二章 転校生

 翌日。

 私は伊月さんに転校生のことを訊ねると、まるで調べたかのような情報を教えてくれた。


「名前は、水城真菜さん」


 体を横にして椅子に座り、腰を捻って肘を私の机に置く伊月さん。


「埼玉から引っ越してきたらしいよ。理由までは分からないけど。でも、水城さんって、有名なんだよ」

「有名? 芸能人?」


 あの見た目は、画面越しで見ていてもおかしくはない。


「いやいや――ってか、吉田さんなら知ってると思ってたんだけどなぁ」

「え?」


 知らないから尋ねているというのに……。


「まぁ……帰る頃には分かるんじゃない?」


 とびっきり意地悪で意味深な笑みを浮かべる伊月さんに、私はイラッときて反射的にデコピンをお見舞いしていた。


            ※


 お昼休みになると、私は机の横にかけたリュックから風呂敷で包んだ弁当箱を取り出し、教室を出た。

 この時間だけは伊月さんをひとりにしてしまうが、私は私で弁当を食べる場所を決めているため、仕方がないと割り入っている。

 私は教室を出て一階に降りると、北と南にある校舎を繋ぐ渡り廊下から外に出た。

 春江高校は昔、春江工業高校という名前で工業科専門の高校だった。

 その名残で、敷地内の西側には実習棟がまっすぐにのびており、今でも処分されずに残っているよく分からない機械類がそのままにされている。

 私はその実習棟の壁沿いを歩き、教室などがある校舎からは陰になっているところにある小さな花壇まで歩いた。

 大きな木が一本、高い位置に枝葉を伸ばしており、それが風で揺れている。

 その下に小さな花壇があり、校舎の壁際にはソファーが置かれていた。

 だがこのソファー、よく見ると、車の後部座席を外したものなのだ。

 安物のビニール素材で、端は破けてもいる。

 それでもこの座席はここにあり続け、おそらくは工業高校時代に誰かが休憩目的で置いたものなのだろう。

 一年生だったころ、私と柑奈は、陸上部の練習中、グラウンドからここを偶然見つけたのだ。

 それからは周りに気づかれないように二人だけで毎日、お昼を共にしていた。

 だけど今は、私ひとり。

 それでもここでお昼を食べ続けるのは、柑奈が戻ってきたときに、変わらない日常を送れるようにするため。

 この場所は、私が守らないといけない。

 二人から三人が座れる後部座席の左側に座った私は、膝の上で風呂敷を広げ、ひとり昼食についた。

 大きな木の枝葉がちょうど、昼の時間になると影を落としてくれている。

 これを考慮して、後部座席をこの位置に置いたに違いない。

 花壇は、花壇と名ばかりの、ただ乾いた土があるだけ。

 工業科がなくなり、それに従事していた先生がいなくなり、おそらくその人がこの花壇を管理していたから、人の手が加わらなくなり、こうして今の姿になったのだろう。

 忘れられた場所。

 他の誰も知らないから、撤去されることもない。

 でも大丈夫。

 私は知っているから。

 ここに、こうして、ちゃんと存在していることを。


「あ、あの……」


 突然の声に、私は弁当を食べ終え、風呂敷で包み終えた弁当箱を危うく落としそうになった。


「な……」


 今まで誰ひとりとして来なかったところに来た人物は、


「なんで、あなたが……」


 転校生だった。

 立っているだけで絵になるような美人。

 だけど、今はそれどころじゃない。

 どうして転校生がこんなところにいるのか、それが私には不思議でならなかった。


「どうしてここに?」

「……話しがあったから」

「話し? あなたが私に?」

 そう問うと、転校生はこくりと頷いて見せた。

 表情が分かり難くて、何を考えているのか読めない。

 転校生は、長い腕をそっと上げ、そして自分自身の胸――ちょうどスカーフがある位置に手を当て、言った。


「私のことを、憶えてる?」

「……」


 言葉が出なかった。

