2 宵宮祭をたのしもう(10)

 兄弟姉妹の心虫はフェロモンで情報を共有し合う。彼らの生態で特筆すべき点はもうひとつある。それはほかの生物の脳波と同調できるという点である。寄生虫である心虫が宿主の思考を理解しているわけではない。宿主の脳波、人間で言うと思考であるが、それを心虫が自らのものと勘違いして、フェロモンで仲間に情報を伝達しようとする。

 人間の体内に侵入した心虫は、血管を伝って脳を目指す。脳に入った心虫は、人間の脳の活動にしてフェロモンで情報伝達をする。同じ卵生まれの兄弟姉妹と通じ合う。換魂の儀式で心虫を飲まされた人間同士は、別々の体であってもペアの思考、記憶から何からすべて、心虫を介して情報を得ることになる。

 脳を共有された人間の自意識は混乱し、何が起こるかを知らない者は自我喪失状態に陥ることになる。心虫をけしかける村人は、予め心虫で何が起こるか心構えがある。無防備な訪問客の体を、ペアの村人が乗っ取ることは難しくない。しかし、例えペアの体を乗っ取ったとしても、同じ人格の人間がふたりになることはない。自我はふたつに分裂しない。何度も村で儀式を行ってきた経験から、魂の複製は不可能であると結論が出ている。心虫が体内で生きている限り、ふたりは繋がっているせいだ。

 心虫を服用した時点で、それぞれの体には二人分の記憶などの人格情報が与えられている。体はペアのうち、どちらの人間にもなることができる状態におかれる。ここで大事なのが自意識の在処である。自分が何者であるかを、自分自身で認識すること。だから、雪原岳人の体であっても、来馬正巳だと強く意識すれば、自然と人格は来馬正巳として覚醒することができる。

 徐々に明確に覚めてきた意識のなかで、そんな理屈を思い返し、自分が何者なのかをはっきりと自覚していった。ふたつに分けることができない魂は、留まるか移動するかを選ばなくてはならない。この儀式は村人と訪問客がペアになることで、体を積極的に入れ替える方法なのである。

 俺は他人の体のなかで、おれを思い出していった。

 慣れ親しんだ記憶とぎこちない五感。薄ぼんやりとした皮膜に包まれているようで、体が鈍くもどかしい。まだうまく体と馴染んでいないようだ。何度か掌を結んで開いて、動かし方を確かめる。新しい機体に乗り込んだロボットのパイロットにでもなったようだ。

 公民館の裏手、砂を敷き詰めたグラウンドでは宵宮祭の宴がはじまっている。

 グラウンドの中央には二メートルの大きなやぐらが組まれ、丸太や茅で編んだお守り、古くなった注連縄などを薪として燃えている。人々は焚き火を車座の輪となって取り囲む。集まった人々の影が山に焦げ付くほど、煌煌と燃え滾るかがり火。

 俺は心虫による情報共有の後遺症から抜けきらない岳人と美折を連れて輪に加わる。村人たちは思い思い地面に腰を下ろす。円の中央、かがり火前にすえられた舞台にはウケ様が座り、村で作られた白いどぶろくを呷る。俺たちは彼女に感謝の言葉を唱え、時に祭囃子に合わせて歌を歌い、回されてきた酒を飲んで瑞尾村の人の輪の一部となる。

 村人全体で、同じ場、同じ経験を共有する。輪になる。共同体として、伝統と祭りが絆となって村人たちを繋げる。

 大皿に盛られた料理が隣から隣へと回されてくる。村人たちは一口料理を口にして、また隣のひとに渡す。同じ釜の飯を食べる行為を、村人の輪のなかで行う。根菜と猪のごった煮は鍋ごと、村でとれた米でつくったちらし寿司は桶ごと。箸でつつく煮物、しゃもじですくって食べる酢飯。ウケ様が見守るなか、村人たちは火を眺め、談笑し、腹を満たす。宵宮祭の重要な場面である。豊穣の女神であるウケ様の恵みを受けていることを忘れないように、感謝とともに村の実りを自らの体の一部として取り込んでいく。

「夢でもみているみたいだ。まだ頭が混乱しているし、なにから聞いたらいいかわからないぐらい、訳の分からないことが沢山ある」

 酔いと迷いで、ふらつきながらも口に箸を運ぶ岳人。

「儀式の多くは説明されることを嫌うものよ。秘匿は儀式の神聖さを高めるし、何も知らないからこそ有り難がれる。意味を解体されてしまったら、別のもので代用されてしまうでしょ? 神秘は神秘のままでなくっちゃ」

 巫女服姿のままの美折は、疑問を捨て置き、体で儀式を感じているようだった。岳人は逐一納得できないと前に進めない性格だから、意味不明のまま呑み込むのは難しいのだろう。俺は彼と彼女にどぶろくの瓶を差し出し、まぁ一献とお酌する。

「上郷先輩の言う通りです。岳人、お前は考え過ぎなんだ。この特別な場に参加することが、祭礼にとって重要な意味なんだから。効能だとか、理由だとかは二の次さ。伝統ってそういうものだろう」

 俺の役目は緊張の緩和だ。村人と訪問客の間に立ち、緊張感や疑念への緩衝材となる。考えすぎないようにさせること、危険だと思わせないこと、恐怖を薄れさせる場面をつくること。俺が大丈夫だと言えば、安心だと思わせる一種のセンサーとして客に寄り添う。そう、役に立たない警報装置だ。岳人、お前は何も知らないままでいてくれればいい。お前はなにもわからないままが望ましい。伝統の開示は俺の役割じゃない。

