をかけ、足に触れ、だけどそれ以上はもう何もしてあげられることがなくて、それでも目覚めないのなら、どうすれば……。


「柑奈は、私と走りたくないの? だから、眠ったままなの? 柑奈が目を覚まさないと、私、ひとりでインターハイに行っちゃうから。……ううん、ごめん。ひとりじゃイヤ。柑奈と……一緒じゃなきゃ……他の誰も……」


 そのとき、脳裏に浮かんだ顔。


「――ッ!」


 なんで、私は今、水城の顔を浮かべたのだろうか。


「……」


 頭を上げ、眠る柑奈の顔を見つめる。

 柑奈は動くこともなく、ただ眠っている。

 だけど、水城は挑んでくる。

 杏子さんの指導の下、水城は私や柑奈にも匹敵するほどの実力を身につけている。

 水城だって間違いなくインターハイに出るだろう。

 何せ、去年の優勝者なのだ。

 その水城真菜が、私と走るために転校してきた。


(私と……走る、ために……)


 私が柑奈と走ることを望むように、水城は私と走ることを望んでいる。

 転校してまでと、私は驚いていた。

 だけど、立場を変えてみて、もし私だったらと想像すると、柑奈と走るためなら転校だってしようと思えてしまっていた。

 柑奈が残した、巨大な壁――11.40という難攻不落の壁に、ずっと挑んでいた。

 だけど、いま挑むべきなのは、水城の方なのではないか。


(それでも、私は……)


 柑奈と走りたい。

 そう、思ってしまうのだ。

 立ち上がり、リュックを担ぎ、柑奈を見やる。


「じゃあ……勝ってくるね」


 そう呟き、私は病室を後にした。


            ※


 翌日。

 私と水城は決勝まで進んだ。

 私は一位で、水城は二位だった。

 北信越大会の切符を手に入れた私たちだった――けれども、私も水城も、お互いが本気で走っているとは思っていなかった。

 まだ、私たちは最高のコンディションではなく、ここは最高の舞台でもない。

 水城の言った最高の舞台――インターハイまでに、心身共に最高の状態にまで高める。

 だけど、そんな私の前に、最大の壁が立ち塞がることを、このときの私はまだ知らないでいた。

 それは、北信越で勝つことよりも難関で、私は心が折れかけた。

 だけど、私には支えてくれる人がいた。

 その私の隣にいたのは―― 


            ※


 六月に入り、衣替えの季節がやってきた。

 私は鼻歌でもうたってしまいそうなほどにウキウキとした気分で夏用のセーラー服に着替えていた。

 手に持っただけで、その軽さが分かる。

 冬服と違ってパリッとした半袖の白いセーラーに、赤いスカーフが生える。

 スカートの生地も薄く、姿見の前でくるりと回って見せると、スカートがふわっと広がり、ゆっくりとしぼんでいく。

 それと一緒に、白いリボンで結んだポニーテールが頬をくすぐってきた。

 膝下の黒ソックスが、鍛えられた脹脛をほどよく圧着する。

 リュックを担ぎ、私は外に出た。日差しも暖かいが、それよりも湿度の高さにげんなりしてしまう。


「結衣」


 いつものように、水城がママチャリを横に待っていた。


「おはよー水城」

「おはよう」


 私は待ち合わせをして一緒に登校しようとも、待っていてくれとも頼んでいない。

 水城が勝手に待っているだけだ。

 それでも、無視することはできなかった。

 認めたくはないけど、私の中で、水城の存在は日に日に大きくなっている。

 私の登校についてきて、私の隣で勝手にお昼の弁当を食べて、同じ部活に出る。

 それの繰り返し。

 だけど、それが少しずつ少しずつ積み重なって、水城の存在が私の視界に入り込み、無視できなくなっていく。

 一度、水城が遅れてきたときがあって、家を出て水城の姿がなかったのを見た私が思ったのは、不安だった。

 もしかしたら、どこかで事故でも?

