三章 兆し
「はぁ……はぁ……はぁ……」
もう夜になる空を見上げながら、河川公園の芝生の上で仰向けになっていた私は、最後の全力疾走を終え、息を整えていた。
柑奈を相手に走ったが、今日も勝てなかった。
どうしても、病院での出来事が頭を過ぎり、集中できないのだ。
(柑奈……目を覚ます……かも……)
七瀬さんに報告したけど、昏睡状態にある患者には時々見られる反応だと言われた。
あまり、期待しすぎないように、とも。
でも私は、期待せずにはいられなかった。
だって、あの音声を聞いて、柑奈の指先が反応するかのように動いたのだから。
※
芝生の上で横になっている時間が長かったからか、家に戻ってからすぐに入ったお風呂のあたたかさが身に沁みた。
父親は残業でまだ帰っていないため、夕食は毎日、母親と二人でとっている。
食事を終えると、歯を磨いて、寝室に入ってベッドに飛び込んだ。
(今日は、疲れた)
体ではなく、心が……。
仰向けになって、天井を見つめる。
「柑奈……」
もし柑奈が目を覚ましたら、居場所が必要だ。
「水城……真菜……」
彼女は、私との勝負、そして部活に顔を出すことを執拗に求めている。
もし柑奈が目を覚ましたら、すぐには復帰できないけど、だけど、もしもの場合を考えたら、居場所をつくっておいてあげたい。
柑奈なら、陸上部に戻るはずだ。
だからそのとき私がそこにいてあげなければ。
(柑奈のためだから)
だから――私はひとつの決意を胸に抱くと、疲れからか、自分でも気づかないうちに眠りに落ちていた。
※
翌日。
教室に向かう途中、廊下の窓際に転校生が立っていた。
こっちを見つけるなり、ハッとした表情になるが、まるで忠犬のようにその場で待っていた。
私は一度止めてしまった足を動かし、なんでもない風に歩き出す。
無視してもよかったのに、見捨てられるのでないかと眉を下げる転校生の表情に、私は小さく息を吐き、それから転校生の前で立ち止まった。
視線を向けて「用件は?」と訊ねると、彼女はおもむろに口を開いた。
「昨日は、ごめんなさい」
頭を下げることはせず、顔を伏せる。
「気にしてないから」
それだけ言って歩き出そうとした私を、
「待って!」
その言葉で引き止める。
「結衣と立花コーチとの間に何があったのか、私は詮索しない。私は向こうで立花コーチから指導を受けてたの。だから、立花コーチのことを知ってた」
「そうなんだろうなぁって思ってた」
「え?」
思わず口に出してしまったが、もう遅い。
「あなたの走り、柑奈に似てたから」
「柑奈さんに……」
申し訳なさそうに、転校生が顔を伏せる。
どうして?
悪く思う必要なんてない。
誰がどこで杏子さんの指導を受けていたって、関係ない。
「私とじゃ……ダメ?」
その切実な問いに、私は応えられなかった。
「私は、結衣と走りたい」
「なんで……どうして、そこまでして……私はあなたのこと、憶えてないのに……」
「それは、ショックだった……けど……仕方のないことだから」
自嘲するように、転校生が小さく笑う。
「でも、私はずっと憶えてた。ずっと追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて、ようやく追いついた」
顔を上げる転校生の表情は、少しだけやりきったかのように、晴れていた。
つまり、私との再会が、そういうことになる。
「やっと……追いついたの。ずっと、背中を見てきた。でも、それじゃダメなんだって思った。待ってるだけじゃダメ。自分の足で進んで、肩を並んで、追い抜いて、誰よりも前へって、思うようになった。だから、ここまで来たの。結衣と走りたいから」
なによ、それ……。
そんなのまるで、告白じゃない。
「あなたの走りは認める。正直、速かった。何よりも、悔しかった」
転校生の思いに応えるように、私も私が思ったことを口にした。
「でも、最初から本気を出してたら、勝ってたのは私」
転校生を――いや、水城真菜と言うひとりのアスリートを睨みつける。
「水城真菜……次は、絶対に負けないから」
その意図を理解した水城が、目を見開き、喜びの表情を浮かべ、
「私の前を走っていいのは、柑奈だけだから」
そう言って、私は水城に背中を向けて、教室に向かった。
だから、私は気づかなかった。
いや、見てみぬふりをしたのかもしれない。