 皆の腹が満たされていき、弛緩した雰囲気が漂い始める。

 そろり、そろりと酔いに任せた古老たちの語りが始められる。腰骨のひしゃげた老婆による訥々とした語り。それは村の昔ながらの光景である。

「その昔、この辺りにながいながぁい干ばつが続いて。雨が降り始めたと思ったら、今度は根腐れするほどの長雨が続いてね」

 回ってくる皿が宴会の料理から、儀式用の料理へと様変わりしていく。手間をかけた豪勢な鉢があらかた食べ尽くされて、代わりに水で薄められた粥がお椀に入って渡される。干され過ぎて硬くなった米を何時間もかけて水で溶かしこんだ味も栄養もない食事。薄白い濁り水。

 この村のどぶろくはこの薄粥の思い出と、凶作貧困時代の栄養失調のトラウマから生み出された、とにかく執拗に濃厚にした甘みの癖が強い酒。何週間も碌に食事ができず、やっと口にできたときに米の染み入る甘みを思い出せるように。

「もう無理だ。入らないよ」

 椀を遮った岳人に、それでもと押し付ける。

「これは儀式だ。無理してでも食べ続ける。そういう儀式なんだ」

 さすがの美折も苦しそうで、口を付けることをためらっている。俺は自分の手元に回った椀の中身を、喉を開けて飲み乾した。一杯、二杯――と粥は途切れることなく渡され続ける。示してみせることで、ふたりも渋々口を付ける。一口呑めば大丈夫だ。

 この特別な粥ははっきりいって不味い。しかし、食べ続けることが肝要な儀式において、体に無理強いをさせるためにちょっとしたスパイスが込められている。中毒性という名の、危険なスパイスだ。俺たちは二口目を求めずにはいられない。腹が苦しくても、吐きそうになっても、つい粥を食べ続けたくなってしまう。

 俺たちが満腹感に苛まれている最中にも、古老の語りは続く。しゃがれた声が、火花のはぜる拍子に合わせて語る。

「ここは山奥の村でしょう。木々は枯れ、動物たちは逃げ出し、移動することができない者たちは死に絶えるしか道はない。そんな時代があった。もう何百年も大昔の話じゃって」

 老婆は祖父母のそのまた祖父母の祖父母から受け継いだ昔ばなしを、みてきたかのように身に苦痛を滲ませて話す。村の伝統に染みつき、封じ込められた苦難の記憶。

 満腹を通り越した腹で、無理矢理にでも口を開け、粥を喉に流し込む。椀一杯の粥が回し続けられ、村人たちは黙々と粥を飲み続ける。腹が張り裂けんばかりに膨らみ、喉元まで食道の筋肉をこじ開けて汁がせり上がる。

 村人たちの嘔吐の嗚咽がきこえ、酸臭が鼻につく。焚き火の煙と混ざり合い目に染みる。

「食べるものがなんにもなくてねぇ。木の根を掘り起こして齧り、土を呑んで空腹を誤魔化したりね。もともと山間で稲作には向いていないやせた土地さ。備蓄してある米はわずかで、水で薄く、うすゥくのばして、薪にするものもない。口にずっと含んでなんとかふやかしたら、椀に吐き出して水で溶いて粥にして呑む。糊口をしのぐこともできない日が数週間。なんにんも死んだ。儂らは山を下りることもできずに、死を待つばかりだった。そのとき、儂らの前にウケさまが現れなすった」

 食べたばかりの宴会の御馳走が、中途半端に消化され砂の上にぼとりぼとりと垂れ流れる。粥を飲み、嘔吐し、粥を飲み、吐き戻す。食べ続けたいから吐くのではない。空腹でも食べられなかった祖先のため、祖先の霊を慰めるために無理矢理にでも食べるのだ。

「あの味は忘れられないねぇ。ウケさまが食べ物をお恵みになったのさ……甘くって、しょっぱくって、涙も乾いたはずなのにねぇ」

 老婆はしみじみと思い出す。

 彼女は覚えている。大昔の飢餓した舌で受け入れた食べ物の味を。伊達や酔狂でなく、老婆は自らの経験として覚えているのだ。何代も、何代も、受け継いできた伝統だ。体を乗り換え、人格を継ぎ替え、名前も顔も失っても。

 老婆は換魂の儀によって、何度も何度も子孫の体に乗り移りながら、生の記憶を後世に伝える。生きた伝統そのもの。

 食べて、吐く。

 あの味を思い出すために。

 そうして、満腹の体で眠りにつく。

 村人たちはひとりずつ、意識を途切れさせるように眠りに就いていく。吐しゃ物に塗れながら、酩酊と満腹の多幸感に包まれて祭りの夜に沈んでいく。岳人や美折も、強制された食事と嘔吐の疲労で倒れ込む。明日の本祭に備えて、ゆっくり休むといい。

「おいしいねぇ。おいしいねぇ……ありがとうねぇ……ごめんねぇ」

 老婆はすすり泣きながら、歯抜けた口で粥を噛み続ける。伝統の味を噛み締めながら。

 やがて、おれの意識も曖昧になってきた。瞼が重力に逆らえなくなる。手足を投げだして地面に倒れ込む。ぬかるんだ酷く臭うぬかるみだったけれど、気にする余力もなかった。

 沈んでいく。眠りの中に落ちていく。抗う術はもっていない。

 子守歌が聞こえる。

 彼女の声だ。

 ぼくらが目覚めるまで、彼女は唄い、見守る。

 微睡のなかで、舌の上に残るあの味を思い出していた。

 明日になればまた……おいしいねぇ。ありがとうねぇ。ごめんねぇ。

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