第29話 風の向くまま(15)

「俺はここで降りるよ。いい加減、飽きた」

 元警察官・三宅将暉はさほど気負うでもなく、さらりと言い放った。


 赤い髪の男が絶句した。もう一人の犯人も、思わず凝視した。

 最後尾にいた、最後の一人。

 ずっと興味なさそうに窓の外を見ていた男。


「?」

「なんかもう、バス動きそうにないしさ。お腹もすいたし。順番も回ってこないし」


 本音を言えば、犯人たちもまあまあウンザリしていた。その主な理由は、三宅の隣の女である。

 この頭の悪そうな女、当てたとたんに突然さめざめと泣きながら、大げさに自分の半生を延々と語り出した。あまりの演技の下手くそさに犯人も他の乗客も閉口していたところ、やっと終わると見せかけ、今度は推しのアイドルの魅力を語る第二部に突入したのだ。ちょうど、赤い髪の男も切り上げるタイミングを見計らっていたのである。

 も押してきている。最後の一人が何を話そうと、適当に聞き流して、まとめに入るつもりだった。話をしないなら、それでもよかった。だが、さすがにここでバスから降ろすわけにはいかない。


「あー。えーっと…お嬢さん、ちょっとでお願いできる?」

 赤い髪の男が苦笑いでナナに話しかけると、ナナは男のほうではなく三宅の襟首をつかんだ。

「何よ、アンタが話すことないっていうから、ナナがあんたの分まで喋ってあげてるんじゃん!飽きてんじゃないわよ!!」

 ナナが三宅の頭を叩くと、漫才のハリセンのように、すぱーん、と心地いい音がした。


「ハハハ…いい感じのツッコミが入ったところで、お待たせしてごめんね。最後の彼、お願いできるかな」

「ん?いや、だから俺はもう帰るって」

 三宅はもう一度あっさりと、そしてはっきりと赤い髪の男に告げた。

 そして、ようやく男の目つきが変わった。


「…俺たちが、君を撃たないとでも思ってるわけ?」

 赤い髪の男は、スマートホンをもう一人の男に渡し、銃をとって片手で構えた。

 車内が静寂に包まれた。

 三宅は赤い髪の男に一瞥もくれず、自分の手荷物のリュックを網棚から下ろすと、ナナをどかしてバスの中央の通路に出た。


「…さっき天井に向けて打ったのは、空砲か何かだと思ってるわけ?」

 赤い髪の男の顔に焦りの色が浮かぶ。

 三宅は顔色一つ変えず、まっすぐ男のほうに歩いてくる。

 右手を伸ばして構えた銃口まで3メートルもない。銃の訓練をしっかり受けたわけではないが、目をつぶっても当たる距離だ。


「…死ね」


 そうつぶやいて引き金を絞る瞬間、三宅が男の視界から消えた。

 三宅は体を大きく沈め、次の瞬間には赤い髪の男の懐に潜り込んでいた。


「…やっぱり、ヒトはトロいよな」


 そして次の瞬間には、三宅の両手が赤い髪の男の右手に届いていた。握った拳銃ごと外側に向けて捻ると、拳銃は赤い髪の男の人差し指の骨を粉砕し、バスの座席の下に落ちていった。

「うぎゃっ」

 赤い髪の男が右手を押さえて呻き、腰をかがめた。


「てめえっ!」

 その向こうから、もう一人の黒メガネのほうが、サバイバルナイフを振りかざし飛びかかってきた。三宅はそれをかわしたが、黒メガネの男はそのまま三宅に体当たりしたため、二人して通路の床に転がり落ちた。

「くっ」

 黒メガネの男は腕力で、振りほどこうともがく三宅を床に押し戻した。数秒の取っ組み合いののち、男はとうとう三宅の胴に馬乗りにまたがり、三宅の胸めがけてサバイバルナイフを両手で振り上げた。


 その時、車内に銃声が鳴り響いた。


 男は思わず動きを止め、轟音の出どころを目で追った。と、同時に車内に寒風が吹きこんできて、フロントガラスが粉々になっていることに気づいた。

 三宅は、虚を突かれた黒メガネの隙を見逃さなかった。男の手からナイフを弾き飛ばし、そのまま指先で男の目の周辺を薙ぐと、指先が運よく男のメガネに引っかかり、メガネが外れて座席の足元に転がっていった。


「くそっ」

 男は強度の近視だった。1メートルも離れれば、人の顔の判別もつかない。

 ナイフも気になるが、後回しだ。まずはメガネを拾わなければ。

 這いつくばってメガネの転がった方向に進み、座席の下に右手を伸ばした。


 すると、男の手の甲に鋭い痛みが走った。

「!?」

 何が起こったのかわからず、手を引っ込めて奥のほうを覗き込んだ男は、予想外の光景に目を疑った。


 猫だ。

 猫が、自分のメガネを咥えて、こちらを睨んでいる。


 きょとんとしていると、猫がメガネを咥えたまま、近くに寄ってきた。

 そのまま持ってきてくれるのかと期待していると、突如猫はメガネを遠くに放り投げ、ふりかえりざま男の顔を爪で一閃した。

「いてぇっ!このクソ猫!!」

 たまらず顔を引っ込め、椅子の下から出ようとしたその時。

 

 ぶすり。

 

 男は腹部に何か冷たい異物が差し込まれるのを感じた。


「え…?」


 男が腹部に手を当てて感触を確かめると、ぬるりとした液体がそこから滴っていた。手を顔の前に持ってくると、それが血だとわかった。


「おまえのお気に入りなんだろ、返すよ」


 自分の手の向こうに、さっきの男の顔らしきものが見えた。

 黒メガネを失った男の腹に差し込まれたものは、自身のサバイバルナイフだった。

 刺した男の表情は、男からは確認できなかった。

 男は、どうして自分が刺されるのかわからない、という顔をした。


 ◇◇◇


 ミケは、間近で見ていた。


 男たちが乱闘を始めたタイミングでマタザブローとともに床下から飛び出し、座席の下に潜り込んだ。

 なぜ戦闘になっているのかミケにはよくわからなかったが、犯人を鎮圧するにはまたとない機会だ。座席の下は人間からは死角が多い。犯人に抵抗している人物が誰なのか知らないが、こっそり援護しようと考えていた。

 すると目の前に拳銃が転がってきた。

 それを見たミケは、拳銃が犯人の手に届かないようにここから遠ざけてくれとマタザブローに頼んだ。

 だが、マタザブローは約束の男である。暴発させてフロントガラスを粉々にしても、ミケはもはや大して驚かなかった。

 そのうち、今度は犯人のメガネがミケの足元に転がってきた。少々気の毒に思ったが、ミケはそれを取り上げて、ついでに犯人の顔に爪を立ててやった。


 ここまで痛めつければ、残りの乗客で十分取り押さえられるだろう。

 そう思ったミケは、バスジャック犯に立ち向かった勇気ある市民の顔を見てやろうと通路に出た。


 だがその人物は、勇気ある市民の顔をしていなかった。

 犯人の腹部にナイフを深々と差し込んでいたのだった。


「お気に入りなんだろ、返すよ」


 恐怖も歓喜もない、冷たい口調。

 だがミケは、誰よりもその男の顔をよく知っていた。

 行方不明となっているものの、現職の刑事である三宅将暉。

 自分自身。

 ナイフを犯人の腹に突き立てたその顔は、微かに、笑っているように見えた。


「ミケ…!!!」

 ミケは、ここしばらくの間自分の名前だった、その名前を叫んだ。

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