第19話 彼の生きる道
ピチャン。ピチャン。肉体が上下するたびに水音が木霊する。流れた汗で床に水溜りができているが、黙々とスクワットを続ける。
「まだやってたの。オーバーワークに気をつけろ、って言ったのはどこの誰かしら」
アルコが呆れたような目を浮かべている。いつ稽古場にやってきたのかまるでわからなかった。
「鍛え方が違うのさ。ようやく温まってきたところだ」
身体から蒸気が上がっており、火傷したかのように筋肉が熱い。むしろここからが本番である。
「無理しすぎじゃないの。色々とさ」
事実小次郎はやりすぎというほど動いていた。ベビーフェイスとヒールの両方にプロレスのノウハウを教え、練習メニューも組んでいる。
仕事はリングの上だけではない。営業や広報活動、グッズ販売の用意や打ち合わせ。興行開催を前にしてますます忙しさを増している。もちろん小次郎だけが働いているわけではないが、その負担は大きかった。
だがじっくりと準備を整えている時間はない。プロレスで新風を巻き起こすといえば聞こえはいいが、小次郎はアルコたちが起ち上げようとした団体を半ば奪ったような形なのだ。
どこかで出資してくれた者たちを納得させる必要があり、グズグズしていたら二度と金を出してくれないかもしれない。何処の世界でも締め切りや納期はあるのだ。急ピッチでもやるしかない。
「心配してくれてんのか。優しいじゃないか」
「試合前に倒れたら元も子もないでしょうが。少しは自分のことを大事にしなさいよ」
朝は誰よりも早く起き、夜は遅く寝る。傍から見ればいつ休んでいるかわからず、当の昔にパンクしていてもおかしくない。肉体だけでなく、精神にもダメージはくるからだ。
「だからって言い訳にはならねぇよ。しょっぱい試合は観せられないからな」
どんなに忙しくても自分の練習を疎かにはできない。小次郎の事情など客には関係ないことだからだ。
「客は正直だぞ。手を抜けばすぐに伝わっちまう。この世で一番恐ろしいものだ」
予め結末が決まっているショーマッチは試合の勝敗には拘らない。だからといって適当にこなしていいわけがない。エンターテイメントだからこそ客の目線はよりシビアになる。
「あんたでもそんな風に思うんだ」
「当たり前だろ。俺を何だと思っている」
「どうしようもないバカ。頭のネジが外れかかっている狂人。やりたい放題する蛮族。向こう見ずの賭博師。魔王も騙しそうな胡散臭い詐欺師。他人を破滅に引きずりこむ男」
「上出来だな。よくもそこまで言えるもんだ」
褒めているのか貶しているのかわからない。淀みなく出てくるので感心してしまう。本番でできたらマイクアピールに困らない。
「言われて当然でしょう。どんな神経してればそこまでできるのよ」
普段の小次郎は決して嫌な人間ではない。明るくて気持ちの良い青年である。他人のこともちゃんと思いやれる男だ。
しかし行動や思考がまともであるかと問われたら、疑問符を付けられてもおかしくない。仲間であるアルコの目から見ても、異常に映るときがあるからだ。
「お前は呼吸をすることに疑問を持つか。水を飲むことを止められるか。これはそういう話なんだよ」
一つのことに打ち込むという段階など通り過ぎている。プロレスに全てを捧げており、自らの人生はプロレスのためにあると断言できる。
最初は憧れで始めたものはどんどん大きなウエイトを占めるようになっていき、ついには己の全てになっていた。取り憑かれたといっても過言ではない。
「悪い男に騙されたってのもあるけどな。お前も気をつけろよ」
いくらプロレスが好きでも、師匠がいなかったらこんな風になっていない。何しろ小さいときからノウハウを徹底的に叩きこまれてきたのだ。間違いなく彼にも責任がある。
今なら一種の洗脳みたいなものだと自覚できるが、今更止まることなどできない。プロレスと無関係になったところで、幸福に過ごす未来が訪れるとは思えなかった。
『自分はこうなった。それならとことん突き進むだけだ』
他人にどう思われようが、どれだけ巻き込もうが関係ない。どのみち止められないなら気にしても仕方ないのだ。
「そっちこそコンディションは整えろ。緊張するのはわかるけどな」
「してるわけない。元気よ、元気」
