2 宵宮祭をたのしもう(8)

 頤は空の盃を目の前に差し出す。

「こちらに卵を」

 卵といわれ、一瞬なんのことかと戸惑う。因習村の入場チケットだと渡された、謎の卵のことだと気が付いた。村にきてから一度も取り出していない。ポケットのなかで潰れてしまっているか、どこかに落としてしまっているに違いない。

「すいません。たぶん、失くして……」

 探す振りでズボンのポケットに手を入れると、硬質で滑らかな手触りに行きあたる。幸か不幸か、昨日から着替える余裕がなかったおかげで、入れっぱなしになっていたらしい。走ったり転んだりしたはずだが、卵は潰れず原型を保っていた。奇跡的に、というより、呪いでもかかっているようで不気味だ。

 ぼくは取り出した卵を盃の上にそっとおく。青鈍色の卵は曲面を潰していないにも関わらず、平らな盃の底で直立していた。持ち上げたときに、重みの配分が変っていたせいだ。以前は重さが殻の内側にまんべんなく広がっていたはずが、今は楕円の底に重心がある。生卵から雛が作られるように、卵の中身が成長している。

 そしてもう一方、戯言少女が何も持っていない自分の掌をかざしたかと思うと、美折の胸元に手を突き入れた。

「いッ」

 胸を無遠慮に掴まれ、痛みに眉を歪める美折。

「おいお前っ」

 咄嗟に声をあげたぼく。腰を浮かしかけるが、来馬に掴まれ座らせられる。

 戯言少女はあっさり手を抜き、空の盃にはもうひとつの卵が載せられる。手品のように美折の胸から卵を取り出したのだ。来馬からもらった卵は一つきり。彼女がそんなものを隠し持っているはずがない。どこからともなく現れた卵は、ぼくが持ち歩いていたものと瓜二つの見た目をしていた。

「では、次にこちらを」

 頤は気にした風もなく、粛々儀式を進める。

 懐から取り出されたのは名刺入れサイズの薄平らな入れ物。錦づくりの豪奢な蓋をあけ、そこからぼくと美折に針を手渡す。人差し指よりわずかに長い、糸穴のない縫い針。

「御両名の血を一滴ずつ、卵の上に垂らしてください」

 針は長年使い込まれたものなのか、先端が黒ずんでいる。これで自分の指先を傷付けることは、衛生的に抵抗がある。糸車の針のように、刺されたら呪いにかかりそうだ。眠りよりも重篤な、指先から腐って壊死するイメージが頭の中を支配してためらわせる。理屈と想像の両面で、ぼくはこの針に生理的嫌悪感を抱いた。

「これでいいの?」

 ぼくがためらっている間に、美折はさっと自分の人差し指の腹を刺し貫く。小さな穴から絞り出された赤い水滴が、卵の上にひとつ、ふたつと滴る。

「美折さん……すこしは躊躇してください」

「大丈夫、痛くないよ」

「そういうことじゃありません」

 儀式場にはひとり、またひとりと参列者が増えていく。気付けば昨晩の宴会時よりも大勢の人間が、膝を寄せ、すし詰め状態で並んで見守っている。その中には偽海砂利や偽弐座、天王寺や白井の姿もある。村の巫女の関わる儀式だから、一大事なのだろうか。それとも群衆の圧力をぼくらに押しつけるためだろうか。

 ぼくは意を決して自分の指を突く。いまさら、尻込みできる雰囲気ではない。できるだけ体の中心から遠い先端を浅く傷つける。なかなか血が出ずにもどかしい時間が流れる。凝視する群衆のプレッシャーが血の溜まりを遅くさせる。

 なんとか、指先を締め付けて一滴を落とすことに成功する。青褪めた卵に赤い筋が垂れる。どこか安堵したようなため息が隣の来馬から漏れた。

 ぼくの針は来馬の手に、美折の針は戯言少女の手に渡される。白い絹の布で針先を拭い、彼らは深々と掌に針を突き立てる。針の沈む深さでなにかの覚悟を示すような、狂気的な行いだった。来馬は三分の一、戯言少女に至っては針が掌を貫通してしまうほど深々と埋め込む。