 だけど、すぐに姿を見せた水城は、むしろ謝ってきたのだ。

 そのときの私は、別に、とぶっきらぼうに振る舞ってしまったけど、安心していた。そのときからだろう。

 もう、私にとって、水城はただの転校生ではなくなったのだと。

クロスバイクを運んで水城の隣に並ぶと、私はその立ち姿をつま先から頭の先まで観察した。


「なに?」


 水城が首を傾げて見せる。


「ん、いや、夏服、似合ってるなぁって思っただけ」


 水城は身長が高いから、セーラー服がカッコよく見える。

 その点、私は身長が平均だから、中学生が背伸びしているように見える。

 私が周りから高校生と思われているのは、スカートを膝上まで上げているから。

 中学のときのセーラー服では、スカートは膝下まで下ろし、白の靴下を踝の上あたりまで下ろしていた。

 水城はスカートを上げる必要もなく、膝上になっているのだから、その脚の長さが羨ましい。


「そんなことない。結衣の方が……に、似合ってる」

「ホントに?」


 そう言ってくるりと回って見せる。


「これが?」

「うん。か、かわいい」

「かわいい? 私が? ないない」


 顔の前で手をぶんぶんと振って見せると、


「そんなことない。結衣は、かわいい……背も、高くないし……」

「なるほど……ありがと。お世辞でも嬉しいよ」

「うん」


 否定しても水城は頑なに否定しそうだと思ったから、私は早々に水城のお世辞を受け取って話を終わらせた。

 何度もかわいいと言われては心が持たない。

 私はかわいくなんてない。

 化粧だってしないし、服だってもう何年も新しいのを買っていない。

 自分を磨きたいとか、きれいに見せたいとか、そんな気持ちが微塵もない。

 まぁ、日焼け止めだけは欠かさず行っているが、それも体のコンディションを保つため。

 そういえば、と私は水城の剥き出しになった腕を見た。


「水城の肌、白いねぇ」


 手を掴み、自分の腕と並べて見せる。


「ほら、私も日焼け止め塗ってるけど、こうやって比べてみると、とほほだよ」

「でも、私は日に焼けると赤くなって、すごく痛い」

「色白には、色白の苦労がある、と」

「うん」

「隣の芝は青い、だっけ? お互い、ないものねだりだね」


 そう言って笑って見せると、水城も笑ってくれた。

 それから私たちは一緒に登校した。


            ※


 ホームルームで、進路調査票が配られた。


「う~ん、どうしよっかなぁ」


 伊月さんの背中が唸っている。

 担任が、親御さんと相談して週末までに提出するようにと言って教室を出て行く。

 私は、第三希望までどころか、第一希望すら浮かばず、そこで初めて、まったく進路のことなど考えていなかったことに気づいた。


「あっ、忠犬ちゃん」


 伊月さんのその声に、私はハッとし、廊下を見た。

 相変わらず、水城がそこに立っていた。

 最初は珍しがっていたクラスメイトも、今は日常と化し、気にせず通り過ぎていく。

 転校してきた当初は、その見た目やどこか近寄りがたい雰囲気のせいで、距離を置かれていた。

 しかし、こうやって毎日まいにち私を待つ姿や、伊月さんの忠犬ちゃんというあだ名がクラス内でじわりと浸透したせいか、はたまたおかげか、教室から出るクラスメイトたちは、通り過ぎざまに手を振っては「さよなら」とか「部活がんばってね」とか声をかけるようになっていた。