 転校生が、私のことを憶えているか? と、そう訊いてきたのだ。


「……え? なに? 私たち……知り合い、なの?」


 笑って見せようとしたが、頬が引きつるだけで、むしろ奇妙な顔になってしまっていた。

 だけど、そんな私の態度だけで、彼女には十分だったようだ。


「そう……」


 目に見えて落ち込む転校生に、むしろ私が悪いことをしたように思えた。

 実際、憶えていないのだから、私が悪いのかもしれないけれど、憶えていないものは憶えていないのだ。

 それで責められても、正直こまる。

 どれだけ頭のなかで『水城真菜』を反芻させても、過去の記憶を掘り返しても、そんな名前の知り合いは見つからなかった。


「でも……」


 顔を伏せていた転校生が、意を決したように顔を上げ、やる気に満ちた(ように見える)表情をする。


「だったら、絶対に思い出させるから。だから、そのときは、ちゃんと思い出してほしい」

「はぁ……」


 曖昧な返事が、半開きになっていた口から漏れる。


「ま、まずは呼び方」

「呼び方?」

「ゆ、結衣……」


 転校生の口から名前で呼ばれて、ドキリとした。

 名前の後にも、もにゅもにゅと口を動かしていたが、声にはなっていないために何と言っているのかは分からなかった。


「ど、どう?」


 転校生が期待するかのように身を乗り出し、二つの瞳が私を捉える。


「な、何も……」


 その動きに言いようのない圧を感じ、私は思わず仰け反ってしまった。


「……諦めないから」


 体を戻す転校生。

 その立ち方も、背筋をぴんと伸ばし、自然と胸を張っているため、何かしらの指導を受けていることが窺えた。

 予鈴が鳴る。


「それじゃあ、また」


 手を挙げ、そのまま踵を消して去って行く転校生の背中に私は小さく手を振って返すと、


「ん? また……?」


 と嫌な予感に背筋を凍らせるのだった。


            ※


 今日の最後の授業は体育だ。

 三年生に進級して最初の授業は、身体測定だった。

 体操服に着替えて体育館に集まると、合同で行う隣のクラスの人たちもいた。

 女子のなかでも背が高くて目立つ転校生に、思わず目がいく。

 その視線に気づいたのか、転校生がこっちへ向くのを見た私は、咄嗟に顔を反らし、そのまま隣にいた伊月さんと話すふりをした。


(なんで、私が気ぃ使わなきゃなんないのよ……)


 そう思うも、再び転校生を見る度胸が、私にはなかった。

 授業が始まると、私は伊月さんと一緒に回った。

 まずは体育館内で、握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、立ち幅跳び、シャトルランをこなす。

 空いているところから自由に測定するため、私と伊月さんはなるべく一緒に行動するようにしていた。

 ところが、校庭で行う百メートル走の測定で一緒に並んでいたところ、


「あっ、吉田さん、ごめん。ちょっと――」


 伊月さんが申し訳なさそうに腹部に手をあてがうのを見て、


「いいよ」


 そう言って駆け足で校舎に戻る伊月さんの背中を見送った。

 ぽっかりと空いた隣に、私はほんの少しだけ寂しさを感じると、


「隣、いい?」


 そう言って私の前に現れたのは、転校生だった。

 嫌な予感が当たった瞬間だ。


「え?」

「空いてたから」

「いい、けど……」

「よかった」


 それだけ言って、転校生が前を向く。

 百メートル走は基本、二人一組で走り、同時に測定する。

 その一緒に走る相手は誰でもいいのだが、三年生にもなると、大抵は友達同士で並んで走るようになる。

 私と伊月さんが一緒に行動していたのも、こういった場面で知らない人と並ぶことになったり、誰もいなくてひとりで走ることになってしまうことを防ぐためだ。

 だから、転校してすぐの彼女に、その相手がいないことも理解はできる。

 しかし、だからといって、


(なんで、よりにもよって私の隣に……)


