現にうつつを抜かす

 やばい。ちょっと真面目に眠れない。

「マジかぁ。念願叶って、だけど。……マジかぁ!」

 スマホの画面に綴られた、たったひと言『おやすみ』の文字。この四文字に、俺はどうしようもない程の幸せを感じている。

 偶然マサの家の方へ歩いただけ。一本手前にある道をいつもなら曲がって帰るけど、今日はそうしなかった。ただそれだけなのに、ハルがいた。いや、表向きはただのクラスメイトだ。それしかない。学校以外で会ったことはない。遊びたいけど、ホラ、学祭とか球技大会とかの打ち上げがあるかもだし。まだ、オアズケなだけで、その内あるし。

 と、まぁ。こんな具合で片思いを拗らせて、今日の今日まで連絡先を交換できずに過ごしていたのだけれど、どうだろう。あんなに優しいハルが、まさか剣道をやっているなんて!清水程ではないにしても、確かにがっしりとしているし、なんだか納得ではある。オマケに、とびきりの笑顔--と思っているのは髙橋だけだが--で「メアド知らなくね?」とハルから言ってくれたのだ!神に感謝する以外ない。

「ゆーじ、起きてんの?」

「んー?そうだけど。なに」

「早く寝なよー。明日も学校でしょ」

「わーってるよ」

 ドアの向こうから話し掛けてきた姉に答え、布団の上でゴロリと寝返りをうつ。手の中のスマホの左上にもゼロが二つ並んで俺に、寝ろ、と言っている。分かっている。けど、治らないのだから仕方がない。いや、変な意味ではなくて。

「ダメだ。とりあえず目ぇ瞑ろ。その内寝れるって信じてる」

 そう言い聞かせて枕に顔を埋める。

「柳田晴樹です。一年間よろしくお願いします」

 二年に上がってクラスは文系と理系で分けられた。元々数学も化学も大嫌いだった俺は仕方なく文系になったのだけど、思っていたよりも女子ばかりで少し後悔していた。だから、すっと立って自己紹介していたのが男子で少し安心したのを覚えている。

「あれ……柳田、部活は?」

 担任は把握していなかったのか、それともただ言わせたいのか、座ろうと身体を折った男子に聞いた。

「え?ああ、帰宅部でーす」

「へぇ」

 特に興味もなくて、でも突っ伏していたら怒られるから机の下でマンガを読んでいたのだけど、周りの女子が「意外」と呟いたから思わず顔を上げたのだ。

 目に飛び込んできたのは明るくヘラリと笑うと目尻に皺ができる、八重歯と笑顔がチャーミングな男子。その表情から目が離せなくなって、ジッと見てしまった。

 一目惚れだった。

 その一瞬で、あ、これ、好きだ、と心臓を射抜かれたような、なんとも言えない感情が湧いて。それからずっと、ずっと、ハルのことが多分好きなんだ。

「まだ時間あるから、バースデーチェーンやるか」

「なにそれ?」

「え、お前ら知らねぇの?」

「私やったことあるー」

 知らない、やったことある、とそれぞれ好き勝手に話すクラスメイトの中で、俺とハルだけはバチッと合ってしまった視線を逸らせず、互いに笑って誤魔化したのだ。

「ジェスチャーだけで誕生日伝えろよ。耳打ち禁止!つか声出すな。四月一日生まれから順で始まるように、廊下側の席から座ること。それで並びが合ってたら成功な」

 スタート、と担任が手を打ちクラスメイトが動き出す。席から立って、知っているやつを捕まえようと目を巡らせるが、残念なことに小学生以来話していない女子しかいなかった。肩を落とすと、その肩を叩かれる。

「ヌッ!?」

「ちょ、シー」

 口元に指を立て、目尻に皺を寄せて笑うハルが目の前にいた。ハルはチラリと担任を盗み見て、大丈夫なことを確認してから両手を出し、片方だけ折って、ピースして、また折ってと動作を繰り返した。九、二、八、となったそれをハルの誕生日と理解するのは簡単で、そうなんだ、と頷く。顔を上げるとハルが優しく笑っていて、それで--

 けたたましく鳴る電子音に、そこにいるはずのハルの顔がどんどん掻き消されていく。

「マジかぁ」

 拗らせ過ぎて、とうとう夢にまで出てきた。いや、今日からは話すネタあるし、なんなら部活でいいとこ見せて、って来るのは清水か。ああ、清水はなんて呼ぼうかな。下の名前知らないな。マサに聞こう。

「おはよ」

「おはよ。早く顔洗って来ちゃいなさい。もういい時間よ」

「あ、マジだ」

 廊下で母に遭遇し、準備を急かされる。本当なら朝練とかやればいいのだろうけど、強豪ではないからそんなものはない。脱衣所へと足を向け、ひとつ欠伸をする。

「おはよ」

「おはー。早く退いて」

「あとアイライン引いたら終わりだから、ちょっと待って」

「リビングでやりゃいーじゃん」

「うるさいなぁ」

 姉が鏡の前を占拠する洗面台でプラスチックのコップに水を汲む。口に含み数回転がしてから吐き出して、歯ブラシにチューブから出した歯磨き粉を載せて。毎朝の用意を淡々と進めようと歯を磨いていると、ドンと姉の肘が鳩尾に入った。

