一章 日常

 歓声が、どよめきに変わる。

 フィニッシュと同時に視界から消えた柑奈に、私は勢いをすぐには止めることができず、遅れて振り返ると、


「柑奈っ!」


 トラックに倒れている柑奈が、そこにいた。

 まわりの選手たちが立ち尽くすなか、私は迷わず駆け寄り、ぐったりとしている柑奈に手を伸ばし、そっと仰向けにした。


「柑奈っ!」


 目を閉じ、口をうっすらと開いた状態の柑奈の顔は、激しくトラックに打ちつけたせいで、右側の頬や耳が擦過傷で真っ赤になっていた。


「柑奈……」


 よく見ると、腕や脚にも同じような擦過傷であり、目を背けたくなるほどに酷い状態になっていた。


(なんで、どうして?)


 そんな疑問が頭をぐるぐる回る。

 足をくじいたのか、バランスを崩してしまったのか。

 だけど、柑奈に限って、そんなことあるはずが……。

 目の前の柑奈のあまりの変わりように、ただ茫然としていることしかできなかった私を、駆けつけてきた救護担当の女性が後ろに下がらせる。

 半ば引っ張られるようにして下がらされた私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 二人の女性が、柑奈の状態を確かめていく。

 そのうちのひとりがスマホをスピーカーにして119番から救急を要請しながら、状況を伝えている。

 もうひとりは応急処置を始めているが、その手は頭に向けられていた。

 柑奈の頭を探るようにして触り、一度手を離す。

 その指が、赤く染まっていた。

 血だ。

 その事実が、私の頭がガツンと叩き、くらくらさせる。

 取り出したガーゼを出血部分に当て、止血しようと押さえている。

 救急車を待っている間、アナウンスが大会の中断を知らせたり、大会関係者たちが走り回ったり、他の競技選手たちが遠巻きに見ていたりと、私は柑奈の状態を見ていられず、他のことに意識を向けようとしていた。

