2 宵宮祭をたのしもう(9)

 大量の痰を飲み干している気分だ。苦し紛れに喉を鳴らしても、筋肉の力では絡んだ粘液を飲み下せない。ひとつ飲み込めば、ひとつえづく。ゆっくりと食道を滑り落ちながら、内腑を焼けただれさせるように熱を残していく。アルコールを別で足してあるのかもしれない。口に入れた瞬間に火を呑んだと表現されるウォッカとは違い、緩やかに流れる溶岩のような重たさと熱量をもっている。

 そして、粘り気の強い溶岩のなか、ぼくの消化管のなかで、活発に動き回る感触。体の肉越しに、腹の虫の居所が伝わってくるのだ。

「さぁ、飲み乾して」

 ぼくのうなじを抑え、無理矢理に虫酒を飲ませたのは、ほかならぬ美折の手だった。

 有無を言わせぬ暴力的な手つき。今迄に感じたことのない接し方に、思考が止まり、されるがまま口を開いていた。

 のみなすって、おのみなすってぇ!

 大合唱に合わせて盃を飲み乾す。口の端から垂れた酒が、口の端を伝い胸元へと落ちた。美折の舌がその熱い痕跡をなめてたどる。肌の上をナメクジが這うように、ゆっくりとねちっこく。自分の唾液で足跡を上書きしながら、ぼくの体を値踏みしていく。

 明らかに様子がおかしい。彼女はぼくを揶揄うことはあっても、組み敷くようなことはしない。支配的な態度で攻撃してきたことは一度もない。酒の力に呑まれたのだろうか。彼女の瞳が鈍い光を放っている。野生の獣が放つ殺気にも似た、本能的な恐怖がぼくをすくませた。ぼくの記憶の、どの場面にもいない上郷美折の姿。

 誰だ、お前は。

 ふらりと美折が立ち上がり、右手をかざして頤に歩み寄る。

「美折さん?」

 彼女はぼくの声に口角を吊り上げる。固唾を呑んで儀式の成り行きを見守る村人たちへ、一歩前進する。頤を含めた村人たちは、彼女に詰め寄られ、その異様な迫力に一歩退く。一歩前進、一歩後退。ついに最後尾の村人の背が壁につき、それ以上はさがれなくなる。

「頭が高い」

 一言。美折の口から発せられた言葉は、無機質な冷たさを帯びていた。

 ぐんっ、と突き出された掌が頤の面前に押し出される。しかし、その手は触れることはなかった。掌が頤に触れる直前、彼の体が弾かれたのだ。まるで磁石の極同士を近づけたような反応。美折の掌からは透明な力が放たれていて、村人たちは次々と気圧され弾かれていく。

 どう、と阿鼻叫喚が波紋となって村人たちに広がっていく。

 ぼくはこの力を目にしたことがある。不可視の斥力。村境の外、奥の院の地下で戯言少女が使った超能力と同質の物。馬鹿げた話だ。ただの人間である美折が手をかざしただけで人間をなぎ倒していくだなんて。目の前の光景はあまりにも馬鹿々々しいものだった。

 風になぎ倒される草木のように村人たちは畳の上を転がり、倒れ、どう、と声を上げる。吹き飛び、尻もちをつき、美折の掌が向けられた方向へと押し合い圧し合い。美折は気がおかしくなったように甲高い笑い声をあげ、広間中を掌をかざして駆けずりまわる。幼い子供か、狂人か。けたたましい嬌声と村人たちの倒れるどう、どうという振動が公民館を揺らす。

「なんだこれ」

 なんだこれは。

 滑稽ですらある光景を目の当たりにした、正直な感想だった。

 三文芝居にもほどがある。悪ふざけには出来が悪い。馬鹿々々しくて笑えもしない。ただポカンと呆けておくことしかできない。なぜ美折が突然こうなったのか理解が追いつかない。ぼくの目の前にも何度か掌が通り過ぎたが、なにも感じなかった。突き飛ばされるような力など感じるはずもない。彼女の動きで振り回された空気がぼくの肌をそよ風のように撫でていった。

