必要か否か

 風呂から上がりリビングへ戻ると、母がボーッと、微かに聞こえる程度の音量でテレビを観ていた。

「なんかあった?」

 隣に腰掛け、まだ少し湿っている髪をタオルで拭きながら顔を覗き込む。随分と暗く、悩んでいるような表情だった。

「なんていうか、私のせいだよなー、って思うのよね」

「……具体的に」

 大きな溜息を吐き、テレビから天井へと視線を移した母は、そのまま考え込んだ。再び大きく空気が吐き出される。

「あの男と再婚したこととか、あの時弱ったこととか。そういう、なんか」

「弱ることくらい、あるんじゃない」

「そりゃそうだけど、なんて言うの?強く生きなきゃ、って気合い入れてたから……悔しいの」

「気合い入れ過ぎたんでしょ。それでガス欠起こして、なんなら拠り所間違えて、変なのに捕まったってくらいに考えたら?俺は……弟ができて嬉しかったし」

 悪いことばっかりじゃない、と小さく笑いテレビへと視線を移す。お笑い芸人がツッコまれたり、ツッコんだり、くだらないことを大真面目にやっている彼らは、見ていてなぜか安心する。

「あの子にも、怖い思いさせたからさ」

「俺は、それが母さんのせいだとは思ってないよ。全部、あの男が悪い」

 項垂れる母の背中を柔くさする。小さく骨ばった背中に、こんなに痩せていたか、と心配になった。

「アンタは…‥人慰めるの上手いよね」

「は?いきなり何」

 突拍子のない母の言葉に苦笑いし、手を止める。大丈夫、と俺の手をすっと払うような仕草をして離れさせると、大きく身体を伸ばした。

「誰に似たのか知らないけど、アンタのお陰でなんとかなったことがいっぱいある」

「そんなつもりないよ。母さんが真面目で、ちゃんとした人だからだよ」

「そう、だといいな」

 私も寝るわ、とテーブルに手を突いて立ち上がった母の手が俺の髪を雑に混ぜた。

「濡れてるんでしょ。ちゃんと乾かしなね」

「あとでやる」

 弟の眠る寝室へと消えていく背を見送り、ただ流れるだけのテレビへと目を遣る。先程までブラウン管の向こうを沸かせていたお笑い芸人は姿を消し、静かなドラマが流れている。距離の近い男女は恋人だろうか。兄妹だろうか。段々と近付いていく二人の距離に、ああ、やはり恋人か、と理解してふと思う。

 俺、恋愛してねぇな。

 呟く程でもないが、思い至ったそれを徐々に意識してしまい、思考はどんどん突き進む。

 あれ、恋愛どころか最近女子と話してねぇな。女子……は文系だから多いけど、いや、多いと逆に怖ぇんだよな。結構ガサツだし。いいんだけど、男として見られてねぇのかな。え、それは……嫌だな。

 クラスの女子を思い浮かべてみるが、俺を意識していそうな子は全く思い浮かばない。なぜだ、と一度考えることに区切りをつけ、携帯片手に脱衣所へと向かう。柳田宛のメールを作り、要件を入れて送信されたのを確認し、スウェットのポケットに押し込む。ドライヤーを手に取った。弱い温風で乾かしていると、押し込んで間もない携帯が振動した。

「は?お前もじゃん」

 すぐに返ってきたメールには短く『ニオイ』とだけ書いてあり、同じスポーツに打ち込んでいる者同士でしか解り得ないものだった。が、確かに女子はニオイにうるさい。それは臭いでも、匂いでも等しく彼女らはアレコレ言うのだ。とはいっても、だ。デオドラントシートやスプレーは必ず使い、そこらの男子よりも気を遣っている。忙しなくテンキーに指を滑らせ、『それ以外』と切り返しドライヤーを止めた。別に、ないならないでいいのだが、年頃というものだ。できることならコイビト、という特別な存在をそばに置いてみたい、

「なんて、女々しいな」

 携帯が振動する。


***


 ある程度を絶えず与えられていると、必然的に不要だと切り捨てるものはそこそこある。例えば、

「匡弘、ケーキあるけど食べないの?」

「いらない」

 頼んでもいないのに殆ど毎日あるケーキとか、甘ったるい飲み物がそれだ。食べたくもなければ、欲しいと言った記憶もない。幼い頃に与えられた俺が喜んだのを、今も同じと考えているとしか思えず、無意識のうちに眉間に皺が寄った。母も同じように眉を顰める。

「俺、そういうの食うぐらいなら筋トレするし、プロテインの方がいい」

 不味いけど、と呟いてリビングを出ると、母の溜息が聞こえた。

 迷惑な訳でも、甘いものが嫌いな訳でもない。敢えて言うなら有難迷惑なのだろうが、良かれと思ってやっている親にそれを言うのは酷だろう。

 二階の自室は、俺の城だ。これと言って珍しいものはない。たまたまキャッチできたホームランボールと、壁にかけたレプリカユニフォームがあるだけの、ごく普通の男子高校生らしい部屋だ。雑然としている訳でも、ピシッと整頓されている訳でもない、過ごしやすい程良く気の抜けた部屋。この家で一番リラックスできる。机に上げたままになっているヘッドホンを手に取り、首に掛ける。程良くしなる背もたれの椅子は誕生日に新調したばかりだが、いいものなだけあって身体によく馴染んだ。深く腰掛け、背もたれに頭を預ける。

 母も父も、俺の成長を見ていない訳でも、認めていない訳でもない。いつの間にか思春期と呼ばれる面倒な時期に入った俺を、母も父もどう扱えば良いのか分からず、無意識に小学生やそのくらいの子どもと同じように扱ってしまうのだ。分かっている。だが、たまに思ってしまう。