 しばらくすると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

 音はどんどん大きくなって、その車体がトラック競技場内に入ってきた。

 救急隊員が駆け寄り、救護担当者と入れ替わり、引継ぎを行っている。

 すぐに担架が運ばれ、柑奈がそれに乗せられると、あっという間に救急車に乗せられ、走り去っていってしまった。

 サイレンが再び鳴り響き、今度は遠ざかって行く。

 状況を見守っていた、あるいはただ見ていた人たちがばらけていくなかで、ただ佇んでいた私を見かねた救護担当の女性が近づいてきた。


「あなた、大丈夫? 知り合いの子だったのよね?」


 肩に手を置かれたところでようやく気づいた私は、その女性の方へ顔を向けた。


「あなた……」


 そんな私の顔を見た女性が、目を見開く。

 そのときの私がどんな顔をしていのかは分からないけど、酷かったに違いない。

 やおら、会場が湧き出した。

 近くに立っていた人たちが同じ方へと顔を向けているのを見た私は、釣られるようにして踵を返した。

 そこには、1着の記録を表示するための電光掲示板が置かれていた。

 それを見た私は、目を見開いた。


 11.40


 それは、高校女子百メートルにおける、新記録のタイムだった。

 まわりがざわついている。

 本当なら、大喝采が起きていてもおかしくはない状況なのに、その拍手喝采を受ける当人がいない。

 いない……柑奈が、いない。

 柑奈が……。


「ちょっ! あなた――」


 隣にいた女性の声が聞こえたけど、私はそこで意識を失っていた。


            ※


 ピピピ、ピピピ、ピピピ――


「ん……」


 枕元に置いたスマホのアラーム音に、私は目を覚ました。

 体を横にしてスマホを手に取って、スヌーズを解除する。

 四月の寝起きの布団のあたたかさは、一日の始まりにしては心地が良すぎる。

 それでもルーチンと化した日常が、私を目覚めさせる。

 体を起こして西側の出窓のカーテンを開けると、すでに朝日は昇っていた。


「はぁ……」


 上体を起こしたまま、しばらくそのままでいる。

 たまに見る夢。

 決して悪夢ではないが、あの夢を見たときの目覚めは、いいものではない。

 起きたとき、あのときの医療室のベッドなのか、それとも自分の家のベッドなのか、一瞬だけど混乱してしまう。

 だから、こうやってしばらくそのままで、心臓の動悸がおさまるのを待つ。

 まるで追体験したかのような感覚に、これは夢だ、と言い聞かせ、心を落ち着かせていく。

 酷いときには、体じゅうから汗が噴き出し、くらむときもある。

 それも二年も経てば、慣れたおかげか、こうやって冷静に受け止めることもできるようになっていた。

 嬉しいことではないけど、体も心も少しは楽になった。


「ふぅ」


 落ち着いたところで、ゆっくりと深呼吸すると、スマホの横にある白のリボンを手に取ると、慣れた手つきでポニーテールにした。


            ※


 私が通う春江高校の制服はセーラー服で、上は白色でスカーフは紺色に指定されている。

 膝上のスカート丈に、膝下の黒ソックス。

 ロードバイクが趣味である父親が買ってくれたクロスバイクで通学する私は、出身地である福井市の森田地区のすぐ隣――坂井市春江町にある春江高校に通っている。

 今日から新学期で、私も三年生だ。