 戯言少女が針を突き立てると、村人たちから、おぉッ!とどよめきがこぼれた。

かざされた手のひらから、流れになるほどの量の血が溢れて、卵を濡らし、盃の底に溜まる。

 ぼくと来馬、美折と戯言少女の血を受けた卵。村人たちは固唾を呑んで卵をみつめる。頤は瞑目して坐し、次の指示はない。ぼくも自然と意識が卵に吸い寄せられていく。誰に温められていたわけでもない。長らく放置されていた卵だ。まさか、血を受けて孵るとでもいうのか。

 じわっと、卵の表面を濡らした血が乾いた。

 否、殻に染みこんだ。

 からからにひび割れた大地に雨水が染みこんでいく様を連想させた。目を凝らして卵をみつめると、以前にはなかった小さな孔が無数に開いており、そこから血を吸い込んでいる。幼いころ顕微鏡で観察した、植物の葉にある気孔と瓜二つ。ぱくっと開いて、血を飲み、閉じる。その様子がつぶさに見てとれた。

 怖気が肌を走った。この卵は生きている。殻が自ら呼吸をしている。

 こんな生物はみたことも、聞いたこともない。ひたすらに気味が悪い。

「割れるぞっ」

 村人から声が上がる。

 生きている殻が震える。血でふやけた殻は、内側にいる生き物の動きでぶよぶよと形を変える。本物の蛇や両生類の卵のように薄く柔らかい。

 殻が蠢く。魚群でひしめき合う水面のように、不規則に表面が波打つ。

 割れる、という表現は的確でない。内側から食い破られると言った方が適切だ。

 ぷつ、ぷつと卵に穴が開いていく。水風船に開いた針孔から水がこぼれるように、細い糸が一本、また一本とひり出てくる。黒いイトミミズのような虫がのたくりながら溢れ出す。それらはミミズとは違い、繊毛が無数に生えた口を持っていた。あるいはそれが肛門かもしれないが、グロテスクなデザインに違いなかった。

「おたんじょうび、おめでとう!」

 村人たちが一斉に唱和する。

 おめでとう! おめでとう!

 卵の殻を喰い尽くし、うねるだまになった虫の群れに頭を下げる村人たち。

 おめでとう! おめでとう!

 頤が銀色の箸をつかって、器用に一匹一ミリにも満たない太さの虫を掴み上げる。箸に摘まんだその虫を、白濁した酒のなかに落とす。ひとつの盃に一匹ずつ。黒い虫は乳の池で悠々と泳ぎまわる。生まれたばかりのそれらは、新鮮な世界を楽しむように盃の縁をつついたり、跳ねたり、元気な姿をみせている。村人たちはやんやの喝采でその虫たちを迎える。

「私どもは彼らのことを『心虫しんちゅう』と呼んでおります。この村で崇められる神聖な生き物でございます」

 ぼくらの卵から生まれた心虫を、ぼくら側の盃に。美折たちの卵から生まれた心虫を彼女ら側の盃に、それぞれ振り分けた。

「同じ卵から生まれた兄弟姉妹の心虫たちは、以心伝心、みな繋がっております。我々はこの村の結束の象徴として大切にしておるわけです」

「繋がっている?」

「よぉくご覧になってください」

 頤は銀色の箸を振り上げて、群がってだまになっている心虫に向かって力いっぱい振り下ろした。ぷちぷちと嫌にフレッシュな音が広間を満たした。

 神聖で崇めていると口にした矢先に、その手が虫たちをひねり潰す。その行動の極端な温度差に寒気がした。こいつらは虫と同じように、人間の命に対しても、変わらず接するのではないか。顔色一つ変えずに、愛情ある抱擁を交わしたその手でひねり殺すこともいとわない。血や暴力に何のためらいもない。村の環境がそうさせるのか。それとも役を演じているからできることなのか。