 伊月さんがいればこんな事態にもなっていなかったはずだが、彼女を責めるわけにはいかない。

 どうせなら一緒についていけばよかった。

 そうでなければ、戻ってきた伊月さんがぼっちになってしまう。

 決して、私自身のためではない。

 あくまで伊月さんのため、うん。

 誰になんの言い訳をしているのか分からなくなった私は、横目で転校生を見やった。

 別にモデルのように特出して背が高いわけではないが、それでも転校に目を向けると、少しだけ見上げていると感じてしまう。


「次」


 先生の声に、私と転校生が前に出る。

 記録用紙を先生に渡し、スタート位置に立つ。

 陸上部ではおなじみのスターティングブロックがあるはずもなく、体育で走るときはクラウチングスタートではなくスタンディングスタートとなる。

 この時点で、私は特段、本気で走ろうとは思っていなかった。

 記録をとるための走りは、どこか虚しく感じる。

 私にとっては走ることとは、競走なのだ。

 競うことが楽しくて、だから走る。

 タイムはその勝敗を明確にするだけのもの。


「位置について」


 先生が白い旗を掲げる。

 腰を落とし、走る体勢をとる。


「よーい」


 白い旗が振り下ろされると同時に私は走り出し、


「――ッ!」


 衝撃を受けた。

 転校生が前に出ていたからだ。

 本気で走らないからといって、それでも負けるのは嫌だ。

 そもそも、全力でなくとも私よりも速い人は学年にいない。

 私よりも速いのは、ただ一人だけ。

 それなのに、転校生が私よりも前に出ている。


(こ、のっ!)


 それが許せなくて――何よりも柑奈以外の誰かを私の前に出させてしまったことが申し訳なくて、私はそこから本気で走った。

 ぐんっ――と勢いが増し、転校生に迫っていく。

 百メートルは、長いようで短い。

 本気を出したときには、残り半分に迫っていた。

 転校生はすでにトップスピードにまでのぼり、それを維持している。

 その走り方はまるで、柑奈のようで……。


「――ッ!」


 それが尚更許せなくて、私はようやくトップスピードにまで上げると、少しずつ追いついていった。

 転校生と肩と肩とが並び合い、フィニッシュである白線を越える。

 そのまますぐには止まらず、軽く流しながら反転し、先生の方へ歩く。


「二人ともすごいわねぇ」


 記録用紙に書き込みを終えた先生が手渡してくる。

 それを受け取った私は、こっちを見ている転校生の方へと歩み寄り、記録用紙を見せた。

 その行動の意味を悟った転校生が、くすりとほんのわずかな笑みを浮かべ、同じように記録用紙を見せた。

 記録は、同じだった。

 タイムも公式大会のように細かくはない。

 なにせ、先生の目視とストップウォッチによる計測だ。


「あなた、何者なの?」


 あの走りは、ただ走るのがうまい人のそれじゃない。

 頭のてっぺんから足のつま先まで、徹底した指導を受けた人の走りだ。私や柑奈のように……。


「自己紹介はもうしたはず。私は水城真菜」

「そうじゃなくて――」

「陸上部に入部した。あなたも所属してるんでしょ? 幽霊部員らしいけど」


 柑奈が倒れたあの日から、私は少しずつ陸上部に顔を出さなくなった。

 それでも退部はしていないから、転校生が言うように今は幽霊部員となっている。

 陸上部で走っていても、私と張り合える部員は誰もいない。

 一緒に競走しても、まるでひとりで走っている気分になり、いつしか顔も出さなくなって、気がつけば自主練だけの日々となっていた。

 

「もし私とまた勝負したいなら、部活に顔を出して」

「でも……」

「お願い」

「……え?」


 唐突な、切実な声。

 転校生の表情は、どこか悲しそうで、それでいて寂しそうに見えた。


「私が転校してきた理由」


 表情がまた一変して、今度は決意に満ちた顔になっていた。


「私は、結衣――あなたと、最高の舞台、最高のパフォーマンスで走りたい。だから、部活に戻ってほしい。あの人なら、私たちを最高の状態まで仕上げくれる。そしたら、今度こそ一緒に走れる。最高の舞台――インターハイで……」


 まるで子供のような、きらきらとした瞳に、私は圧されていた。


「私と……」


 分からない。

 どうして転校生がここまで私に固執するのか。

 分からない。

 彼女は私のことを知っているのに、私は彼女のことを知らない。

 分からない。

 分からない。

 分からない。


「無理だよ、今さら、戻るなんて……」

「それでも、待ってるから」


 転校生が振り返り、去って行く。

 手に持ったままの記録用紙に刻まれたタイム。

 転校生と同じ――だけど、私も、そして転校生も分かっていた。

 いや、体感していたというべきか。

 私も転校生も、どっちが勝ったのか感じていた。

 勝ったのは、転校生だ。

 それは、私が最初から本気で走らなかったから。

 だけど、最初から本気で走っていたとして、それでも勝てていたのか。

 それは分からない。

 記録用紙の厚紙を、少しだけ握りしめる。

 ずっと燻っていた、灰の中の小さな火種が、ぽっとオレンジ色に輝く。


(悔しい……)


 気がつけば、私はそんな感情を抱いていた。

 どんな条件であろうとも、私が本気で走ろうとしていなかったのが原因であろうとも、負けは負けだ。

 それが、悔しかった。


(悔しい……?)