まるで天国から地獄へ突き落されたかのような、どうしようもなく悲しげな表情を水城が浮かべていたことを。
※
昼休みになり、いつもの場所に向かう。
車の後部座席のベンチに座り、さぁ弁当を広げようかと思ったところで、私は風呂敷を広げる手を止めた。
そのまま横目で校舎の角を見やる。
角から、水城がこっちを覗き込んでいた。
話しかけるべきか、無視するべきか。
どっちにしようか迷ったが、無視すれば予鈴がなるまでじっと見られているんじゃないかと思った私は、それを想像して身震いし、残る選択肢を選んだ。
「水城」
声をかけると、水城が角から姿を見せた。
「あ、あの……一緒に、お弁当……いい、かな?」
「いいけど、隣には座らないでね」
「え……?」
水城の目が、見開かれる。
「ここは、柑奈の席だから。だから……ダメ」
少しだけ棘のある言い方になってしまったけど、それでも柑奈以外の誰かが座ることは嫌だった。
「分かった。じゃあ、こっちの隣に座るね」
水城が腰を下ろしたのは、ベンチの横のコンクリートの地面だった。
その姿を見て、私はなんだか悪いことをさせているように思えてならなかった。
それでも、ベンチに座れとは言えなかった。
座るといっても、水城はしゃがみこんでいるだけで、コンクリートの床に弁当箱を置き、そこに風呂敷を広げていた。
弁当箱のフタが開かれると、そこに入っていた食材に私は思わずつっこんでしまった。
「って、なんで似たようなメニューになるかなぁ」
「え?」
高い位置にいるため、私の弁当の中身は水城からは見えない。
だから、わざわざ弁当の中身を見せてあげた。
「ホントだ。ほとんど一緒」
私と水城の弁当には、白米の代わりに大量の茹でたササミが入っていた。
違うのは味付けだろうか。
あとはブロッコリーやプチトマト。
その他は違っていたが、どれも筋肉をつけるのには欠かせないものだ。
「それ、杏子さんからの指示?」
「うん。基本的なこと教えてもらって、あとは維持しやすいように、自分なりにアレンジした。結衣は、柑奈さん?」
「正確には、柑奈のお父さん。師匠が現役時代に食べてたお昼と一緒なメニュー」
私も水城も、共に柑奈の父親と母親から、走るためのすべてを叩きこまれていた。
それはまるで、どちらの教えが正しいのか、それを証明するためのようにも思えた。
「離れていても、走り対する考えは変わらなかったんだね」
「そう、なのかもね」
男女それぞれのトップに君臨した一流のアスリート。
そういった人たちから見れば、求めるべき道は、一本へと集束するのだろうか。
それでも、人が人である以上、思想も違うし、求めるところも違う。
だから、正解はないんだと思う。
自分がこの人ならばと思える人と出会い、そしてその人の下で成果を出すことができたなら、それが正解だったのだと思えるのだろう。
「立花コーチはすごいよ」
「師匠だって」
「私も……柑奈さんのお父さんの指導、受けてみたかった……」
それは決して同情や哀れみなんかじゃなくて、心の底からそう思っているだと感じた。
「私も……杏子さんの指導が、どんなのか気になってた」
「満足できるよ。きっと」
水城が淡く笑む。
きっと、水城は私の考えていることを理解していない。
幼い柑奈を追いつめた、スパルタどころか虐待すれすれの指導。
それが、どんなものなのか、それが私の懸念する最もなことだった。
※
放課後になって教室を出ると、廊下で水城が待ち構えていた。
「なんでいるのよ……」
「部活……一緒に行く」
「それだけで……わざわざ待ってる必要なんてないのに……」
歩き出すと、水城が突っ立ったままになっているの気づき、私は肩越しに振り返った。
「ほら、早く。行くよ」
そう言って歩き出すと、後ろから駆けるような足音が聞こえた。
その足音は軽やかで、なんとなく水城が笑っているのではないかと、そんな想像をしてしまった。
※
春江高校陸上部は、決して強豪校などではない。
全国はおろか、北信越止まりだ。
その北信越も、私と柑奈が初めてだったとか。
そもそも、いまだに陸上部が存続していること自体、奇跡に近い。
そのおかげで、通学時間が自転車で十五分なのだから、ありがたいと言えばありがたいのだが……。
校庭と体育館との間にあるコンクリートの道で整列する部員。
陸上部は基本的に男子と女子に分かれており、女子の人数は二年生が三人、一年生の新入部員が二人。
