第11話

「一体どうしたのさ。何故、君が傷だらけに?」


 そう、しどろもどろに口にしかけた時、


「帰るぞ、デイビーっ!」


 一喝するような怒号が、オーティスの口から飛び出た。


 直後、彼の傷だらけの大きな手は、デイビーの手をしっかりと掴んでいた。デイビーは更に驚いたが、掴まれた腕から雷のような光が上がって、弾くような衝撃音が小刻みに起こり出したのを見て「あっ」とその顔を強張らせた。


 短い呻きと共に、オーティスの顔が苦痛に歪む。焦げるような匂いと共に、彼の傷が増えるのを見て、デイビーはこう叫んだ。


「オーティス、今すぐその手を離して! よく分からないけれど、離した方がいい!」


 すると、オーティスは苦痛に歪んだ顔を、必死に横へと振った。


「いいや、離さない! 俺は、ようやく掴んだのだ!」


 離すものかと歯を食いしばり、更に手に力を込めたオーティスが青年の方を見やった。デイビーが「わけが分からない」というように振り返ると、青年が少し悲しそうに、けれど、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。


「考えたね、オーティス君。カゴは昇る事しか出来ないけれど、自分のカゴを引き連れていない今の君なら、引きずり降ろす事が出来る」


 すると、オーティスは鼻を鳴らした。


「下で『あなたのコウノトリだ』とか言う知らない女に会って、ここを登るように言われた。急げば間に合う、と」


 腹に響くような低い声で言ったオーティスが、続いてデイビーを見た。


 その目が、不意に細められるようにして歪んだ。憤りや悲痛が入り混じったようなその表情に、デイビーは投げかけようとした言葉も忘れ、思わず息を呑んだ。


「一体どうしたんだい、オーティス。何が君にそんな辛い想いをさせているんだ?」


 そう声を掛けたら、オーティスが慈悲を願う声で「デイビー」と呼んだ。


「帰ろう、デイビー。俺はただ、お前と張り合っていたいだけだったのだ。それなのに、そんな俺を、どうか置いていってくれるな」


 置いていく? 一体、何を?


 オーティスの弱々しい囁きに、デイビーはひどく苦しくなった。引き寄せられまいと後ろへと身を引きながら、どうにか言葉を探して口にする。


「で、でも、君も登りきった。こうして、天空橋を登ってきたじゃないか。君を置いていってはいない。ほんの少し先に、僕が辿り着いただけで――」


 けれど不意に、デイビーは言葉を切ってしまった。光と衝撃音に包まれながら、オーティスが痛みと悲しみにその顔を歪めたのだ。


 そんな彼を見たのは、デイビーは生まれて初めてだった。どうして、と疑問を投げかけようとして、すでにその答えを知っているような感覚に捕らわれた。


 きっと、この手が離れたら、二度とオーティスとは会えないだろう。


 そんな想いに駆られ、デイビーもまた悲しげに顔を歪めて黙り込んだ。


「――よし、行くぞ」


 すると、前触れもなく、そんなオーティスの声が上がった。デイビーが反応するよりも早く、オーティスがその手を掴んだまま雲の下へと彼を引きずり込む。


 デイビーの短い悲鳴よりも先に、彼の後ろから青年が雲の中へと飛び込んで「じゃあよろしく」と言って、オーティスに手を差し出した。オーティスは頭から落ち出しながら、右手でデイビーを掴んだまま、左手で青年の手をむんずと掴んだ。


 閃光とともに、オーティスの身体に向けて鋭い音が連続して起こり、デイビーは眩しさと衝撃音に思わず一度目を閉じてしまった。雲から身体が抜けた眩しさに目を開けてみると、金緑と白い光が視界いっぱいに広がった。


 デイビーは、浮いている自分の身体と青年の身体が、オーティスに引きずられるようにして落下している事に気付いた。じょじょに速さを増した落下に、デイビーが悲鳴を上げるよりも早く、あっという間に金緑の広い木々が眼前に迫っていた。


 デイビーは悲鳴を上げかけて、ハッとオーティスを見やった。新鮮な空気や金緑の木、そして、青年やデイビーからも一層強い白銀の光りが飛び出して、オーティスを攻撃し始めていたのだ。


 傷だらけのオーティス、それなのに更に傷が増えてしまう。


「だめだオーティス! とても痛いだろう、だから、どうか僕を離して――」


 そう叫んだデイビーは、梯子のそばに、先程会った老人が立っている事に気付いた。彼は苦痛に歪むオーティスを真っ直ぐに見て、すうっと息を吸い込んだかと思うと、カッと目を見開いて怒鳴った。


「決して手を離してはならんぞ! いいか、どんなに痛かろうが決して手を離すな! 諦めたらそれで終わりだ! 真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ地上へ帰って行け!」


 わけも分からずデイビーが老人を見つめていると、オーティスを挟んだ隣で、青年が「やぁ」と挨拶するように手を上げて、老人に笑い掛けた。


「待っている『未来の彼』によろしく。一旦さようなら、ご老人」

「ああ。コンチクショーめ、ずっと遠い未来まで帰って来るんじゃないぞ!」


 デイビーは雲に突き入る直前、皺が刻まれた老人の顔に、ああ、と安堵の微笑みが浮かぶのを見た。その熱くなった瞳は潤み、そこから美しい滴が一つ、雲の上に落ちて行く。


 老人がこちらを見て、ちょろっと照れたように手を振って唇を動かした。


――デイビー。今度は共に、この歳になるまで。


 その目の奥に宿った強い輝きの名残りを見て、デイビーは小さく目を開いた。


 オーティス……? そう開きかけたデイビーの口が、そのまま雲の中にかき消える。激しい光のぶつかり合いで視界が遮られたデイビーは、腕に感じるオーティスの大きな手以外、途端に何も分からなくなった。


 薄らいでいく意識の中で、たくさんの美しい声がデイビーに降り注いだ。「さよなら、さよなら」「また会いましょう、愛しい子」「さよなら、またいつか会いましょう」「それまでお元気で、デイビー」「また迎えに行くよ」「きっと、また会おう」……。


 ごぉーん、と頭を強く叩かれるような衝撃を、デイビーは感じた。


 記憶の奥で、誰かが「デイビー!」とひどく悲痛な声で叫んだのを思い出す。「ああ、神様!」と言って、歯が少し飛び出た少年が崩れ落ち、オーティス達が駆け寄って来る映像が、突如としてデイビーの頭の中に流れ込んできた。


 ああ、そうだった。僕は――


 デイビーは、手にオーティスの重みを感じながら、とうとう意識を手放し、どこまでも眩しい光の中へと落ちて行った。

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