 こんな風に思ったのは、どれだけぶりだろうか。

 部活にも顔を出さなくなり、競走から離れ、ずっとひとりで走ってきた。

 そんな私に挑んだ転校生。

 記録なんてどうでもいい。

 それよりも何よりも、負けたことの方が、私にとっては何百万倍も悔しかった。


「いやぁ、それにしても、水城さんはやっぱり速いねぇ」

「え?」


 百メートル走の測定を終えた私に、戻ってきた伊月さんがそんなことを言う。


「あれ? 言ってなかったっけ? 水城さん、中学生のころから全国大会の常連で、インターハイでも一年のときも二年のときも決勝まで残った実力者らしいよ。去年だったっけなぁ、優勝したのは」


 伊月さんの声が、どこか遠くで聞いているように聞こえた。


            ※


「柑奈」


 病室を訪れた私は、いつものように椅子を引き寄せて、眠る柑奈の隣に腰を下ろした。


「前に転校生の話、したでしょ?」


 柑奈は反応しない。


「それで、その転校生が、私に話しかけてきたの。なんて言ったと思う?」


 ――私のこと、憶えてる?


「でもね、私は彼女のこと、憶えてないんだ。柑奈は知ってる? 水城真菜っていう名前。彼女も陸上で百メートル走を走ってて、中学の全国大会にもいたらしいよ。高校でもインターハイの常連で、去年の大会では優勝してた」


 中学の全国大会で私が憶えているのは、圧倒的な速さで優勝した柑奈の姿だけ。


「それでね。今日、体育の授業で身体測定があって、百メートル走を転校生と一緒に走ったんだ。結果は……まぁ、私も本気で走ったわけじゃなかったし、そもそも場所が校庭で、ユニフォームだってシューズだって違うし、スターティングブロックもないし……いや、まぁ……うん、これ全部……言い訳だね」


 乾いた笑い声が、小さな病室に響く。それでも柑奈は動かない。


「私……負けちゃった。柑奈以外の誰にも負けない自信はあったんだけど。思えば、久しぶりの競走で……ううん、これも言い訳。私は負けた。それは認めないと、転校生に失礼だもんね」


 今度は、自嘲の笑みが漏れる。


「でも、次は負けない」


 布団から出ている柑奈の右手を、そっと掴む。


「私の前を走っていいのは、柑奈だけだから」


 その言葉の意味に、私は気づかないふりでいた。


            ※


 日の入りが近づく時刻。

 九頭竜川の河川公園で自主トレを終えた私の視界の端に、転校生の姿があった。

 目と目が合うと、今度はこっちに近づいてきた。


「今度は何? ってか、ストーカーか?」


 少しだけきつい口調で言うも、転校生は顔色ひとつ変えることはなかった。


「家が堤防のすぐ横だから、散歩してただけ」


 転校生の言うことを疑うつもりはない。

 実際、地元の人にとって、車は通らないし、景色はいいし、犬の散歩も安心してできる。

 現にここから土手を見上げると、何人か見かける。


「ここで練習してるの?」

「そうだけど……」

「部活に出て、部員と一緒にやらないの?」

「他の人たちじゃ、相手にならない。それに、私には、昔からトレーニング方法を教えてくれた人がいる。その人は、私にとっての師匠みたいなものだから。その教えがあれば十分。それに――」


