第37話 どこまでも続く空の下で

 その日は穏やかな陽気に包まれた昼下がりだった。抜けるような青空に太陽が輝いており、白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。柔らかな風に背を押され、自然と歩が進んでいくような気持ちの良さだった。

 絶好の行楽日和といえよう。ダイカンデパートにも大勢の人々が訪れており、明るい喧騒に包まれていた。平穏とはこういうものだ。

「ふあっ・・・・・・」

 欠伸が出そうになったのを飲み込む。気を抜いたら眠ってしまいそうだ。

 ダンは展覧会へ出展する作品を待っていた。本来なら裏口から搬送するはずだったが、当日になって突然デパート側から予定を変更することを通達されたのだ。どうやら緊急の荷物が届くことになり、時間がかち合ってしまうらしい。搬入口の混雑を避けるために、表口から運ぶことになったのだ。

 尤も荷物はそこまで多くない。せいぜい木箱が数個程度で済む。デパート側は不手際を謝罪し、ご丁寧に搬入用の通路を空けてくれたのだが、他の客に悪い気がした。


 がらがらと音を立てながら荷車がやってくる。小次郎の指定した時間通りだ。どんどんこの世界に馴染んでおり、下手したら自分よりも知り合いや伝手が増えているかもしれない。

「ダンさんですか?」

 車を押していた男が声を掛けてきた。深々と帽子を被っているので目元が見えない。男の他にも作業員がおり、皆で車を押していた。

「おお、すまんな。荷物はどれかな?」

「手前にありますよ」

 荷台にはいくつかの木箱が積まれている。きっちりと区切られ、誰の荷物かわかるようになっていた。他の配送のついでに届けてくれたのだろう。

 車の後部は分厚い黒い布が二重になって被せてあった。山なりになっているところを見る限り、かなりの大きさの荷物だ。

「サインは必要か」

 問いかけながらもつい視線が布の方に向いてしまう。

 車体の半分以上が布で覆われている異様な外装。よほど日の光に当ててはいけない荷物なのだろうか。それとも人目につかないようにしたいのか。いずれにしろどんな荷物かまるでわからない。

「いいえ、大丈夫ですよ」

 周囲に影が広がっていく。いつの間にか太陽に雲が掛かっており、日射しが遮られていた。先程までとても明るかっただけに、まるで夜が来てしまったような錯覚に陥りそうになる。心なしか風も冷たくなった気がした。

「手伝います」

「すまんな」

 木箱を持って歩き出す。早く運んで他の客に道を譲らなければならない。

 あとはこれらをどうやって飾るかである。先だって展示会のスペースを見させてもらったが、中々の広さだった。だからこそあれこれと迷ってしまう。改めて生徒たちと相談するつもりだが、きっと良い展示会になるだろう。教室にいる皆の笑顔が浮かんでくる。


「あがっ!」

 激しい衝撃が後頭部を襲った。目の前が真っ白に染まり、思考が強制的に中断される。何が起きたのか理解できなかったが、前方へ倒れ込むのを何とか堪えた。両手にしっかりと力を籠める。木箱だけは落とすわけにはいかない。

「な、なにを」

 鼻から下を何かで塞がれた。ツンとした刺激が鼻腔を突き抜け、脳髄まで広がっていく。全身の力が抜けていき、重石を乗せられたように足が沈みこむ。

 必死の抵抗も意味を成さない。両手の指が解け、木箱と一緒に地面に倒れていた。

「まだ、まだだ」

 途切れそうな意識を何とか繋ぎ止め、状況を整理する。

 消毒液を混ぜ合わせたような臭いが鼻に残留しており、吐き気が込み上げてくる。髭に纏わりついた砂利の感触は否が応でも不快感を掻き立てた。

 肉体に力が入らず、起き上がれない。突然の不調もあるが、誰かが背中に乗っており、上手く身動きできないのだ。両腕もしっかりと押さえつけられている。

 耳を打つ怒号と悲鳴。デパートの入り口から我先に人々は逃げ出し、遠巻きに様子を窺っている。専用の通路を通っていたので、客には被害が及ばなかったのだ。不幸中の幸いと言えるだろう。

 自分の倒れている場所は穴が空いたようなスペースができあがっていた。

「あがっ、ぐっ、はっ」

 自由の効かない肉体を強引に動かし、落ちた木箱へ手を伸ばす。何が起きたのかまるで理解できないが、あれは絶対に守らなくてはいけない。生徒たちが作り上げたこの世で唯一の作品なのだから。