そして三年生は、新入部員である水城と、幽霊部員だった私。
春江高校陸上部女子、計七人。
体操服に着替えた私を含めたその七人が、陸上部女子の部活動指導者を前に整列している。
立花杏子。
私にとっては憧れの存在であり、そして柑奈の母親という印象が強い。
そのせいか、今まで陸上競技の指導者としての杏子さんを見たことがなかった。
(全然、雰囲気が違う)
見た目の印象から、杏子さんは違って見えた。
遠慮がちな弱々しい表情なんかじゃなくて、すっと細められた目が、まるで部員ひとりひとりを観察するかのように睨みつけてくる。
そんな杏子さんだが、列に加わっている私を見るなり、少しだけ驚いたような表情をするも、すぐに表情を戻し、何でもない風に部活を始めた。
一年生は一年生同士で、二年生は二年生同士で軽くウォームアップを行う。
「結衣、私たちも」
「はいはい」
三年生は私と水城しかいないから、二人でウォームアップを始める。
そこに、杏子さんが近づいていきた。
「吉田さん」
「きょ――立花……コーチ」
部活に戻った以上は、指導者をさん付けでは呼べない。
「いいのよ。別に」
「いえ」
そう言うが、これはけじめだ――指導を受ける側としての。
「戻ってきて、くれたのね」
「はい」
「それは、柑奈のため……?」
即答はできなかった。
部活に戻った理由が、二つあったから。
「それもあります」
私は前に出ると、杏子さんと向き合った。
「立花コーチ、私は速くなりたい」
その言葉に、杏子さんの表情が鋭くなる。
これが日本のトップ、そして世界に挑んだ人の目。
「私がここに戻ってきたのも、コーチがいるからです。あなたから学べるすべてを、私は学びたい。一功さんと何が違うのか。それが自分のためになるのかどうか」
「吉田さんの走りは、確かにあの人の影響をとても受けているわ」
私の走りを……体育の授業を見られていたのか。
「先生は、私を速くすることができますか?」
指導者としての立花杏子に、真正面から問う。
『なれますか?』ではなく『できますか?』と私は訊いた。
この言葉の違いに、杏子さんが目を細める。
つまり、私が速くなるかどうかは、指導者次第ということ。
人には才能がある。
生まれ持った身体能力。
それは小学生にとっては絶対で、誰からも学んでいないのに、かけっこが速い子がいる。
だけど、それも体が成長して中学に上がると、途端に平均へと落ちる。
そこで必要になるのが、指導者だ。
才能を腐らせることなく、存分に発揮させることのできる指導者の存在が、その選手の未来を決めると言ってもいい。
私も柑奈も才能はあった。
陸上に対する熱意も申し分ない。
そして、何よりも私たちが恵まれていたのは、村上一功という最高の指導者がいたことだった。
小学生のころから一功さんの指導を受けていた私と柑奈は、その才能を遺憾なく発揮した。
その時、私は思ったのだ。
走るのが好き。
だけど、速く走るには、導きがなければならないと。無知でただ走ることしかできない自分には、絶対的な指導者がいなければならないのだと。
だから、私は愚直に与えられたメニューを毎日こなした。盲信と言ってもいい。
食事から生活サイクル。
運動に睡眠時間。
一日のすべてを陸上に捧げた。
高校の陸上部に入ったのも、柑奈と共に走り、強敵がいるインターハイで最高の競走をしたいと思ったからだ。
顧問の指導はあてにならず、私は一功さんのメニューを愚直にこなした。
だから、一功さんが亡くなった今、私が陸上部に戻った理由のひとつが、この立花杏子という存在なのだ。
「ゆ、結衣! なに言って――」
後ろで控えていた水城に肩を掴まれるが、それを止めたのは私ではなく、杏子さんの言葉だった。
「そうね。『できる』『できない』で言えば、『できる』。でも、速く『なれる』か『なれない』かは、あなた次第よ。吉田さん」
指導者である杏子さんの返答。速くしてあげることはできるが、それは走者次第だと。
どれだけ最高の指導者がいても、受け手がその気でなければ成長は見込めない。
与える側と受け取る側――双方のやる気が合わさって初めて効果があるのだ。
「分かりました。私は誰よりも速くなりたい。ご指導のほど、よろしくお願いします」
私は腰から背中を曲げ、頭を下げた。
※
部活を終え、私は病院に向かった。
