ジャスティスガール 悲しみの復活
カチ、カチ、といつもなら気にもしない時計の音がやけに頭に響いた。自宅のトイレの便器に前のめりに凭れかかりなんとか自分の吐いた吐瀉物を流す。
私はあれから2,3度吐いた後気絶しそうになりながらもなんとか家まで辿り着いた。胃の中のものがなにもなくなって胃酸さえ吐きつくし、ここ1時間は間違いなく今までの人生で最も長く辛い時間だった。
「ぅぉえ…ッ…ぐ、ぉえ…」
吐き気はもう既に収まっていた。止まらないのは涙だった。
喧嘩なら誰に負けない、と自負していた。相手はただのオッサンだった、年下の仲間を連れて女を囲むようなクソ野郎に私は負けた。
最初に目を合わせた時にはあんなに情けない雰囲気だったのに、だけど次に振り返った時、奴は別人みたいなオーラを放っていた。すぐに気づくべきだった。だけど奴の言葉に意識がほんの少し背後に揺らいだ、そして気づけば拳を打ち込まれていた。
「ぅううう…ッ!!」
自分への怒りで頭が弾けてしまいそうだ。
油断した…というより油断させられた。まんまと嵌められた。今まで培ってきた経験や勝利数が裏目に出てしまった、と今になって感じている。見た目で判断し甘く見たことが私のなによりの敗因だった。
人を油断させるあの言葉選び、躊躇のない動き、そしてあの妙な技、どれをとっても私が体験したことのないレベルの強さだった。しかもスポーツじゃない、合理的かつ徹底的な喧嘩の強さだ。
「くそ!!くそくそくそくそくそくっそぉおおお…!!!」
地面のカーペットを蹴っても敗北を忘れられる訳じゃない、それでも悔しさのあまり身体がどうしても動いてしまう。
「もぉ…お姉ちゃんなにぃ…?うんこつまったぁ…?」
「!!」
しまった、トイレの鍵を閉めるのを忘れていた。蜜君を起こしてしまったようだ。
服の袖で涙を急いで拭うとふらふらと壁伝いに立ち上がり蜜君の頭を撫でる。
「ご、ごめんね蜜君…起こしちゃった…?」
「うん…トイレからどんどん音がして目がさめちゃった…」
「あ、ぅ…そ、そうだ、今日は一緒のベッドで寝よっか!蜜君が寝るまで好きな本を読み聞かせてしてあげるね!」
「…ううん、お姉ちゃん体調が悪そうだから無理しないでいいよ…?それに僕もう一人で寝れるから…」
蜜君はそういうと眠そうに目を擦りながら扉を閉めた。
本当は大好きな読み聞かせも断ってまで私を気遣ってくれている。世界でいちばんやさしい私の心を癒してくれる存在だ。
「…けほッ…」
トイレットペーパーで口元を拭いトイレに流す。
私は生まれつき他人よりも身体能力が優れている。だからその力を助けを求める人々のために使いたい、それがこの活動を始めた理由だった。繰り返している内に段徐々に忘れかけていたことを今回の敗北で思い出すことができたよ。
「…よし…」
蜜君のおかげでほんの少しだけ冷静になれたようだ。
取り合えず今の私の目標は奴にリベンジすることだ。名前は聞けなかったが流派は聞けた。確か友情流といったか、生ぬるい名前してるがあれだけ強いのなら有名な場所なのだろう、今に見ていろ友情流の男、いい気に乗っていられるのも今の内だ。必ずやジャスティスガールがお前に裁きの鉄槌を下すことになるだろう。
; ; ;
「…よし」
夜10時半、私はフードを深く被りパトロールにでかける。
出来るだけ監視カメラのない場所を通り大体1時間半程度町中を歩き回る。悪質なナンパ、恐喝、その他卑劣な行為の数々に目を光らせ、クズどもを数週間ほど悪さできない身体にしてやるのが私の仕事だ。
「…」
しかし今回私には別の目的がある。それは奴らを探すことだ。