口調が片言になっており、明らかに嘘だとわかる。人前でプロレスをするのは初めてだし、アルコは当日のメインマッチを担当する。不安になるのは当然だ。
「気持ちはわかるさ。俺も初めてリングに上がる前はそうだった」
苦笑しながら頬をかく。思い出すだけで恥ずかしい。決して消えることはない記憶だ。
「そのときはどうだったの?」
「全然ダメ。頭の中が真っ白だった。何をしているのかわからなかったよ」
子供の頃から憧れ続けたプロレスのリング。会場は本当に小さく、観客は百人もいない。師匠に鍛えてもらって自信はあったが、思っていたことの半分もできなかった。
「だけど師匠がしっかり引っ張ってくれたから何とか試合の形は保てた。人間としてはかなりアレだけど、レスラーとしては超一流さ」
相手への信頼があるからこそ良いファイトができる。師匠にしてもらったことを今度は自分がやればいい。
「お前は全力でぶつかってくればいいさ。こいつを叩きこんでこい。いくらでも受けてやる」
アルコの手を取り、自分の胸にぶつける。魅力をとことん引き出したい。
「大丈夫よ。試合であんたに心配なんてかけないから」
強がりを言いながら腕を離し、そっぽを向く。意地を張る姿はいつもと変わらないが、少しは固さが取れたのか表情が柔らかくなる。
「そうかい。だったら今日はもう寝ろ。眠れなくても横になっておけ」
緊張しているのは小次郎も同じだが表に出さない。この世界で本当にプロレスが受け入れられるのかわからないし、興行として成功できる保証もない。失敗すれば借金取りにどんな目に遭わされることか。文字通り生命の懸かった瀬戸際に立っている。
「あたし・・・・・・ほんとは勇者に憧れてたの。ずっとずっと憧れて、勇者みたいに強くなりたかった」
消えそうな声だがはっきりと聞こえた。俯いた姿は普段の彼女からは想像できないほど頼りない。
「でも同じくらい悔しかった。勇者はこんな凄い冒険をしているのに、共に戦えなかったことが。あんたの言い方を借りるなら、リングに上がれなかったのが辛かった」
憧れたヒーローに追いつくために自分を鍛え、ほんの少しの自信を持てるくらいには強くなった。でもそのヒーローはもういない。物語の中でしか出会うことができない。
「あんたの話を全部信じたわけじゃないけど、本当にそうならもっと悔しいし、不安だよ。私たちは何もできないんだって、言われたようなものだから」
勇者に置いていかれた者たち。彼女の一族もまた戦力としてみなされず、ヒーローと思っていた人間にただ利用された。
人間最強主義の名のもとに適正な評価を得られなかった。先祖や他の種族の仲間が悪く言われることが我慢できなかったからこそ、その価値観を覆そうとした。
だがその原因を作ったのは他でもない勇者。彼女には受け入れがたい真実だ。今も心の中で葛藤は続いていたのだ。
先行きの見えない不安、自分の中に生じた悔しさと迷い。ぶつけようのない沢山の感情が自分を取り巻いている。眠れないのは緊張だけではなかったのだ。
「不安は誰にでもあるさ。どんな選手も必ず抱えている。こればかりは乗り越えるしかない」
レスラーは大なり小なりあらゆるものを抱えている。潰されるか、乗り越えるかは本人にしかできないことだ。選手自身が答えを出すしかないのだ。
「だけどお前が感じていることは無駄じゃないさ。それは必ずお前のエネルギーになる。鬱屈した思いや感情を爆発させろ。下手に枷なんてつけるな。思いきり出してみろ。ファンはそこに共感するんだ」
全部を出せるのがプロレスリング。明るいものも暗いものもとことんアピールできる。多くの人間を動かすことができる。
「迷ったら客の声に耳を傾けろ。敵にするのか、味方になるか。全ては自分次第だ」
客は世界で一番恐いもの。だが客がいなければ興行は成り立たない。だったら全力で満足させるだけだ。
「あんたはほんとにブレないわね。優しく慰めるとかできないの」
「抱きしめてほしかったのか?」
「冗談やめてよ。蹴ってやるから」
顔を上げて赤い舌を出す。少しは元気が出たようだ。アルコは今このときも戦っている。残念ながらこればかりは助けてやれない。だからこそ彼女を信じて見守る。全ては明日の試合で答えが出る。
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