第23話 会場の声


 今やベビーフェイスとして応援されるはずの自分を見ている者はいない。誰もがゲドキングの漆黒の闇に飲まれている。攻撃らしい攻撃をほとんどされておらず、ダメージだってほとんどない。それなのに完全に格付けをされてしまった。

 自分はただ利用され、体のいい見世物にされているだけ。最後だけは譲ってやるから、それまでは何もするなと。そんな実力はないだろうと。

(この試合は最後に私が勝つ。きっとゲドキングもそれは守る。でも、でも)

 果たして自分のファイトを覚えている人間がいるだろうか。帰り道や飲食店で語られるのは、ゲドキングの非道な行いや卑怯な戦い。アルコという選手の戦いなど何一つとして印象に残らない。下手をすれば名前すら覚えてもらえない。

 頭の中が赤く染まっていく。感じたことのない猛烈な怒りが湧き起こる。悔しさが身を掻きむしる。誰にも見てもらえないという事実。それはクラフトアーツの試合に負けるよりも遥かに悔しかった。

 心の中が熱く燃え上がる。血液が生き物のように這いずる。何かが壊れる音がする。重い枷はもうない。


「うあああああああああああああああ」

 感情のまま叫んだ。言葉にならないものが腹から絞り出される。椅子を跳ねのけようと暴れだす。

 その様子を見ながら、ゲドキングはようやく椅子をどけた。

 アルコはすぐに態勢を整える。目の前の敵は泰然とした様子を崩していない。その澄ました顔を無茶苦茶にしてやりたい。余裕ある振る舞いを壊してやりたい。この激しい想いはブックや打ち合わせで用意されたものでなく、演技でもない。

 そう。相手は瀬田小次郎ではない。ゲドキングなのだ。遠慮など何一ついらない。

「オラぁぁぁあああ!」

 思いきり振り抜いたエルボーパッド。呼吸の続く限り何度でも叩きこんでいく。フォームなど頭にない。どこを打っているかも判別できないまま、がむしゃらに腕を振るっていく。


『怒りの大反撃ぃぃぃぃ! アルコ選手の今までの怒りが爆発している!』

『いいですよ。ここで形勢を覆したいところですね」

 攻撃を受けながらもゲドキングの口端が上がった気がした。ゆっくりと右腕を水平に構える。やっと仕掛けてくる気だ。喜んでいる場合ではない。受身を取るためしっかりと胸を張る。

 ばちんと激しい炸裂音が鎖骨を突き破る。脳髄を震わせる衝撃に尻尾が逆立つ。焼けるような痛みは火薬を暴発させたとすら思えた。リングの上でなければ咳き込んでいた。

(な、何が手加減よ。この詐欺師!)

 ノーガードの相手に攻撃をクリーンヒットさせるなど、鍛えている選手ならいくらでもできる。試合を終わらせようと思えば、いつでも終わらせられるのだ。なるほど。確かにそういう意味で手加減はしている。

 だが意識は奪われなくても痛みは積み重なる。十の打撃を八や七にしているだけで痛いものは痛いのだ。何発も受ければ肉体が悲鳴を上げる。

 でもここで引くわけにはいかない。ありったけの闘志を込めて睨みつける。


『リング中央。両者ともに激しく打ち合います。一歩も引く気はありません。意地と意地がぶつかり合っています』

 激しい打撃戦。ようやく当初の流れを展開できたが、そんなことはどうでもいい。感情のままに突き動かされている。

 すると今度はゲドキングから組み付いてきた。頭を脇に抱え込み、もう片方の手はタイツを掴んでいる。力を入れると身体が浮き上がり、ゲドキングの頭上で制止する。

 ブレーンバスターという技である。何度かスパーリングでくらったが、ここまで滞空時間が長いのは初めてだ。観客に見せつけるようにしているのだ。無駄な抵抗は一切しない。暴れれば逃げられるとわかっていても逃げない。重力が背中に掛かると同時に覚悟を決める。

 激しい衝撃音が轟き、背中から思いきりマットに叩きつけられた。激痛が走り、呼吸が止まる。見上げた天井が霞んでいる。


「もうだめだ。彼女はよくやったよ」

「無理だよ。勝てっこない」


 不思議と声が聞こえる気がした。口に出さなくてもそう思っている者は多いだろう。当たり前である。力なく寝込んでいる姿は悲痛さに満ちていた。ここまで好き勝手にされて、さぞ哀れに思えるだろう。

 実際に力が入らないのだ。痛みが消えることはない。骨と肉が軋んでおり、内臓がぐちゃぐちゃにされた気分だ。泣き言を言えたらどれだけ楽だろう。

 それでも立つ。立ってみせる。握った拳に闘志を込めて、ふらつく足に気合を入れる。小刻みに揺れる肉体。視線だけは真っ直ぐに相手を見据え、全神経を傾ける。

 小次郎はアンテナを張れと言っていた。ある声を聴くために。


「がんばれ」

「負けるな」

「ここからだ」


 聞こえた。聴こえた。耳に届いた。

 場所はバラバラで声もか細い。それでもはっきり聞こえたのだ。熱い思いが心を震わせる。自然と頭の耳に手をやった。そんなことをしても聴力が上がるわけじゃない。言ってしまえばパフォーマンスだ。

 だが観客はどうだ。この仕草を見て、何を思う。この動作を見て、何を感じる。


「いけるぞ」

「まだやれる」

「頑張って」


 声援がどんどん大きくなる。声が届いていると信じているのだ。老いも若いも男も女もたくさんの声が混じる。会場の色が変化していく。波が動いているのだ。


(耳を傾けろ。意識を配れ。私が戦うのは観客なんだから!)

 これだけ声を出してくれるのだ。とことん応えてあげたい。ただの勝ち負けだけじゃない。彼らが喜ぶことをする。求めるものを提供するのだ。

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