今日の昼、友情流について調べたがネットには一切情報が載っていなかった。
あのオッサンに直接会えるのがベストだが、もしもできないのなら適当な仲間から情報を引き出せればよい。あの手の奴らは人脈が広いものだ、ましてや一人だけ年上の用心棒的な立ち位置にいるアイツなら仲間内では顔が売れているはずだ。
「いないか…」
昨日のコンビニの横、薄暗い路地裏へと視線を向けるが誰もいない。
昨日いたのだから今日もいる、なんて都合のいいことがあるはずもなかったか。取りあえずはパトロールを続けて、ボコボコにした奴らを適当に尋問していくことにしよう。
「おい、」
「ん?」
背後から声を掛けられる。
その場に振り向くとそこには昨日の男たちがいた。私が指を折った男(何故だか両方の手に包帯が巻かれている)拳を砕いた男、ナイフが首に刺さった男…そしてもう一人、初めて見る随分とガタイのいい女を連れているようだ。
まさか求めていたものがあっちから歩いてきてくれるとは思ってもいなかった。思わず頬が緩んでしまいそうになる。
「まさかお前らの方から会いに来てくれるとは思わなかったよ」
「コイツですよ、俺らのことめくちゃくちゃにしてくれたバカ女は」
両方の手に包帯を巻いた男が私に向かって拳を突き出す。おそらく指を指そうとしているのだろうが、なんとも情けないな。
男の言葉を聞いたガタイのいい女がずい、と前に出てきて私のことをジロジロと見つめる。でかい三角筋、ズボンを今にも張り裂いてしまいそうな太腿の筋肉、関節も柔らかそうだ。
「見た目は普通ね、ホントにこの子なの?」
「アンタに比べれば普通だろうね」
周りに視線を回すがやはりあのオッサンはいない。
不思議なものだ、仕返しがしたくて私を探していたのならあのオッサンを連れてくればいいのに、都合が合わなかったのだろうか。
「用心棒を変えたのは悪手だったね、動物園からゴリラを拝借した手間が無駄になりそうだよ」
「…ねぇ、もう始めていい?」
ここは路地裏の入り口で、丁度監視カメラの死角になっている場所だ。
相手の身長は大体170㎝後半といったところか、肩幅は広く脚も太い。私の身長は160㎝、身長差、互いの距離から考えても初手は大体予測できる。
おそらくは足を使った頭部狙いのなにかだろう。側頭部に一発ハイキックが入れば一瞬で意識が吹き飛び倒れることになる。
「ねえアンタ、どうしてここにいたの?」
私が考えを巡らせているといきなりゴリラが話しかけてきた。
「誰か探してたんでしょ?」
次の瞬間、ゴリラが手に隠し持っていたものを私に向けて投げつけてきた。
咄嗟に顔を背けて顔面にあたるのを防いだがこの感触からして砂だろう。目つぶしのつもりだったのだろうがフードを被っていたためなんとか視界が潰れるのは防ぐことができた。
しかし数舜の間もなく顔を背けた方向とは反対側から勢いよく何かが迫ってくるのを感じた。この空気を裂く音が鼓膜をじんわり震わせる感じ、とてつもなく嫌な予感がする。
「おわりね」
ゴヅン、と重い音が響いた。
おそらく膝だろう。奴は飛び膝蹴りを私の側頭部に向けて放ったのだ。とてつもない跳躍力と筋力だ。頭の中にゴウンゴウンと嫌な衝撃が何度も反射する。
「いやまだだよ」
「ッ!?」
空中でゴリラの身体を受け止める。
衣服に指をしっかりと食い込ませて掴んだ私はそのままゴリラの身体を近くの壁へと思い切り叩きつけた。
コンクリートの壁に勢いよく潰された奴の肋骨が一本ポキンと折れた音が衣服越しにしっかりと伝わってきた。
「ごぉぶぅ!!??」
「田島ちゃんッ!?」