「ククククク……ハハハハハ……ハァーハハハハ」

 そんな必死な想いを嘲笑う声が轟いた。

 何時からいたのか。何処から出現したのか。これだけの群衆がいながら誰も気づかない。

 まるで闇が形を作ったように、ソレは突然現れる。

 漆黒のコスチュームを纏い、鮮やかにマントを翻す。禍々しく描かれたメイクは地獄に咲いた花のように思える。彼が現れたことによって陽光を全て塞いでしまった。そんな錯覚を与えるほどの存在感。

 遠巻きに見ていた人々の反応は様々だ。恐れ戦く者もいれば、怒りの声を上げ、憎しみの目を向ける者もいる。

 平穏を打ち壊し、絶望をまき散らし、恐怖を与える。この平和な世界に存在してはいけないモノ。今、この町で最も嫌われていると言っても過言ではない。


 FWEが生み出した怪物――ゲドキングが立っていた。


「我が現れることに気づかぬとはな。愚かなことだ」

 地の底から響くような声は闇に染められている。わかっていたことだが、小次郎とは別人のようにしか見えなかった。

「な、なにを。どういうつもりなんですか」

 潰れかけた喉で声を絞り出す。事ここに至りキャラを貫いている余裕などない。目の前の状況に頭も心も追いつかないのだ。

「求めるものは貴様らの苦しみよ。絶望に震え、涙する姿こそが最高の糧なのだ!」

 他者を見下す視線。相手を徹底的に貶める口調。嘲りの含んだ声は他者の尊厳をとことん踏みにじる。他人を苛つかせることにかけて右に出る者はいない。悪役として見事なまでの立ち居振る舞いだ。

「ちが、違う。ぼ、ぼくは」

 聞きたいのはそれじゃない。会いたいのは彼じゃない。ゲドキングではなく、瀬田小次郎に問うているのだ。

「やめてくだしあ、こんな、こじ」

 咄嗟に叫びそうになった口を強引に塞がれる。ここで名前を呼んだら全て台無しになるが、そんなことに気を回す余裕などなかった。

 先程から胸騒ぎが止まらない。心臓が激しく木霊し、目の奥が熱くなる。喉はカラカラに渇いており、満足に呼吸もできなかった。まるで極寒の地にいるように肉体が冷えており、指先の感覚がない。焦れる心だけが激しく叫んでいた。


「その目を開け。ただ恐怖しろ。魂の奥底まで刻むがいい」

 どれだけ泣き叫んでも意味はない。情けないほど懇願しても届かない。

 目の前にいるのは瀬田小次郎ではないからだ。

 だからこそできる。

 普段の彼にはできないことも、あの姿になれば容赦なく実行してしまう。

「や、やめろ。やめてくだ、おね、おねがいだから」

 絞り出した声は言葉になっていない。口を塞がれ、満足に喋れない。それでも決して目を逸らさぬよう強引に顔を押さえつけられる。

 必死の懇願も虚しく、ゲドキングは落ちていた木箱を蹴り上げる。散乱した服は苦痛に歪んでいるようにも見えた。声にならない声が響いている。

 これは錯覚ではなく、幻聴でもない。誰よりも近くで見てきた。あれを作りあげるためにどれだけ生徒たちが頑張ってきたかを。あの服や編み物には沢山の想いが宿り、祈りが詰まっているのだ。

「くだらんな。足を拭く道具にしかならん」

 踏みつけ、汚し、蹂躙する。容赦も躊躇いもなく、ただ欲望の赴くままに。

「うぁああああああああああああああああああ」

 限界だった。何かが弾け飛び、巨大な熱が全身を支配する。

「くそっ、くそが! なんで、なんでなん、だよ!」

 その思いに身体が応えてくれない。目の前の男をぐちゃぐちゃにしてやりたいのに、肉体が思うように動かせないのだ。背後で押さえつけている者たちのせいではない。

 不快な臭いは未だに全身を支配しており、根元から力が奪われている感覚がした。気持ちだけが空回りし続ける。

 思い通りにならない状況に涙が溢れていた。壊れそうなほど噛み締めた口から血が零れ落ちる。


「おい、もしかしてあれって」

「今度の展示会に飾るやつだよ。ほら、ラジオで話してたじゃん」

 ざわめきは巨大な波となって群衆に広がっていく。何度か宣伝をしていたので事情を理解しているのだ。その非道な行いに怒りを向ける者もいたが、遠巻きに見ていることしかできない。恐怖のあまりとてもじゃないが近寄れないのだ。