 ちゃんと、俺を見ろよ。

 アンタ方が思ってるような子どもではない。背は母さんより高く、父さんと同じくらいになったよ。声だって低くなった。手だって、柔らかさなんてなくなって、皮が厚く、固くなった。髭だって、アンタ方がちゃんとしろって言うから剃ってるけど、生えるんだよ。掃除だって、そんなにしっかりではないけど、言われなくても自分でやってる。もう、俺はふたりが思うような子どもじゃないよ。

 言いたいことは出掛かっているのに、吐き出そうとしてもつっかえて喉に違和感を残すだけだ。胃酸で焼けた訳でもないのにグツグツと痰が絡んで言葉の邪魔をする。言いたいことは山程ある。

 ドアがノックされた。

「なに?」

「父さんだ。入っていいか?」

「ん」

 短く答えた俺の声を聞いて、父はすぐさまドアを引く。ガチャリと音を立てて開いたドアから顔を覗かせ、少し困ったような顔をした。

「なに?」

 ぶっきらぼうなつもりはないが、やはり適当な言葉は、言いたいことはすんなりと出てこない。何かのトラウマでもあるかのように、声が上擦って上手く話せなくなる。

「さっきの、あんな言い方しなくていいだろ」

「いや、食わないもんは食わないし」

「あとで、とかあるだろ?」

「いや、こんな時間になったらもう食わないよ」

 天辺に近くを指している時計をチラリと見て言えば、父は小さく溜息を吐く。まぁ、そうだな、と呟いたかと思えば、父は雑に頭を掻いて腰に手を当てた。

「だとしても、あんな言い方だと母さんが傷付くだろ」

「まぁ、うん」

 そうな、と頷き外方を見る。ああ、これでは清水と同じだ。いや、清水の場合は俺が居心地を悪くさせたのだ、とひとり問答し溜息を吐いて父の顔を盗み見る。やはり、どうしようもないほど頼りない顔だ。

「父さんはさ」

「ん、なんだ?」

 深く息をし、やはりつかえる言葉を吐き出そうと試みる。父は俺の言葉を待っている間にテーブルに手を突いて少し腰を落とした。

「どうした?」

--ちゃんとしなさい。父さんも母さんも、お前のためを思って言っているんだぞ。

「あ……いや、」

 この人は、こんなに穏やかではなかった。

 不意に思い出してしまった過去の父に抱いたのは、ただ恐怖だけだった。言いたいことが言えないのはこの人も、あの人も、俺は怖いんだ。と、気が付いた後では、溜め込んでいるドロリと重さを増した疑問や嫌悪を吐き出すことはできない。何も言わずにいる俺に首を傾げ、何もないのか、と父は片眉を吊り上げて呟いた。何もない訳がない。山程ある。

「父さんは」

 おお、なんだ、と柔らかい表情で言う父は記憶の中の彼とも、最近まで見てきたものとも違う。

「母さんと、なんで結婚したの」

「そりゃあ、そりゃあ……愛してるからだろ」

 俺の目を見ずに答えた父に酷く落胆するが、この人たちはそうだ、と自分を納得させた。

「なんでそんな自信なさげなの」

「……課題はないのか?早くやって寝なさい」

「話逸らすなよ」

「いいから」

 逸らされていた視線が俺を捉え、鋭く睨む。鋭利なそれに覚えるのは恐怖よりも、懐かしさだった。ああ、そうだ。

「父さんも母さんも、俺が落ちこぼれたから諦めたんだもんな」

「なんの話だ。なんでそうなる」

 強い口調で溜息混じりに言いながら、父はTシャツの首元に手を伸ばした。

「ハハ、事実じゃん。父さんが通ってたエリート校に入れようとして先行投資だっつってガキの頃から塾通わせて?出来ないことがどんなに些細でもガミガミガミガミ言って。なんなんだよ。俺のこと見てねぇクセに。俺がやりたかったことなんて野球しかやらせなかったクセに。それ以外、なんなら野球すら“くだらない”っつって辞めさせようとしたクセに。今更……今更父親ヅラすんなよ」

 堰を切ったように早口でぶち撒けていた。言い終わった瞬間、身体を強く引っ張り上げられる。父と同じか、見下ろす高さまで伸びた背を自力で支えその手を払った。やってしまった、と内心はどうしようもない程焦っているが、そんなことを噯にも出さぬようグッと奥歯を噛み締める。

「おい、口を慎めよ」

「本当のことだろ。なんでも思い通りになると思ってんじゃねぇよ。俺はもうガキじゃねぇ」

 出てってくれ、と吐き捨てる。俺を睨んでいた目元から力が抜け、夜更かしはするなよ、とだけ言い残した。思いの外柔らかい音でドアは閉められる。同時に途轍もない疲労感に飲み込まれた。

「課題はないし、教科書は置き勉してるし……予習、は朝にするか」

 寝よ、と呟きミュージックプレイヤーにヘッドホンのジャックを挿し込む。重低音が鼓膜を揺らした。

 言ってしまった、と最初は後悔した。だが、その後に続いた思考は、ここまで言ったのだから最後まで言ってしまえ、と所謂悪い方向へと促すものだった。そのお陰か息がしやすく、靄がかかっていたような頭もクリアになったように思えた。はずだった。

 ああ、どうしよう。なんかもっと穏便なやり方あったよな。ていうか、父親ヅラって、そりゃ父親だからするに決まってんだろ。もう言っちまったし撤回なんて無理だし。でも、俺を見限ったのは事実だし。

 言い訳を並べ立て、自分を正当化しようと躍起になる。折角落ち着いたはずだった頭が、また熱を持ち始めたようだ。

「失敗した俺が悪ぃのか?」

 ふと押し寄せた罪悪感に心臓を潰された。

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