 出かかった言葉、呑み込む。


「それに?」

「あなたには、関係ない」


 そう、これはすごく私的なことだから。


「競走相手なら、いる」


 顔を上げると、転校生が胸に手を当てていた。私がそうだと言わんばかりに。


「私なら、結衣を満足させられる」


 その自信はどこからくるのか――いや、分かりきっていることだ。

 彼女の戦歴が、そして今日の走りが、すべてを嫌と言うほど物語っている。


「明日、待ってるから」


 それだけ言って、転校生が去って行く。


「ねぇ」


 私は思わず呼び止めていた。

 転校生が足を止め、顔だけを肩越しに振り向かせた。


「あなたの走り方……それ、どこで……」


 今日の走りで感じた、転校生の走り方――それが、柑奈のそれと重なって見えた。

 それが、私は気になって仕方がなかった。


「それも、来てくれたら分かる」


 まるで訊かれることが分かっていたかのような意味深な言葉に、私はほんの少しだけ苛立ちを覚え、沈みゆく夕日を見つめるのだった。


            ※


 翌日。登校して下駄箱から教室へ向かう廊下を歩いていた私は、


「吉田さん」


 申し訳なさそうに呼ぶ声に、足を止めた。


「……杏子さん」


 目の前に立つ女性は、立花杏子さん。

 春江高校陸上部の指導を務める部活動指導員だ。

 年齢は四十代後半――なはずなのに、その疲れ切ったような表情が、それよりも年齢を重ねたような印象を与える。

 その理由を知っている私は、杏子さんを見るたびに、いたたまれない気持ちになる。

 だって杏子さんは、柑奈のお母さんだから。


「いつも、柑奈のお見舞いに来てくれて、ありがとう」


 小さく笑みを浮かべる杏子さんに、私は首を振って見せた。


「いえ、私が好きでやっていることですから……迷惑でなければ、これからも――」

「迷惑なんてとんでもない。あの子もきっと、喜んでるわ」


 本当に、いたたまれない。

 どうしてこの人は、娘と同じ歳の自分に、こんなにも腰の引くい態度でいるのか。 

 私の知っている立花杏子は、もっと堂々として、カッコよくて、誰よりも速くて……。


「立花コーチ」


 後ろから聞こえた声に、私は思わず振り返った。

 そこには転校生が立っていた。

 その転校生の視線が、私じゃなくて、杏子さんに向けられていた。


「おはよう、水城さん」

「おはようございます」


 私の隣で立ち止まった転校生が、頭を下げる。


「結衣も、おはよう」

「おは、よう……」


 転校生が、向かい合っていた私と杏子さんを交互に見やり、口を開く。


「立花コーチは、結衣と知り合いなんですか?」

「え、ええ、私と吉田さんは柑奈の――」


 ふっ、と頭に血が昇った。


「いい加減にして!」


 廊下に、私の声が響き渡る。誰もが驚き、動きを止める。


「あなた何様? 私のことはいい。でも、私と柑奈のことに、他人のあなたが入ってこないで!」


 睨みつけるが、転校生はそれでも、気丈に振る舞うように、頑として表情を変えなかった。

 分かっている。

 転校生は柑奈ことを知らないし、私と柑奈の関係も知らない。

 お昼に弁当を食べてたあの場所だって、私と柑奈の秘密の場所。

 放課後に河川公園での自主練で、私は柑奈と走っている。

 私の前を走っていいのが柑奈だけなのに、彼女はそこに割り込んできた。

 それに杏子さんが柑奈の母親だってことも、転校生は知らない。

 だから、これは完全な八つ当たりだ。

 冷静になればきっと、自分で自分の馬鹿らしさに気づいて顔を覆いたくなるだろう。

 だけど、誰だって土足で自分の大事な場所に踏み込まれたら、冷静ではいられなくなる。

 その場所が私にとっては大事でも、相手はそのことを知らない。

 無邪気な子供が、積み上げたものを楽しそうに叩いて崩すように……。


「もうこれ以上、私に近づかないで」


 それだけ言って、私は少しでも早くその場を去りたくて、早歩きになっていた。


「結衣!」


 その背中に、転校生が叫ぶ。


「私は諦めない!」


 その言葉に込められた思いが私の背中に圧しかかる。

 それを振り落とすように、角を曲がる。


「絶対に、諦めないから!」


 それ以上聞きたくなくて、私は走り出していた。

 その日は一日じゅう、憂うつな気持ちになっていた。


「うわっ、ひっどい顔だねぇ」


 そんな伊月さんの言葉すら、私の耳には届かなかった。


            ※


 それでも日常と化した私の体は、病院に足を向かわせた。