 そうなると、今度は逆に水城が委縮するようになり、声をかけられる度に首を縮めては小さな声で「さよなら」とか「うん」とか律儀に返事をするようになった。

 そしてそれがクラスメイトの、特に女子の琴線に触れたのか、今では水城は私を待つ初々しいカップルのように、生暖かい目で見守られるマスコットとなっていた。


「待つ必要ないって言ってるのに」

「そう言いながらも、心の中では毎日私を待ってくれているその姿に、安堵を覚えずにはいられないのであった」

「心の声を捏造すな!」


 立ち上がって廊下へ出る道中で伊月さんの頭を叩き、廊下に出たところで別れる。


「じゃ、また明日。ちゅ――水城さんもバイバイ」

「ば、ばいばい」


 大きく手を振りながら廊下を走っていく伊月さんに、水城が胸あたりで小さく手を振る。


「水城――あんた、人に話かけられたりするの、苦手なんじゃないの?」

「得意、ではない」

「じゃあ、先に部活行ってなよ。あんた、結構クラス内で話題になってるんだから」

「そう、なの?」

「からかわれたりしない?」

「ううん。むしろ、応援されてる」

「あいつら……」


 水城はきっと、陸上のことを応援されていると思っているのだろう。

 だけど、私には分かる。

 クラスメイトの女子たちが、私たちの関係を面白がっていることを。

 勿論、悪い意味ではない。

 伊月さんのように、何だか見守られている気がするのだ。

 悪い気はしないが、だからと言って気持ちいいものでもない。


「そういえば」


 私は手に持ったままの進路調査票の紙を水城に見せた。


「水城は進路、決めてるの?」

「うん」


 間を置かず頷く水城に、私は興味が湧いた。


「へぇ。なに? 就職は……ないか。だったら進学?」

「オリンピック」

「……へ?」


 思わず足を止め、指から進路調査票の紙がすべり落ちる。

 遅れて振り返った水城が、紙を拾い、手渡してきた。

 紙に書かれた、進学と就職の文字。

 そのどちらかに丸をして、そして希望を書く。

 だけど、水城はそれよりもはるか先を見ている。それは進路というよりもむしろ、


「それが、私の夢」

「夢……」


 目標と言ってもいい。


「……すごいね。もう、そんな先のことまで考えてるんだ」


 かろうじて出たのは、そんな言葉。


「笑わないの?」


 水城の表情が、少しだけ怯えたようになる。


「なに? そんなのできるわけないじゃんって笑ってほしいの?」

「ううん。でも、オリンピックなんて夢のまた夢、才能のある人のなかでも、ほんのひと握りの人だけしか出られない、って言われたことがあって……」


 水城が顔を伏せる。


「だったらさ」


 私は、俯く水城の横に並び、その肩に手を置いた。


「あんたがその、ひと握りの人間になればいいだけじゃない?」


 水城が顔をあげ、ひと握りを示すようにグーを向ける私の拳を見つめた。


「なれる、かな?」

「なるんだよ」


 挑むような私の視線に、水城はようやく顔を上げ、


「うん」


 大きく頷き、グーにした拳を私の拳にぶつけてきた。


「私、なる」


 水城が踵を返し、同じ方へ向いて、廊下を歩き出す。

 私は、進路調査票を持った手を背中に回し――握りつぶしていた。


            ※


 病院で受付に向かうと、七瀬さんがどこかにこやかな笑顔を浮かべていた。

 私は怪訝に思いながらもバインダーを受け取り、いつもの文字を書いた。


「結衣ちゃん、県体、優勝したんだってね?」

「なんで知ってるんですか?」


 書き終えたバインダーを渡すと、七瀬さんの視線が私の斜め後ろへと向けられる。

 振り返った私は、休憩スペースに設置された液晶テレビを見て納得した。

 夕方の地元のニュースが流れていたのだろう。


「これで全国行きは決定なの?」

「いえ、次は北信越大会があります」

「場所は?」

「長野です」

「遠いなぁ~」


 七瀬さんが椅子の背もたれに寄りかかる。


「別に、七瀬さんが行くわけじゃないんですから」

「そりゃそうだけど。もし福井でやるなら応援に行ってあげようかなって思ったりして……」

「じゃあ、全国――インターハイは期待してます」

「え?」


 七瀬さんの目が丸になる。


「今年のインターハイは、福井ですよ」


 ニッと笑って見せ、私はそのまま受付を離れた。


            ※


「今日ね、杏子さんから新しいメニューをもらったの」


 柑奈の足を、両手で持ち上げ、そっと親指でなぞっていく。


「私、杏子さんこと、心のどこかで疑ってた。柑奈があんなことになって、それは杏子さんが原因で……だから、杏子さんの指導を、心のどこかで恐れてた。でも、水城は信頼してた。そのせいもあって、私には杏子さんがどんな人なのか、分からなくなってた。でも、今日、それが分かったの。周りから聞いた話じゃなくて、自分自身でそれを体験して、分かったの。杏子さんは間違いなく、本物だって。私たちのことを本当に速く走れるように考えてくれている。それが、こう――熱のように感じるの。一方的に押し付けるんじゃなくて、ちゃんと私たちの意見を聞いてくれて、それでまた考えて、じゃあこうしてみたらどうかって、アドバイスしてくれる」


 杏子さんが柑奈にしたことを、私は知っている。

 行き過ぎた指導が、柑奈の体を壊し、心も傷つけた。

 それが、私が知っている杏子さん。

 離婚して、ひとりになって、そこで何があったのか、私は知らない。

 だけど、杏子さんは反省したんだと思う。

 何がきっかけかは分からない。

 でも、今の杏子さんは間違いなく、一流の指導者だと、心から思える。


「だから、柑奈も、ね……怖がらなくてもいいんだよ。今の杏子さんなら、安心できる。柑奈も目を覚ましたら、一緒に学ぼう。私も先輩として、しっかり教えてあげるから、ね」


 マッサージを終え、布団をそっとかける。

 柑奈に変化はない。

 それでも、明日もまた来るよ。

 私は病室を出た。


            ※


 ジムに向かうと、私は自分のことより、薫ちゃんを探すようになっていた。

 その薫ちゃんが、今日も平行棒に掴まっていた。

 背中を向けているから、私のことには気づいていない。

 そのまま気づかれないように、薫ちゃんのリハビリを見守っていると、


「すごいでしょ、一ノ瀬さん」


 隣に三島さんが並び、声をかけてきた。


「はい、本当に……」


 薫ちゃんはリハビリに意欲的になり、今では車椅子から松葉杖で移動するようになっている。


「これも、吉田さんのおかげね」

「私、ですか?」


 お互いに顔を見合わせると、三島さんがいつもの柔和な笑みを浮かべる。


「吉田さんと話してから、一ノ瀬さんは自分からリハビリをするようになったの。それまでは、私から声をかけて、一ノ瀬さんも渋々といった様子で、やる気が感じられなかった。でも、今は違うわ。むしろ、こっちがハラハラするくらいやる気で、休憩時間とか、今日はこれで終わりって言っても、あと少し、あと一回、って」