 そんな姿を見てますますゲドキングは笑いを深めていく。


(こいつは悪魔だ。いや、そんなものすら生温い)

 何も事情を知らないというならまだわかる。こういう行いも割り切ってできるだろう。

 だが瀬田小次郎はこれまでのことをずっと見てきたのだ。生徒たちの顔や名前は当然知っている。抱えている事情だって、ある程度まで理解している。誰よりも親身になり、色んな事に手を貸してくれた。FWEの仲間内で一番手伝ってくれたのは他でもない彼なのだ。

 あれは決して上辺だけのものではない。計算や計画のためとも思えなかった。もし含むものがあれば生徒たちに見抜かれてしまうだろう。難しい事情を抱えている者が多いからこそ、そういうものに敏感なのだ。生半可な気持ちでは信頼を勝ち取れない。

 小次郎に感謝している生徒は沢山いる。彼らの想いに気づかないはずがない。クズな一面もあるが小次郎は他人の心情を理解できなかったり、共感できないような人種ではないからだ。

 むしろ誰よりも理解できているかもしれない。リングの上であれほどまでに観客を煽れるのは、そういう機微がわかるからだ。

 彼はどこまでも人間なのだ。人の理から外れた魔物の如き存在ではなく、天から降る得体の知れないモノでもない。

 だからこそ理解不能だった。

 どんな精神構造をしていれば、こんな行いができるのか。どういう思考回路をしていれば、こんな選択を導き出せるのか。人として心が痛むことはないのか。

(ここまで・・・・・・ここまで徹することができるのか)

 目の前にいるのは瀬田小次郎ではない。最強ヒールのゲドキング。

 別人であり、別の存在。

 理屈は嫌というほどわかっている。何度もその目で見てきたし、こうして思い知らされている。

 それでも納得できるかは別の話である。本当に化け物や怪物のようにしか思えない。


 ひときわ大きな歓声が上がる。悲鳴の色に染まっており、恐怖という成分が零れ落ちそうなほど詰まっている。

「・・・・・・ダメだ」

 強烈な刺激臭が鼻を衝き、鼻腔を支配していた薬品臭さをたちまち吹き飛ばす。パチパチと弾ける音が耳を打つ。心をかき乱すほどリズムが良かった。

 鮮やかな赤が眼球を覆い尽くす。小さな炎は天を焦がすような勢いで揺れていた。

「やめてくれ」

 心の底から発する祈り。強烈な吐き気と眩暈に苛まれながら、必死になって手を伸ばす。

 そんな自分を嘲笑うように、ゲドキングは煌々と燃える松明を受け取り、落ちていた服を拾う。

 まるで時が止まったようにゆっくりと景色が流れていく。あまりにも非日常すぎて現実感がない。作り物の世界の中にいるような感覚がする。

 だがこの胸を裂く痛みが、心を押し潰さる苦しみが夢であるはずがない。どれだけ信じたくなくても、無情なまでに現実は訪れる。

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」

 慟哭が虚しく天に響き、黒い雨が落ちていく。はらはらと舞う黒は光を奪い、世界を閉ざした。



 世に謂う『ダイカンデパート襲撃事件』はこうして幕を閉じた。

 敵対するレスラーに白昼堂々襲い掛かるという前代未聞の大事件は、巨大な衝撃となって瞬く間に人々の間へ広がった。

 ファンの間でも語り草になっており、数あるFWEの事件史の中で最も印象に残ったものに挙げる者も多かった。

 首謀者と見られるゲドキング一味は嵐のように去ってしまった。後日、FWEに問い合わせや抗議が殺到したようだが、犯罪として扱われなかった。

 事件の規模に対して、負傷者が一人もいなかったからだ。デパート側から被害届が出ることもなく、公的な機関も動かなかった。

 このため事件の詳細は後年になっても明らかにされていない。状況に際して不自然な点も多く、最初から事件性があるのか疑う者も出てくるのだが、真相は闇の中である。口を割るものが誰もいなかったのである。

 ただ一つだけはっきりしていることがある。


 このあと『ダン対ゲドキング』のカードが正式に発表されたのだ。

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