 柑奈が眠るベッドの足下で、布団をめくり、足裏のマッサージを行う。

 だけど、どうにも力が入らず、気がつけば足を持ったまま止まっていた。

 そして、口から漏れたのは、まるで愚痴だった。


「今日、杏子さんに会ったんだ。嫌いってわけじゃないんだけど、なんとなく顔を合わせにくいんだよね」


 嫌いなはずがない。

 むしろ尊敬する人で、このポニーテールも、白いリボンだって……。

 杏子さんのこと――それ含めた、柑奈を取り巻く家庭環境を、私は知っている。

 柑奈は、村上一功と立花杏子との間に産まれた子。

 二人は共に陸上百メートル走者で、その実力は日本一で、オリンピックにも出場経験がある、まさに日本を代表する走者だった。

 そんな二人の間に産まれた子どもは、サラブレッドであり、期待の星だった。

 その柑奈は先天的にも恵まれ、そして環境にも恵まれていた。

 最高の遺伝子を受け継ぎ、最高の指導者に育てられ、それで速くならないはずがなかった。

 だけど、柑奈が成長するにつれ、両親の間で育て方に対する考えが違っていった。

 父親の一功さんは、柑奈が進みたい未来を柑奈自身に選ばせることを望んでいた。

 だけど、母親の杏子さんは、あくまで柑奈をトップアスリートに育てることを望んだ。

 才能を生かさないなど冒涜で、柑奈ならばオリンピックでメダルだって獲れる。

 当時の柑奈は、同じ女性からの指導を受けた方がいいからと、杏子さんが指導役を担っていた。

 だから、父親の一功さんは、行き過ぎた指導に目が届いていなかった。

 その功績から、指導や公演の依頼で出張が多かった一功さんは、考え方が違くとも、娘のことを想う気持ちは同じだと信じ、杏子さんに任せていた。

 だけど、杏子さんの指導は、行き過ぎていた。

 食事の徹底管理は、柑奈にお菓子などといった甘い食べ物を禁止し、杏子さんが作ったものだけを食べるよう躾けられていた。

 それどころか、起きてから眠るまで、杏子さんは柑奈のすべてを管理していた。

 すべては柑奈のためと、杏子さんはそう信じていた。

 柑奈はそれでも、杏子さんの指示に従っていた。

 その理由までは分からない。

 幼い子供が親の言うことに従うのは、当然のことを思っているからかもしれない。

 期待を裏切りたくないと思ったのかもしれない。

 逆らえば捨てられると思ったからかもしれない。

 もしくは、暴力なんて……。

 柑奈はすべてを忠実にこなしていた。

 だけど、柑奈の体は、それについていくことができなかった。

 柑奈は倒れ、病院で足の疲労骨折と診断された。

 帰ってきた父親の一功さんは、そこで初めて実情を知った。

 一功さんは杏子さんを追求し、真実を知ると、離婚を言い渡し、そして一功さんの実家がある福井に戻ってきたのだ。


「変な巡り合わせだよね」


 もし杏子さんが健全な指導をしていれば、柑奈が福井に来ることはなかった。

 そして、私との出会いも……。


(だめだめ!)


 頭を振って、嫌な想像を追い払う。

 柑奈と出会っていなかったらなんて、そんな想像はしたくない。

 杏子さんのことを知ったのは、柑奈が倒れてから、一功さんから聞かされたから。

 彼もきっと、柑奈が倒れたからひとりですべてを背負い、だけど耐えられなかったんだと思う。

 柑奈と出会ってから、私は速く走るための指導を一功さんから受けていた。

 その付き合いは長く、約七年だ。

 家族ぐるみの付き合いで、ゴールデンウィークやお盆の時期にはよく村上家を招待して、家の前でバーベキューをしたりした。一功さんは私を本当の娘のように大切に育ててくれた。

 そのおかげで、私は百メートル走者として全国クラスにまでのぼりつめた。

 だから、そんな関係だから、一功さんは柑奈が昏睡状態になって初めて、弱音を見せたんだと思う。

 そこで私は、杏子さんが幼い柑奈に行ったこと、そして――一功さんがガンを患っていたことを知った。

 一功さんは末期で、柑奈に関することで心労が重なったせいか、去年の年末に亡くなった。

 葬儀はどうなるのだろうかと思っていたところに現れたのが、杏子さんだった。

 一功さんは、自分の死期を悟り、杏子さんと連絡をとっていたらしい。

 幼い頃に憧れていた立花杏子という人物像が、一功さんから聞かされた話によって、憧れから憎む対象になっていた。

 実際に目の前にしたら、相手が大人であろうと罵ってしまうのではないか――そう思っていたはずなのに、柑奈の病室で初めて顔を合わせたとき、そんな気持ちは一瞬にして流れ落ちたのだ。