「やり過ぎは逆効果になっちゃうんだけどなぁ」


 アスリートにとっては、休憩も大事なトレーニングのひとつだ。

 昔とは違い、今は量よりも質が重視されている。

 二時間の無駄なトレーニングよりも、一時間の効果的なトレーニング。

 短時間で高負荷であるほうが、体は無駄な消費を抑えられ、さらには能力が向上する。

 これまでの無駄な時間を、休憩や他の時間にあてることもできる。


「もちろん、怪我は絶対にさせないように見張ってるから、安心して」


 その点は心配していない。三島さんが監督しているなら、問題なんてない。


「でも、あの情熱を無下にもできない」

「分かります」


 そこが難しいところだ。効率を求めすぎて、本人のやる気を削げば、それが逆にやる気を下げたり、知らないところで勝手にひとりでやったりして、怪我に繋がることもある。

 だから、ここでちゃんと本人を満足させて、病室ではしっかりと休ませる。

 リハビリは、単にやるべきことをやらせるのではなく、その人と向き合い、話し合い、そして気持ちを汲み取って、一緒に行うもの。

 二人三脚みたいなものかもしれない。

 一方が走り過ぎても、遅すぎてもいけない。

 リハビリをする人と、理学療法士が肩を並べ、同じ速度で走り合う。

 競争とは違う。言うなれば、共走か……。


「今だから白状するけど、一ノ瀬さんは、吉田さんのことをずっと見てたのよ」

「……え? でも、あのとき――」

「ずっと見てたなんて恥ずかしいから、隠してたのよ」


 微笑ましそうに、三島さんが笑む。


「実はね――」


『あの人、いつもここに来てますよね』

『あの人……って、ああ、吉田さんのことね』

『あの人も、どこか悪いんですか?』

『いいえ。吉田さんは、筋トレでこのジムを利用しているのよ』

『毎日見てますけど……』

『ええ、毎日。もうすぐ二年になるわね』

『二年間も……どうして、そんな……』

『吉田さんは、春江高校の陸上部に所属してるの。その二年前、吉田さんが一年生のときに、同じ陸上部の友達が倒れて、この病院でずっと昏睡状態のまま眠っているの。吉田さんは毎日、その子のお見舞いに来て、それが終わってから、ここでトレーニングをしているの』

『毎日?』

『毎日』

『二年間も?』

『これからも』

『なんのために』

『聞いてみたら?』

『え、でも……私なんかが――』

『大丈夫。吉田さんは、いい子よ。勇気を出して、話しかけてみて。大事なのは、最初の一歩よ。一歩踏み出せれば、あとは歩き続けられるから』

『……最初の、一歩』


「私たちは、一緒に歩くことはできる。でも、最初の一歩を踏み出すのだけは、本人の意思でないとダメなの。そんな一ノ瀬さんの背中を、一歩踏み出すきっかけを、吉田さんなら押してくれるんじゃないかって、期待して……」

「そうだったんですね」


 背中を押したのは、私なんかじゃない。

 三島さんがそう言ったから、薫ちゃんが私に声をかけることができた。

 だから、今の薫ちゃんがあるのは、三島さんのおかげだ。


「吉田さんが毎日、欠かさず同じことをずっと続けて、でもそれが意味のあることだと知って、一ノ瀬さんはリハビリに前向きになれた」


 私は、それをやんわりと否定しようとした。だけど、それよりも先に、三島さんが言った。


「ありがとう、吉田さん」


 感謝の言葉に、私は出かかった言葉を呑み込んだ。


「あなたが、一ノ瀬さんを前へ進ませてくれた」

「そんな……薫ちゃんが自分で立ち上がったんですよ」

「それでも、きっかけはあなたの、その行動――生き様なのよ」

「生き様って、大げさですよ」


 恥ずかしくて、私は笑ってごまかした。


「吉田さんは、こっちの世界が合ってるのかもしれないわね」

「理学療法士のことですか?」

「ええ、本気で目指してみない?」


 三島さんの目つきが変わる。

 冗談でもお世辞でもない。

 自分のことを正当に評価し、そして助言を与えてくれた。

 だから、私もここでは茶化さず、少しの間、考え込んでいると、


「あっ、結衣さ~ん!」


 こっちに気づいた薫ちゃんが手を振ってきた。

 本人は無自覚でやっているんだろうけど、片手の支えだけで立っている場面を見た私は、視線を薫ちゃんに向けたまま手を振って返し、


「……考えてみます」


 そう三島さんに告げると、薫ちゃんのもとへ駆け寄った。

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