「んーん!」

 歯ブラシを口からは出さずそのまま抗議するけど、姉は軽く、ごめんごめん、とだけ言ってガチャガチャと化粧道具をポーチにしまい洗面所から出て行った。それを見送ってシャコシャコと歯を磨き続ける。そろそろいいか、と思い泡立ってドロドロになった歯磨き粉を吐き出した。ついでに舌も磨いて、さらに爽快感を求める。少し痛むような気がするけど、丁度いいだろうと少しだけ泡立った歯磨き粉を吐き出して、コップに汲んでいた水を口に含む。吐き出すと口の中がスースーした。バシャバシャと顔を洗いタオルで拭くと少しヒリヒリした。

「侑司、早くごはん食べなさい!」

「今行くー」

 洗面所からバタバタと足音を鳴らしながらリビングへ行く。ああ、今日も慌ただしい。

 朝メシ食って、洗口液で口をスッキリさせながら制服に着替えて、エナメルバッグ担いで、そのまま玄関へと走る。

「いってきまーす」

「ちょっと、お弁当!」

「持って来て!」

「ハイハイ!はい、いってらっしゃい!」

 いってきます、とまた言ってバンダナで包まれた弁当箱を受け取る。

「あ、はよ」

「なんだっけ、髙橋?」

「正解」

「だ、え!」

「なに、誰かいたの?」

「なんでもない」

 と、短く答えてドアを閉める。

「なんで、遅れるけど」

 精一杯の笑顔を作って家の前にいたハル……と清水に言うと、ハルはヘラリと笑って清水を指差した。そのまま二人の横に並んで歩くと、身長差のせいか少し早足になってしまう。

「コイツ、朝のランニングついでにウチまで来んのが日課なんだわ」

「んで柳田ん家でシャワー借りてから行く」

 な、とハルが嬉しそうな、いや、いつもの明るい笑顔で清水に言うと清水がそれに頷いた。一方の清水はなんてことない顔をしてプロテインバーをムシャムシャと食っている。

「ハルは走んねぇの?」

「俺基礎トレ苦手なんだよなぁ」

「ちゃんとやった方がいいぞ。お前、前回の大会でスタミナ切れしてたろ」

「だーってよぉ、まさか延長戦になると思わねぇじゃん」

「格下だったもんな」

 二人にしかわからない話だけど、なんとなく、ハルが負けそうになったということだけわかった。清水は駄々っ子みたいにゴネるハルを鼻で笑って、今度はパック牛乳を啜っていた。

「結局勝ったの?」

「ん?ああ、向こうもスタミナないっぽかったし勝ったよ」

 ニッと笑ってピースサインを見せ付ける。同い年で俺よりデカいけど、なんだろう。大型犬のような愛くるしさだ。

「よかったじゃん」

「いや、当たり前のことしただけ」

「もうちょい清水は俺を褒めろよ!」

「課題やったのか?」

「やったわ!……空欄あるけど」

 やったんだ、とまた清水はハルを鼻で笑って、ハルはそれに文句を言って。ああ、仲良いんだな、と体格よりも何よりもそれが羨ましい。

「侑司は?英語のやった?」

「英語はそこそこ得意だからやった」

「マジ?侑司に聞きゃよかった」

「自力でやれよな」

 清水とハルの掛け合いはテンポがいい。

「ふたりって、付き合い長いん?」

「いや?」

「中学からか?」

 だな、とハルが頷いた。清水とハルのテンションは違うけど、それでも言葉遣いはちょっと似ていて、尚のこと付き合いの長さを実感してしまう。そんなふたりをじっと見ていると、清水と目が合った。なんというか、「なに?」と言っているような表情をするから、意外といいやつなのかも、とか考えてしまう。それに笑って首を振ると、今度はハルが首を傾げた。

「どした?」

「なんでもねぇよ」

「そ?」

 一連の流れを見ていた清水は何度か頷いて、手首にぶら下げていたコンビニ袋へ空になったパック牛乳を突っ込む。

「おはようございます」

 いつの間にか校門前まで来ていて、そこで挨拶をしていたり、生徒指導をしている先生に挨拶をする。

「おはよう。急げよー」

「走るか」

「ういー」

 意外と真面目な清水が先頭を小走りする。バタバタと足音を立てながら生徒用玄関へ行くと、クラスのやつらがこちらを見遣った。

「あ、髙橋と柳田おはよ」

「はよ」

「お前らが一緒って珍しいな」

「そう!新事実発覚したのよ!」

「へー。朝からテンション高ぇな」

 おーい、と清水がハルを呼んで、こちらを見ている。退屈そうに携帯を弄りながら待っている清水を見たハルが、行こ、と俺を少し見下ろして笑顔で言う。なんだか、それだけでも満足してしまう自分自身を哀れに思った。話していたやつに、あとでな、と笑って言えば同じように返されて、ふたりで清水まで駆け寄った。

 一緒に登校したんだから、それだけで満足なはずなのに。思っていたより欲深いらしい自分に内心苦笑いした。

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