手を離すとずるずると音を立ててゴリラがゆっくりと地面に崩れ落ちていった。
普通の人間ならあの場で昏倒していただろう。だが私は首の筋肉さえも他所とは違う。力んで頭部への衝撃を逃したおかげでダメージを軽減することができた。
あの目つぶし、容赦のない跳び膝蹴り、リベンジのいい練習台になったな。ただし気の逸らし方も技の威力もあのオッサンに比べれば赤ん坊みたいだったけど。
「このやろぉッ!!」
ナイフが首に刺さった奴がまたナイフを取り出して私に向ける。
今度は躊躇なく刺そうとしてきているようだが、軌道が見え見えでこれじゃあ小学生でも避けられる。
身体を半身動かして避けると手刀を男の手首に振り下ろす。
「でッ!?」
「ちょっとは学習しなよ」
「おぶぅ!?」
ナイフがカラン、と地面に落ちて、おろおろしている男に平手打ちをした。
男は地面で半回転するとその場に崩れ落ちる。尋問しようとしたのだが少しばかり力の加減を間違えたらしい。
だがまあいいだろう、まだ私には貴重なコマがあと二つも残っているのだから。
「ひッ!?」
「ちょ、ちょっとまて!俺たちは怪我人だ!」
「だからどうした?いたわってほしい?」
「ぉぶぅ!?」
両手を包帯で覆った男の首根っこを捕まえ、今度は手加減して平手打ちする。
生まれつき力が強い私はビンタするのにも手加減が必要だ。でないとさっきの奴みたいに気絶させてしまう。
もう一人の男は非情にも仲間を捨てて逃げ出してしまったため、コイツからなんとしても情報を引き出さねばならなくなった。
「あのオッサンはどこだ」
「しらねえッ!はなせクソぶぅッ!?」
「お前の顔が真っ平になるまで引っぱたくよ」
今度は往復ビンタを喰らわせる。歯が何本か折れたのかあうあうと口を動かしているが舌が切れてない限りは喋れるだろう。
私がダメ押しにもう一度手を上げようとすると男は包帯で包まれた両手をなんとか前に出して降伏の意思を示そうとする。
「まへ、まっへ、まっへ…しらにゃい、ほんとにしらにゃい…!」
「嘘つくな」
「ほんどだっでぇ!しょたいめんだったんだぁ!嘘だったんだよぉ!」
…何を言っているんだコイツは?
「どういうことだ」
「あいつは通りがかっただけのただのおっさんだよ!俺らの仲間なんかじゃねえ!」
気づけば私の手は平手から拳に変わっていた。
怯える男の胸ぐらをつかみ上げ顔を引き寄せる。
「…冗談だろ?」
「うそじゃねえほんとだぁ!!ほんとだってぇ!!」
どう見ても嘘を言っている表情じゃない。しかもそう考えるとあのゴリラがいた理由も納得できる。そもそもよく考えても見ればあのオッサンがこいつらの仲間なら私は彼にコテンパンにやれているのだからコイツらが私に仕返しに来る理由はない。
私はもしやとんでもないことをしたのではないか?ただその場に居合わせただけ…いや、おそらくコイツらの仲間でないと考えるとあの娘を助けようとしていたのかもしれない。私はそんな善良なオジサンに対していきなり殴りかかろうとした、のではないだろうか。
「ぉご」
再び平手に戻した手を思い切り男の顎に向けて打ちおろす。
空虚な悲鳴と共に男はその場に倒れ込んだ。
「…そんな…」
私は自己嫌悪に心を包まれながらその日、パトロールさえすることもできず家に帰った。
翌日、私は学校にもいくことができず一日ベッドで泣いた。負けたことよりも、自分が一番嫌っている人間と同じことをしかけていたことの方がショックだった。
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