 高校に着くと、昇降口に貼り出されていたクラス分けに従って、私は三年一組の教室に入った。


「吉田さーん」


 窓側の一番前の席に座すクラスメイトが手を振って名前を呼んでいる。


「伊月さん。今年もよろしく」


 私は後ろの空いている席に座り、リュックを机の横のフックにかけた。


「なんだかんだで三年間一緒なクラスだね」

「そうだね」


 そう言って、笑い合う。

 伊月さんは小学生のころからの同級生だが、小中時代は話したこともなく、同じ高校の同じクラスになって初めて言葉を交わした仲だ。

 柑奈以外では、私が気兼ねなく話すことのできる唯一の相手となっている。


「ねぇねぇ、転校生の話きいた?」

「きいてないけど……」

「隣のクラスらしいんだけど、背が高くて、キレイな子なの」

「ふぅ~ん」


 私は興味がなさそうに――いや、実際に興味のない返事をした。


「職員室通ったときに、ちらっと見たけど、あれは一度見たら忘れられないよ。それにね――」


 私は机に肘をついて手に顎を乗せたまま、伊月さんの話を右耳から左耳へと流していた。


            ※


 始業式が終わると、次に入学式があるため、在校生は午前で下校になっている。

 ホームルームが終わると、私は立ち上がってリュックを担いだ。


「今日はお昼から?」

「うん」

「じゃ、また明日ね」

「うん。また明日」


 手を振る伊月さんと別れ、早々に教室を出る。伊月さんはいいクラスメイトだ。

 私の事情を知っているから、絶対に遊びに誘ったりはしない。

 私と伊月さんの関係は、学校内で完結している。

 あれから二年経つが、伊月さんとは一度も学校以外では会ったことがない。

 遊びに行ったりとか、一緒に勉強会をしたりとか、高校生の友達ならば当たり前にやりそうなことを、私は放棄している。

 それを理解し、それでも尚、伊月さんは学校内で私なんかの相手をしてくれている。

 本人を前には決して言えないが、最後の一年を伊月さんと同じクラスで過ごせるのは、本当に幸運なことだと思う。

 廊下を歩き、隣の教室を通り過ぎる。

 伊月さんの言っていた転校生がいる教室だが、まったく興味のない私は、そのまま真っすぐに昇降口へ向かった。

 そのとき、教室の後ろのドアが開き、ひとりの女生徒が飛び出してきた。

「――ッ!」

 突然のことをにぎょっとする私の前に、その女生徒が立ち塞がる。

 最初に感じたのは、この女生徒が、伊月さんが言っていた転校生だということだった。

 背が高くて、キレイ系――というよりは、どこか冷たさを感じる。

 肩よりも少し長い天然パーマの髪。

 セーラー服も、手足の長いこの人が着ていると、どこか大人びて見える。


「あの……」


 立ち塞がるその人に声をかけると、


「あ……ごめん、なさい」


 申し訳なさそうに、その人は横へとずれてくれた。

 私は内心で首を傾げながらも、当初の予定を思い出し、すぐに走り出した。


            ※


 揺れるポニーテール――そして何よりも、それを結ぶ白いリボンに、私は確信した。

 間違いなく、彼女こそが吉田結衣だと。


「結衣……ちゃん」


 全身が総毛立ち、熱い吐息が漏れる。

 それと同時に、寂しさが込み上げてくる。

 それでもこうして目の前にすることができたことに、私は喜びを感じずにはいられない。

 あとは、呼び止めることができなかった臆病な自分を叱咤して、


(明日こそ、声をかけてみせる)