 狂騒のなか、ぼくはまったく白けていた。

 訳が分からない。何がはじまったんだ。

 乱痴気騒ぎの最中、ぼくの傍に天王寺が転がってきた。彼女もまたによって吹き飛ばされてきたらしい。

「自分、どしたん?」

 天王寺は馴れ馴れしく肩を組んでくる。上気した頬とアルコール臭い吐息、随分と酔っているようだ。酒にも場の雰囲気にも。

「こっちの台詞だ。あんたたちは一体なにをやっているんだ」

「ぇえ? ノリ悪いでぇ。そんなん聞くまでもないやろ、くん」

 彼女はぼくの方を向いて、はっきり来馬と呼んだ。呼び間違いなんかじゃない。その眼は真正面からぼくを見据えていた。彼女はわざと呼び間違えたのだ。

「あの子は呑んだ。あんたも体に受け入れた。それはつまり換魂の儀式は成った、ちゅうこと。ルールには従わな。郷に入っては、っていうやろ?」

 聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調で彼女は続ける。

「いつまでも体に意識を引っ張られたらあかんで」

 ぱんっ。

 猫だまし。目の前で手が叩かれる。

 暗転。ふっと、一瞬目の前が暗くなり、一拍分意識が途切れる。

 瞼を開けると、美折が立っていた。ぼくの額に人差し指を突きつけ、暗示をかけるように一言ずつ区切って言い聞かせる。

「私は、超能力者。この村の、かみさま」

 とん、と小さく押し出される。それが合図だった。

 カチリ、と頭の奥でスイッチが切り替わった。

「あああぁあ!」

 ぼくはわざとらしほど大きな叫び声をあげて後ろにのけぞる。見えない力に従って横殴りに引き倒され、床を転がり、吹き飛んで好き勝手になぶられる。村人たちを包んでいた狂乱の空気に身を任せる。共に叫び、転がり、見えない力を体全体で表現した。そのうちに、だんだんと見えるようになってきた。彼女の振るう力の軌道、形、色。

 だって、祭りの夜だもの。不思議なことぐらい起こるさ。神様ぐらい現れるさ。

「ウケさま、みぃつけたぁ!」

 鼓膜を破らんばかりの金切り声。聞き覚えのある、斧徘徊老人である白井の伯父の声だ。村人の人垣をかき分けて広場の中央に躍り出た老人。彼女を指さしてもう一度叫ぶ。

「ウケさま、みぃつけたぁ!」

『ウケ様は瑞上神社に祀られている神様の愛称だ。前回の祭りから数えて数年間、ウケ様は長らく身を御隠しになられていた。宵宮祭の夜の幕開けは、ウケ様を見つけ出すことからはじまる。宵宮祭はウケ様を見つけるためだけに開かれるといってもいい。祭りのなかでも重要なプロセスだ。

 白井の伯父は神を視る眼をもっている。昇殿して普段は村人たちと交わることができないが、神域と人界の交わる祭りの期間だけは、彼の言葉を聞くことができる。白井の伯父が神だと指名した人物こそ、今年の瑞上神社例祭におけるウケ様なのだ。そして、ウケ様には、超能力をもった現人神であらせられる彼女が相応しい。あぁ、よかった。今年も無事に祭りをひらくことができる。俺たちは途切れなく生き続けていくことができる』

 今の思考は、ぼくのものか?

 ノイズが流れ込んできて、自分のものではない声が頭の中に響く。知らない情報に、知らない言葉。

 そんなことあるはずない。なら、自分で考えたことなのか。

「ウケさま、みぃつけたぁ!」

 村人たちが白井の伯父に合わせて復唱する。ひとり、またひとりと叫んでは平伏していく。村人の崇敬を一心に集める美折の姿。『彼女はこの村の神として、祭りをうまく遂行してくれるだろう。選ばれただけのことはある。なにせ、彼女は俺が見いだした数千年に一度の唯一無二の現人神なのだから。』

 なんだ? 美折が神様? そんなわけがない。

 彼女に超能力なんてないし、そもそも何で彼女はこんな茶番に付き合っていられるんだ。

 異質な空気がぼくの現実を侵犯していく。

 こんなの、異常な村人たちと祭りの空気感にあてられただけだ。きっと村の外に出て日常に戻れば、なにもかも元通りになる。おかしなことをやっていたなぁ、と恥ずかしくなるに違いない。だから、はやく目を覚まさなければ。ぼくも、彼女も。

 いいや、違うさ。これはテーマパークのアトラクションなんだ。来馬もいっていたじゃあないか。体験型はお客の自主的な協力が必要だって。ぼくはみんなの空気を悪くしないように、演技に付き合っているだけさ。どんなに滑稽でもね。これはそういう遊びなんだから。

 だから、ぼくが平伏していても全然おかしくないし、悪いなんてことあるはずない。みんなやっているんだから、合わせてやっているだけさ。

 俺は村人たちと息を合わせて唱和する。

「ウケさま、お帰りなさい」

 そうか。もう祭りがはじまるのか。

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