第5話

 ――不意に、ごーん、と頭を強く打たれるような轟音がした。


 ハッ、としてデイビーは飛び起きた。まるで「起きろ!」と一喝されたような目覚めに、彼は弾かれるように上体を起こして思わず「はい!」と答えた自分の声で、我に返った。


 そこには、秋の肌寒い風が吹いていた。


 そよそよと流れを作る草原の真ん中で、デイビーは辺りを見回した。


 辺りには民家の一つも見えず、立ち上がってぐるりと見回しても、草原が続いているばかりだった。見慣れた岩山もなければ、緩やかな草原の盛り上がりすら確認出来ない。


 そこは夜だった。頭上で輝く、これまでに見た事もない膨大な星の輝きに、デイビーはだいぶ夜空に近い場所に立っているのではないか、と錯覚しかけた。少し欠けた月の光りも眩しくて、草原が淡い緑の色を放って、ぼんやりと揺れているように感じた。


 ここは、どこだ? 僕は、さっきまで、ウチに帰ってきた父さんが、家に向かう後ろ姿を見ていたのでは――


「天空橋がやって来るよ」


 ふと、どこからともなく声が聞こえ、デイビーは振り返った。何故か彼の中に驚きはなく、振り返った先にいた青年を見ても「彼がいて当然だ」としか、もう感じなくなっていた。


 デイビーは、青年の深い青の髪が、風で揺れるのをぼんやりと眺めた。


 その白く整った顔が、にっこりと笑むのを見てデイビーはようやく頷いた。


「うん、そうだね。僕は天空橋を待っているのだ」

「そう。君と僕は、天空橋を待っているんだよ」


 青年が、草木の囁きのような美しい声でそう答えた。デイビーは、天空橋を登るためにここにきた事を、当然のように思って深く頷き、それから青年と一緒になって夜空を見上げた。


 どうやって、ここまで来たのだったか思い出せない。


 でもそんなのは関係なかった。先程まで雲一つなかった夜空には、小さな雲が流れ始めている。


「登り名人は、天空橋で試されるという。僕は今日、それに登ってみせる」


 自分に言い聞かせるように、デイビーはそう呟いた。不意にオーティスの事を思い出して、青年を振り返る。


「オーティスは、もう登ってしまったのかな」

「彼は、まだ登ってはいないよ」


 青年は笑顔で、ハッキリと答えて否定した。彼はオーティスを知っている人なのだろうかとか、そういった疑問もすぐに霞んでしまって、デイビーは胸を撫で下ろして夜空を見上げた。


 デイビーは、しばらく青年と一緒に、緑とも青ともつかない光を放つ雲を待っていた。しかし、不意に彼は小首を傾げると、両ズボンのポケットに触れた。


「どうしたの? ポケットに何か、用事でも?」

「水と青い実と星を入れるための袋を、持ってくるのを忘れてしまったようだ」


 オーティスが言っていたのを思い出したのだ。同じミスをしてしまったと気付いて、デイビーの気持ちは沈んだ。


「あれを持って帰らないと、僕が天空橋に登ったと信じてもらえないよ」

「君、何を言っているんだい? 来る前に僕に預かけた事を、もう忘れてしまったの?」


 そんな事を言われて、デイビーは青年を見上げた。


 にっこりと笑う青年の綺麗な白い手には、牛の皮で作られた、丈夫な水袋と大きめの袋があった。どちらも縫い目がしっかりとしていて、それぞれ頑丈な黒い革で袋の口が作られている。