 そう心の中で決意して、私は胸の前で拳を握りしめた。


            ※


 クロスバイクで校門を出た私が向かった先は自宅ではなく、県立大学医学部付属病院だった。

 病院の正面入口からエントランスに入り、そこから目的の病棟に向かった。

 辿り着いた先――病棟の入口にあるプレートに刻まれた病棟名は、『慢性疾患医療センター』だった。

 病棟に入って受付に向かうと、


「あら、今日は早いのね、結衣ちゃん」


 そう言って、七瀬さんがバインダーをカウンターに置いた。

 七瀬さんは二十代後半の女性で、この病棟ではまだ新人扱いになっている。

 二年間ずっと顔を合わせているが、とても人当たりのいい性格で、私もいまでは気兼ねなく話せるようになっている。


「今日は始業式と入学式だから、午前中で終わりなんです」

「そっかぁ。結衣ちゃんも、もう三年生かぁ」


 肘をついた手に顎を乗せ、七瀬さんがどこか遠い目をする。

 私はバインダーを手に取り、もう何百回も書いた内容を今日も書き連ねた。


「そうですね。はい」


 バインダーを渡すと、七瀬さんがそれを受け取り、じっと見つめる。


「あれから、もうすぐ二年になるんだね」

「ですね」


 その言葉に、私は笑みで返した。


「それじゃあ、お仕事がんばってください」


 手を挙げて見せ、そのまま受付を離れると、いつもの病室へと向かった。


            ※


「はぁ~」

「こ~らっ」


 溜息を吐くと同時に、手に持ってじっと見つめていたバインダーを背後から取られ、それで頭を小突かれた。


「病院で溜息なんて吐かないの。縁起でもないんだから」


 くるりと椅子を回すと、先輩看護師が立っていた。


「でも、溜息も吐きたくなりますよ」


 全然痛くなかったけど、痛いアピールをするようにして頭を撫でる。


「まぁ、気持ちは分からないでもないわ」


 先輩の視線が、結衣ちゃんの歩いていた方へ向けられる。


「先輩は……ここ、長いですよね」


 ここというのは、このセンターのことだ。


「ええ」

「ひとつ、聞いてもいいですか?」

「答えられることならね」


 先輩が振り返り、目が合う。


「……奇跡って……見たことありますか?」

「奇跡……ねぇ」


 自分でも馬鹿な質問をしていると思いながらも、聞かずにはいられなかった。

 先輩は茶化すことなく、真剣に考えてくれた。


「奇跡はあるわ」

「ホントですか!」

「でもね」


 思わず立ち上がりそうになったところを、先輩の言葉が留める。


「その奇跡っていうのは、人が起こすものなの。待つでもない。願うでもない。祈るでもない。なんでもいいから、することが大事なのよ」

「する……こと……」


 もういなくなった結衣ちゃんの背中へと視線を向ける。


「だから、私たちも頑張りましょう」

「そうですね」


 私たちの仕事は、ここに入院している人たちのケアをすること。

 そうすることで、目を覚ましたとき、体を動かすことができるように。


「私も頑張る。だから、結衣ちゃんも……」


 行動することは大事だ。

 だけど、それでも……どうしても祈らずにはいられず、願わずにはいられない。

 どうか、あの二人に幸せな未来が訪れますように、と。


            ※


「柑奈」


 病室のスライドドアを開け、個室に入った私は、部屋の真ん中にあるベッドへと近づいた。

 そこで眠っているのは、柑奈だった。

 淡い水色のパジャマを着たその上に布団がかけられていて、黒いリボンで一本にまとめられた髪が、枕元に流れている。

 まるで眠っているような、無防備な表情。柑奈は眠り続けたままで、もうすぐ二年が経つ。

 あの二年前の北信越大会で、柑奈はフィニッシュと同時に意識を失い、トラックに頭部を強打した。

 そのせいで、柑奈は脳に損傷を受けたせいか、昏睡状態となってしまったのだ。

 呼吸は自発的にしているし、痛みにも反応を示している。

 だから、脳死ではなく、まだ生きている。

 ただ、目覚めないだけ。

 私は壁際に置かれた背もたれのない丸椅子を引き寄せ、柑奈の横に座った。


「今日はね、学校で始業式と入学式が行われたんだよ。私も、もう三年生だね」


 柑奈のお見舞いは、私の日課だ。

 毎日欠かさず病院まで出向いて、こうしてその日のことを報告している。

 耳が聞こえているのかどうかは分からない。

 だけも、もし聞こえているなら、こうして毎日のことを報告することで、柑奈が目を覚ましたとき困らないで済むから、だから私は毎日通っている。


「伊月さんとも同じクラスだったよ。本人の前では言わないけど、伊月さんが一緒なクラスでホッとしてるかな。私、柑奈以外に友達なんていなかったから」


 自嘲するようにわざと笑って見せる。


「それとね、転校生が隣のクラスに来たよ。三年生から大変だろうに、親の事情かな? まぁ、私には関係ないけどね」


 他愛のないことを、ただ語りかける。

 だけど、陸上のことは話したことがない。

 もし聞こえていたら、柑奈の負担になると思ったから。

 だから、話すことはいつも学校の授業とか、季節のこととか、本当に他愛のことだけ。


「今日は早かったけど、また明日から放課後に来るから」


 今日の報告を終えた私は立ち上がって椅子を手に持つと、今度は柑奈の足下の方へ移動し、再び腰を下ろした。


「じゃあ、いつものやつ、やるね」


 布団をめくり、柑奈の素足をさらけ出す。

 どこか細く、頼りなさげに見える。

 この足で本当に歩くことができるのだろうかと、不安になってしまうほど。

 だから、私は病院側の許可をもらって、足のマッサージをしている。

 指で足の裏を押したり、揉んだり、指の一本いっぽんを動かしたり、足首を回したり。

 昏睡状態の柑奈は、筋肉の衰えが著しく、七瀬さんたちが定期的にケアをしてくれている。

 ここのセンターに勤めている人たちはみんな理学療法士の資格を持っていて、それがなければ仕事として患者をケアすることはできない。

 そんな七瀬さんたちが柑奈をケアする姿を見て、私もなにか柑奈のためにできないだろうかと七瀬さんに訊いたところ、「陸上選手だったんだから、足をマッサージしてあげたらいんじゃないかな」と言ってくれたのだ。