「こちらの虫たちは、この銀の箸で潰してしまいました。すると、直接被害を受けていないにも関わらず、そちらの盃に移した生き残りたちも、このように銀の箸を恐がります。しかし、もう一方の別の卵から生まれた虫たちは、銀の箸をみても逃げません」

 箸で潰されたのはぼくの持っていた卵から生まれた虫たち。それらの生き残りである、ぼくと来馬の前に置かれた、白濁酒で泳ぐ個体は箸が近づくと逃げるように体をくねらせ距離をとる。一方で、美折たち側の虫に箸を近づけても逃げることはなく、巻きつこうとすらしている。

「みる、といいましたが、これは比喩でして、彼らに目はありません。その代わりに臭いに敏感なのですな。自分たちを襲ったものの臭いを覚え、その記憶を兄弟姉妹たちと共有することができる。これは同じ卵から生まれた同胞同士でのみ行われること。以前調査にいらしたエライ学者の先生がおっしゃるには、心虫たちは自らの発するフェロモンで記憶を共有している、と」

 一心異体。頤はまとめて、そう表現した。

「換魂の儀式は、彼ら心虫にお手伝いしてもらいます」

 頤はぼくに虫入りの盃を、ぐいと差し出した。

「ひとつの卵から生まれた虫を、ふたりで分け合って腹に飼う。ふたりの人間の頭のなかを繋げて、体と魂を入れ替える。雪原君は来馬君に。来馬君は雪原君に。上郷さんは巫女様に。巫女様は上郷さんに。取り替えっこをしていただきます」

「なんのために、そんなことを」

 時間稼ぎのために質問を挟み込む。

 頭の中ではもう繋がっていた。神隠しを回避する為に、別人の振りをするという仕来りだ。海砂利や弐座の代役が存在することへの原因でもありそうだ。テーマパークの役割と素の姿のズレを、他人の振りをすることで擦り合わせているのかもしれない。演技と設定を重ねることで、仮初のロールプレイへの障害を取り除く。その言い訳として機能させているのか。

「これは我々なりの『もやい』なのです。瑞尾村は小さな村ですから、みなで協力し合わなければ生きていけない。心を他人と同じくすることで、結びつきを強める。自分以外の他人になって、真の意味で他人を理解する。相互理解の新しい形なのです」

 頤は神隠しの話は一切しない。他者理解だの、助け合いだの、美しい言葉で装飾しても歪さを覆い隠せるものではない。いくらアトラクションでも、正体のわからない虫を呑み込むなんてできるはずない。

「平気だよ。アマゾンとか、アフリカにいって、タランチュラの揚げ物食べるみたいなものだし」

 美折はにこやかに言い切って、差し出された盃を平然と呷る。彼女が呑み込んだのを確認して、戯言少女も虫入りの白濁酒を飲み干した。彼女らの飲みっぷりに村人たちが歓声をあげる。

「毒はないし、胃酸で死んでしまうから健康的にも問題ない」

 来馬も後押しするように耳打ちする。大丈夫だぞ、と自ら呑んでみせる。

 盃がさらに前へ差し出される。

「さぁ、お飲みなさい」

 白い液体にまみれて体を白くした心虫は、アニサキスのような寄生虫にみえてきた。食道や胃に入った虫は、消化管の内壁を食い破り、そのまま脳を目指して体に穴を開けながら這いのぼる。頤の話を聞く限り、この虫は脳に影響を及ぼす可能性があるはずだ。体を穴だらけにする寄生虫。脳に巣食い乗っ取る寄生虫。現実味を帯びた想像が襲ってくる。

「のぉみなすって、おのみなすってぇ!」

 集まった村人から声があがる。

 のぉみなすって、おのみなすってぇ!

 手拍子と癖のある節回しで、御唱和ください。

 大学サークルの悪習、一気飲みのコールにも似た同調圧力がぼくを取り囲む。

 のぉみなすって、おのみなすってぇ!

「さぁ、さぁ」

 盃が迫る。

 虫は踊る。

 大合唱の波紋が広がる。

「さぁ、飲め」

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