「ああ、そうだった。来る前に君に預けていたんだった」


 どうして忘れてしまっていたんだろう、とデイビーは不思議に思いながら、それを青年から受け取った。


 だってデイビーは、彼の事をよく知っているのだ。彼もまた、デイビーの事をよく知っている。二人は笑い合うと、合図があったわけでもなく同時に夜空を見上げた。


 空一面が、すでに厚い雲で覆われていたがデイビーは驚かなかった。


「天空橋がようやく、やって来るね」


 彼は青年に向かってそう声を投げながら、頭上に広がっていく羊の毛のような雲が続く天を仰いだ。嫌な感じもしないその雲は、もこもこと厚みを増して集まって来る。


 とうとう、もこもことした真っ白い雲が空一面を厚く覆った。白くて明るいので、デイビーはまるで夜を感じなかった。そよぐ風がぴたりと止まったのを合図に、彼は一つ頷く。


「そろそろ来るね。両手を使うのだから、これはポケットにしまわなければ」


 そう呟いて、水袋の膨らんでいる底部分からポケットに押し込んだ。大きめの袋は、ズボンの後ろポケットに、落ちてしまわないようにしっかりと両手で詰め込む。前にも一度、こうして入れたので、デイビーの手付きは随分と慣れたものだった。


「僕が言わなくとも、ちゃちゃっとやっちゃうんだね」


 青年が可笑しそうに笑った。デイビーは「当然だよ。すっかり身に染みてしまったんだから」と答えながら白い空を見上げ、ふと「そうだっただろうか」と、自分でもよく分からない事が脳裏を過ぎって小首を傾げた。


「どうしたの、変な顔をして?」

「さぁ。どうしてそんな顔をしてしまったのか、と、僕自身も思ったところだよ」


 その時、不意に青年が「あっ」と声を上げた。


 二人の頭上部分の雲の中から、淡い光がこぼれ始めていた。それは緑とも青ともとれない輝きを放ちながら、雲の中で様々と色を変えるようにして動いている。


「そろそろやって来るよ、――君は登れるかい? それとも『カゴ』は必要かな?」

「登れるよ。ああ、もうそろそろだね」


 デイビーは、頷きしっかり答え返した。淡い光の渦が雲の中で起こり、短い直線を描くように漏れた眩しい光から、白銀に輝くモノが音もなく降りて来る。


 その眩しさと共に「さぁ、登っておいで」と優しい声をかけられたような錯覚を覚えた。デイビーは不思議な気持ちで「今から行くよ」と静かに答えていた。


 雲の中から降りて来たのは、星を砕いて混ぜたように光り輝く白銀の梯子だった。それは音もなく草原に降り立つと、しっかりと土台を固定するように土へと打ちこまれた。


 普通ならばひどい衝撃音が上がるはずなのに、二人の耳に聞こえてきたのは、シャン、という音楽のような美しい響きだけだった。


「さぁ、行こう」


 デイビーが言うと、青年が先に梯子に手を掛けて「よし行こう」と返した。


「ついてこられるかな?」


 そう茶化すように振り返った青年に、デイビーは「今度こそ大丈夫さ」と強気で答えた。


 青年は肩をすくめるようにして笑い、するすると梯子を登り始めた。靴が触れる音もなく登っていった彼に続いて、デイビーも白銀の梯子に手を掛けた。


 まるで、夜風に触れているようだ、とデイビーは思った。


 心地よい冷たさがあって、白銀の梯子は手足に吸いつくような安定感がある。


 きらきらと光を放つその梯子をじっと見つめていると、それが本当に星の欠片で出来ている事が思い出された。何故かデイビーはそうだと知っていて、彼は希望を胸に梯子へと第一歩目を踏み出した。


 一段、二段、デイビーは順調に梯子を登っていった。すっかり遠くなっていた青年が、笑いながら「大丈夫かい」とちっとも心配していない声を下に落としてくる。デイビーは「平気さ」と答えて、落ちないようにしっかりと梯子に手足を置きながら登り続けた。


 だいぶ登ったところで、少し疲れたデイビーは、足を止めて下へと目を落とした。緑の淡い光りを灯した草原が、地上で光る波を静かに作り上げているのが見えた。


 彼は額に汗が浮かぶのを感じたが、拭う事なく目を上へと戻した。随分先で立ち止まっている青年を見やって、また一段一段登り始める。大分手が疲れてきたので「これはまずい」と思ってデイビーは登る速度を上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る