 それから私は毎日病室を訪れ、柑奈が目を覚ましたとき、すこしでも早く走れるようになるために、こうやって足のマッサージをすることにした。

 雨の日も、風の日も、夏の猛暑日でも、冬の大雪でも、私は通い続けた。

 特別な日は柑奈の病室で祝い、休日は早めに来て、少しだけ長居する。

 これが、私の日課であり、日常なのだ。

 苦行でもなんでもない。

 日常なのだから、当たり前のこと。


「今日のマッサージは終わり」


 布団を戻し、椅子を戻すと、私はドアの前で振り返り、


「また明日も来るね」


 そう言って、病室を後にした。


            ※


 慢性疾患治療センターがある病棟には、メディカル・フィットネスを目的としたジムがある。

 そこには、生活習慣病などといった様々な疾病予防を目的とした運動設備が整っていて、専門スタッフによる指導も受けることができる。

 それだけでなく、医師のサポートもあり、肉体管理だけでなく体調や健康管理も行われている――と言う内容を初めて訪れたときに説明されたことを思い出していた私は、いつものようにトレーニングを始めた。

 陸上競技走者にとって必要な筋肉をつけ、肉体のパフォーマンスを上げる。

 広々とした空間に、私のようにトレーニングを目的とした人も利用できる器具もあれば、リハビリをするための器具もある。

 だから、ちらほらと車椅子や松葉杖をついた人たちも見かけたりする。


「あら、吉田さん。こんにちは」


 トレーニングをしていたところに、柔和な笑みを浮かべる妙齢の女性が声をかけてくれた。


「三島さん、こんにちは」


 このジムのスタッフの三島さんは、私にトレーニングのあれこれを教えてくれた人で、毎日一時間行っているトレーニング内容も、三島さんが考えてくれたものだ。

 ここを利用し始めた当初はがむしゃらで、それこそ体を壊してでも鍛えなければという一種の強迫観念のようなものに縛られていた私だったけれど、それを見ていた三島さんに厳しく説教され、それからやさしく諭された。

 そして試してみてと言われたトレーニングを続けた結果、私の体は自分でも目に見えて鍛えられていったのだ。

 それからはもうトレーニングに関しては三島さんを崇め奉り、三島さんの言うことは絶対で、私はそれに従って己を鍛え続けた。

 私は別にマッチョになりたいわけじゃない。

 必要な筋肉を、必要なところに必要な分だけ――これが三島さんのモットーだ。

 やっていると物足りなさを感じるが、そのひとつひとつを三島さんがちゃんと説明してくれたため、今は納得しながらやっていけている。


「調子はどう?」

「すこぶるいいです。これも三島さんのおかげです」

「私はただメニューを考えただけよ。えらいのは、それを実行し続けている吉田さんなんだから、もっと自分を褒めてあげて」


 三島さんは常に笑みを浮かべ、その声音もやさしく、そして褒めて伸ばすタイプであるため、ジム内でも人気が高い。

 そんな三島さんは、理学療法士の資格ももっているため、私のようなトレーニングを目的とした人の指導だけじゃなく、リハビリに関する指導も行っている。

 もちろん、センターの患者のケアも。


「いえ、私はただ、お見舞いのついでに通っているだけで……」

「トレーニングってすごく地味だから、続けるって本当に難しいの。ほとんどの人が最初は頑張れるけど、続けられない。吉田さんはもうすぐ二年経つけど、私は吉田さん以外でここに通い続けられている人を知らないわ」


確かに、トレーニング中はよく周りの人たちを観察していたけど、すぐに見なくなった人もいれば、見慣れない顔が現れたりなど、その入れ替わりが激しかった。


「吉田さんを見てると、続けることの大事さを痛感させられるわ」

「そんな……」


 三島さんにそんなことを言われると、どうにも照れてしまう。


「続けることで、求める結果が得られる。結果を得るには、続けるしかない」


 三島さんが、ふと視線を横に向ける。


「それがどんなに辛くても、先が見えなくても、続けるしかない」


 その視線を追うと、そっちはリハビリ用の器具が置かれている場所で、足を怪我した人が歩く練習をするための平行棒や昇降台があった。

 その平行棒に、女の子が掴まっていた。すごく辛そうな表情で、棒に掴まっているだけでやっとで、歯を食いしばってただ立っていることしか、いや、それすらも苦しそうで、見ているだけで胸が痛む。