「結衣ちゃん、いつもの時間に来ないから、びっくりしたわ」
「ごめんなさい。部活を再開して、これからはこの時間帯になると思います」
「了解。お姉さんを心配させないでね」
「なんですか、それ」
受付で七瀬さんと他愛のない会話をして、柑奈の病室に向かう。
「柑奈」
病室の奥にある椅子を引いてベッドの横に座ると、柑奈の横顔を見つめた。
眠っているような――揺らせば目を覚まして、「結衣?」と眠気眼で私の名前を呼んでくれるんじゃないか、そんな気がしてならない。
右手が伸びて、柑奈の肩に触れる。
だけど、そこでハッとして、触れた指先をそっと離し、手を膝の上まで戻した。柑
奈は目を開けない。
だって、寝ているわけじゃないから。
「今日、ね……久しぶりに、陸上部に顔を出したんだ」
気持ちを押し込め、笑顔をつくって今日のことを話す。
「柑奈がいないと、張り合いがないから……今日までずっと、顔を出せずにいたの」
ちらりと柑奈の足下を見る。
「じゃあ、どうして今さらになって陸上部に顔を出したかって?」
まるで返事を待つように、耳を柑奈の方へ向ける仕草をする。
「あの子――水城真菜に、勝つため。多分、今の私じゃ引き分け。次は最初から本気で走って、実力の差を見せつける。だから、また部活に出ることにしたの。柑奈のお母さん――杏子さんが指導しているから。一功さんの指導でも、私は十分に速くなれた。でも、私はもっと高みを目指す。そのために、杏子さんの指導も受けてみたいって思ったの。柑奈も、一功さんと杏子さんから指導を受けたことになるでしょ? だから、水城にも、そして柑奈にも……」
勝つ――その二文字を、私は口にすることができなかった。
「それに……」と私は誤魔化すように話を変え、
「柑奈が目を覚ました時に、私たちの場所を守りたいから」
二人だけのお昼休みの時間。放課後の部活動。また元通りになるための場所。それを、私が守る。
「ねぇ……柑奈、目……覚ますよね」
鼻の奥がツンとする。
「今はちょっと、疲れてるだけだよね。柑奈が子どものころ、すごく大変だったこと、知ってるから。だから、その分いっぱい休んで、そしたら、また一緒に走ろう。一緒に……走りたいよ、ぉ……」
涙で歪んだ顔を見られたくなくて、私は顔を伏せ、声が漏れるのを抑えるように咽び泣いた。
※
柑奈のお見舞いが終わると、私はいつものようにジムに足を向けた。
そこでいつもの筋トレをこなすつもりではいるが、今日は別の用事もあった。
「三島さん」
ちょうど手が空いたところを見計らって、私は三島さんに声をかけた。
「吉田さん、こんにちは」
「こんにちは。あの、ちょっといいですか?」
「いいわよ。トレーニングのメニューに関することかしら?」
「あ、いえ……えっと、実は理学療法士に関することなんです」
「あら」
驚いたのか、三島さんが声を上げる。
「入院してる友達が、もし目を覚ましたときに、実際は手を貸せなくても、三島さんや七瀬さんたちがどういう目的でリハビリを行っているのか、そういうのを、知っておきたいと思って」
「目を覚ましたとき……」
三島さんがそっと見つめてくる。
明らかに勘づかれているのを感じた私は、別に隠すことでもなく、素直に白状した。
「この前、あ、足が動いたんです。ピクッて、一瞬だけ」
「そうなのね」
「受付の七瀬さんや脳外科の先生は、一度だけじゃ断定もできないし、ただの反射かもしれないって……でも……」
「信じたいわよね」
三島さんが労わるように、肩に手を置く。
「はい」
私はそんな三島さんに、自分の気持ちを素直に表すように、何度も何度も頷いた。
「いいわ。今度、私が使ってた教本を貸してあげるから」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げると、三島さんは笑みを浮かべ、私の二の腕をぽんぽんと軽く叩くと、そのまま去って行った。
「さて、と」
筋トレの続きをやろうと振り返った私は、少し離れたところ――リハビリするための平行棒に掴まっている少女と目が合った。
その少女はすぐに顔を反らすと、なんでもない風にリハビリを再開していた。
気のせいということにして、私は筋トレを再開した。
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