 これが本当に大人なのだろうかと思うほどに、目の前にした女性は小さかった。

 身長とか体格の話じゃない。

 世界に挑戦し、日本一にまでのぼりつめた人が、こんなにも儚く、弱々しい人なのかと、私は愕然とした。


『あなたが吉田さん? 一功さんから聞いてるわ。柑奈のこと、ありがとう。よければ、これからも柑奈に会いに来てあげてほしいの。私に遠慮はいらないから』


 そのときの作り笑いが、あまりにも惨めに思えた。

 私は怒ることも責めることもできず、ただ『ありがとうございます』とだけ言って頭を下げながら病室を出て行った。

 あんな、あんな人が柑奈の母親で、一功さんが選んだ人で、私が憧れていた人だったなんて――それが信じられなくて、私は誰もいないところでひとり、静かに泣いていた。

 それから杏子さんとは何度か顔を合わせるも、軽く挨拶をかわすだけ。

 杏子さんの方は、いつも『ありがとう』と言って、笑っていた。

 杏子さんはあまり柑奈の病室を訪ねてこない。

 だから、杏子さんの言う『ありがとう』が、私には『代わりに顔を出してくれてありがとう』と聞こえて仕方がないのだ。

 それは、今の柑奈が杏子さんにとって価値のないものになってしまったからなのか、それとも罪悪感からなのか、私には分からない。


「そういえば、転校生と杏子さん、知り合いみたいなんだ」


 今日の朝の出来事が、脳裏によみがえる。


「転校生が、私と一緒に走りたいって。だから、部活に戻って来い、って」


 立ち上がり、椅子を手に持って柑奈の足下に移動する。

 布団をめくり、足のマッサージを始める。


「でも、陸上部には杏子さんがいるから、顔出しにくいんだ」


 あらためて、柑奈の足を見やる。


「私は、柑奈と走りたい」


 細く、白い肌。陸上競技者どころか、普通に歩くことすら難しそうに思えてしまうほどの骨ばった足。

 この二年間、柑奈の足を触り続けているから分かる。

 肉ではなく、まるで骨を押しているような感覚。

 それが、堪らなく恐ろしくて、考えないようにしているのに考えてしまう。


「また、一緒に走れるよね」


 縋るような声。


「柑奈と走りたい。私は、また柑奈と走りたいんだよ。柑奈と、柑奈となら、柑奈じゃなきゃ、嫌だよ。私の前を、走ってよ。柑奈の背中を見ていたい。誰よりも速い、あの柑奈の背中を」


 ずっと、柑奈の前で陸上の話はしないようにしていた。

 もし聞こえていたら、柑奈にとっては辛いことだと思ったから。


「憶えてる? このときの走り」


 スマホを取り出し、自主トレの最後に行う全力疾走で流している録音を再生させた。

 瞼を閉じると、鮮明に思い出せる。まるで、その場にいるかのように。


『On your marks』


『Set』


 ――パァァァン!


 そこで瞼を開き、再生を止める。


「……え?」


 目の前の出来事に、私は目を見開いた。


 ――ピク、ピク、ピク。


 柑奈の足の指が動いていた。

 ぎこちない動き。

 だけど、その動きがまるで、地面を蹴っているようで……。

 その動きは気がつけば止まっていた。

 おそらく、十秒ほど。

 そこで動きが止まる。

 百メートルの距離を、走り切ったかのように……。


「う、うそ……」


 思わず立ち上がり、後ずさる。

 すぐ後ろの壁に背中を貼りつけ、剥き出しになった柑奈の足を見る。

 動いていない。

 ずっと動かなかった。

 それが、動いた。

 見間違いではない、はずだ。

 願望が見せた幻でもない、現実。


「な、七瀬さんに……」


 気がつくと私は病室を飛び出し、受付へと走っていた。 

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