 その女の子が力尽きたように床に尻餅をついた。


「ごめんね、吉田さん」

「いえ、行ってください」


 三島さんが女の子の方へ駆け寄っていく。

 私はそれを傍目で見ながら、トレーニングを再開した。

 今日頑張ったら、明日は筋肉の休息日だ。


            ※


 今日のトレーニングはまだ終わらない。

 クロスバイクで自宅に戻った私は、そのまま家のすぐ近くにある九頭竜川へと向かった。

 橋と橋との間にある土手は車の通行が禁止されているため、ここは人や犬の散歩によく利用されている。

 河川敷には河川公園があり、駐車場と芝生が広がっている。

 駐車場は休日だけ解放されるため、平日は進入を防ぐためのゲートが閉じられている。

 そんな利用者のいない駐車場は、トレーニングにうってつけの場所だった。

 まずは軽くストレッチ。あまり無理に伸ばしすぎないようにする。どんなことでも、無理をすれば、それは故障に繋がる。

 スポーツ選手にとって、故障は何よりも恐れなければならないこと。

 だから、自分自身の体を鍛えつつ、守らなければならない。

 もう何百回と行ってきたメニューを、今日も行う。

 それが、私の日常。繰り返し、繰り返し、同じメニューをこなす。

 そうやって己を鍛え、高みへと昇っていく。

 そうすればいつか、ずっと見てきた背中を追い抜き、あの壁を越えることできるはずだから。

 駐車場で私はひとり、黙々とメニューをこなしていく。

 まずは、どれだけスタートダッシュを速くできるか。

 スマホで音声ファイルを再生させる。

 どこかの会場で録音したようなざわめきが聞こえる。

 そのざわめきに、スピーカー音が割って入ってきた。


『On your marks』


 ざわめきが消える。

 家から持参したスターティングブロックに足をセットし、両手をごつごつしたコンクリートに置く。

 この練習は、本番に近い状況に体を慣れさせるためのものだ。

 スターターピストルの電子音によるスタートダッシュ。

 そしてスターティングブロックの使用。

 手拍子でもなければ、かけ声でもない。

 本番で使用される音と同じものを使う。

 それに体を慣れさせることで、本番での無駄が削ぎ落されるから。

 陸上競技の短距離走。

 その中でも百メートル走ともなれば、勝敗はコンマ一秒で決まることもある。

 そのコンマ一秒で勝利するために、無駄という無駄を削ぎ落し、己の肉体のすみずみまでを鍛え上げる。

 すべてはこの、コンマ一秒のために。


『Set』


 腰を上げる。

 このときの姿勢や、重心、どこに力を入れるか。

 練習の時間において、無心ではいる時間はない。

 メニューのすべてには、それをする理由があり、だからこそ考える。

 考えて、考えて、考えて、それが正しいのか、どこか間違っていないか。

 鍛えられている実感はあるか、違和感はないか。

 己の体と向き合い、問いかけていく。

 そうやって対話を試みれば、体は応えてくれる。

 そうすることで、自分の体を知ることができるのだ。

 スマホから音が消える。

 ざわめきも聞こえず、合図を待つ。

 選手だけでなく、競技関係者や観客までもが、この瞬間だけは、口を閉ざし、服の擦れる音さえを気にするかのように、動きを止める。

 そして、『パァァァン!』とスターターピストルの電子音が鳴ると同時、私はスターティングブロックを蹴り、スタートダッシュの練習に励むのだった。


            ※


「ふぅ……」


 スタートダッシュの練習を五本するころには、汗を流し、肩で息をしていた。

 そして、最後の一本を決めるため、もう一度同じ工程を繰り返した。


『On your marks』


 スマホの音で、スターティングブロックに足をセットする。

 練習で行う最後の一本は、百メートルの距離を本番と同じように全力で走る。

 私は視線を横に向けた。

 すると、向こうも同じように、こっちに視線を向けてきた。

 私の隣で、同じようにスターティングブロックに足をセットする人影。

 それは間違いなく、親友でありライバルでもある、柑奈だった。

 だけど、違う。

 柑奈がこんなところにいるはずもなく、しかも服装が、あの時と同じユニフォームだ。

 これも今や、私にとっての日常。

 だから、同じことを繰り返す。


『Set』


 私と柑奈は同時に腰を上げ、スタートを待つ。

 そして、スターターピストルの電子音と同時に、私たちはスタートした。

 駐車場を駆け抜けていく。

 ここで練習を始めた頃、メジャーを借りて、百メートルの距離を測ったことがある。

 だから、スタート地点を必ず同じ場所に決め、ゴール地点を目印になるようなところに決めた。

 それは、駐車場に引かれた白線だ。

 そのフィニッシュラインに向かって、私は走った。

 だけど、柑奈の方が速い。

 柑奈の走りは、今までずっと変わっていない。

 同じスタートダッシュ、同じトップスピード、同じ速度維持、そして――同じタイム。


(こ……のぉ……!)


 練習ではあんなに考えて走っていたのに、本番を想定して――しかも柑奈と走ると、頭が真っ白になってしまう。

 スタートダッシュが柑奈に劣る私が勝つには、トップスピードの上限を上げ、さらにはそこからその速度を維持するだけの持久力をつけなければならない。

 少しずつ柑奈へと並んでいく。

 だけど、並びきる前に、私の足は白線を踏んでいるのだった。

 そのまま駐車場を越え、芝生に足を踏み入れると速度を落としながら歩き、止まると同時に芝生に倒れ込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 仰向けになって両手両足を広げて大の字になる。

 膨らみのない胸を大きく上下させながら、薄く雲のかかった空を見上げる。

 体じゅうの血液がドクドクを駆け巡り、頭に心臓があるかのようにこめかみが脈打つ。

 風を受けて走っている間には感じなかった体から発せられる熱が、湯気となって放出されていく。


「はぁ……はぁ……」


 落ち着いた体を起こした私は、視線を左へ右へと動かした。そこに柑奈の姿はない。


「はぁ……」


 ゆっくりと立ち上がり、体についた芝生の葉を叩き落としながら、スタート地点に戻る。

 縁石に置いたスマホを手に取り、画面を見やる。

 スタートダッシュの練習に使っている音声ファイル――『2017_06_18』


 今から二年前。

 場所は、福井県福井市にある福井県営陸上競技場『9.98スタジアム』。

 その女子百メートル決勝。

 つまり、私と柑奈が競走した、あのときの音声ファイルだ。


「柑奈……」


 スマホの画面を消し、スターティングブロックを回収する。

 ここで練習をする際に現れる柑奈。

 それは、そのときの柑奈なのだ。

 11.40という記録を叩き出した柑奈の走り。

 その圧倒的なまでの壁に、私は毎日挑み、毎日敗れている。

 私の目に見える柑奈は、幻覚か、それとも……。


「柑奈……」


 スマホを胸に当て、抱きしめるようにして背中を丸くする。

 今日も私は、柑奈に勝てなかった。

 帰ろう。

 顔を上げ、土手をのぼろうとした私の視界の端に、人影が映った。

 土手の斜面に生えている桜の木。

 枝葉がちょうど土手の上でアーチのように広がっているその下に、人が立っていた。


(あれって……)


 遠目で分かりにくいが、春江高校の制服――しかも女子だ。

 すらっとして見える足が、女子にしては背の高さを伺わせる。


(まさか……)


 こっちの視線に気づいたのか、その女子は振り返り、土手を歩いて遠ざかって行った。

 走って追いかければ追いつけただろう。

 だけど、私は追いかけるどころか、一歩も動けなかった。

 見上げる者と、見下ろす者。

 まるで、お前の方が下だと言われているようで、足が竦んでいた。

 何も戦うわけではないのに。

 だけど、まさか本当に勝負することになるなんて、そのときの私は思ってもいなかった。

 そして、彼女の正体にも。

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