第4話

「お前は知らぬのか。俺がこの前、その雲を見つけ、光り輝く白い梯子が降りて来たという事を」

「えっ、そうなのかい!?」

「ああ。俺は力試しに登ろうとしたのだが、水と青い実と、天上に輝く星を入れるための袋を持っていなかったので、登らなかったのだ。次はそれを用意して、俺は登るつもりだ」


 デイビーは、ひどく驚いてオーティスを見つめ返した。すると周りの少年達が、口々に茶化してはやしたてた。


「亡き登り名人のラッセルおじさんも、天空橋を登った、と言う話だぞ」

「皆その風習がなくなったので言わないだけで、名人だったオーティスの曾爺さんも、きっと登った事があるに違いない」


 でも『木登り名人』と言われているデイビーの前に、そんな橋は降りてきた事がない。


 デイビーが「そんな」と見つめ返していると、オーティスが少し顎を上げて見下ろしてきた。


「なんだ。登り名人のお前のもとへは、まだ現れていないのか。俺のもとへ天空橋が現れたのは、お前と勝負をした日なのだが」


 てっきりお前のところへも現れていると思ったよ、というオーティスの言葉を聞いて間もなく、デイビーは駆け出していた。


「嘘だ、そんなはずはない。僕には登りだけしかないのに、天は僕よりも、オーティスを認めているだなんて!」


 足がもつれそうになりながらも、デイビーは駆け続けながら空を見上げた。どこまでも澄んだ青い空には、時々太陽を遮るような薄い雲があった。


 きっと、オーティスは、すぐにでも天空橋に登っていってしまうだろう。


 素直なデイビーは、それを思って悲しくなった。不思議な水と見た事もない青い実、そして、夜空で輝き続ける美しい星を持って帰ってきたオーティスは、きっと村人の称賛と喝采の中迎えられるだろう。村一番の牛飼いの一人息子で、少年達のすべての憧れや魅力を持った彼こそが、やはり一番の名人であると祝福されるに違いない。


 それに対して、デイビーには何もない。彼はたくましくもなく、登りは得意なのに力仕事は全く出来なかった。牛の世話ではよく引っくり返ってしまうし、ここぞという時に突き進む勇気もない。


 口下手で小さなデイビーは、唯一の誇りを奪われたようにして心の中で泣き叫んだ。


「ああ、神様。あなたまでも、僕を見てはくれないのですか! 僕はここにいます! 僕はここにいるのですよ!」


 家が見える場所でようやく足を止めると、デイビーは肩で荒い呼吸をしながら我が家を見つめた。身体中のどこよりも目が熱くなり、思わず鼻をすすった彼の前で、草原が穏やかに揺れる。


 こんなにも悩んだ日はなかった。忙しそうに服を縫う合間、パッと袋を渡したデイビーに母は少し驚いたように尋ねた。


「走って来たの?」

「えっ。あ、その……明日が楽しみで、興奮を鎮めようとしただけだよ」


 デイビーはそう誤魔化すと、何をするわけでもないのに外へと出た。


 そのまま家の後ろに腰かけて、数頭の牛が美味しそうに草を食べているのを眺めた。胸が苦しくなる事ばかり考えてしまい、しばらくすると牛を見る事も止めてしまっていた。


「他に、僕が持っているものは何かあるだろうか」


 デイビーは呟き、項垂れそうになる頭をどうにか持ち上げた。頭が重く、泣いてもいないのに瞼が腫れているように感じた。


 その時、彼の耳に聞き慣れた声が聞こえてきた。


「いやぁ、助かりましたよ。うちの山羊は凶暴なので、あのまま逃げていたら大変でした」

「全速力で走ったんだから、今日の飯は美味いだろう。君のおかげで、私は妻の食事を一段と美味しく食べられる。ありがとう心の友よ」


 近所に住まう男と、父の声がデイビーの耳に入ってきた。デイビーが立ち上がって様子を見に行くと、男と別れた父が家へとやって来るのが見えた。


「おかえりなさい」


 どうにか笑みを浮かべて言葉をかけたデイビーに、父は威圧感の欠片さえも感じない顔で笑って「ただいま、私の可愛いデイビー」と言葉を返した。


 父はとてもお喋りなので、相槌を打つデイビーに一方的にこう喋り始めた。


「ラディスの山羊の逃走劇、お前にも見せたかったなぁ。利口すぎて困っているという話を聞かされている時、突然ばーんっと小屋の扉が飛んで、そこから例のでかい山羊が出てきたんだ。知っているだろう? あの黒交じりの毛並みした、まるで戦士のような面構えをした、いかにも『俺は負けるものか』って表情をするあの山羊だよ。――父さんとラディスは、そりゃあもう必死に追いかけてね。びっくりした人が避けていく真ん中を、山羊を追いかけて全速力で走ったんだ! 山羊が方向を変える瞬間、床屋のゼンさんがシートを投げて――」


 話しながら、父はデイビーに投げる仕草までしてみせた。


「父さん達は、山羊が速度を落とした一瞬を見逃さなかった。まずはラディスが飛び出した。ばーんッという感じですごかったよ。でも距離が及ばず、そのまま地面に倒れ込んでしまってね。彼の横から私がジャンプして、山羊に覆いかぶさったわけだよ。――え? よく届いたねって? そりゃあ歳はとったが、身体の方はまだまだ現役だからね。ただ、終わったあとはお互い息が切れて、最後は大笑いさ」


 話を聞いて、デイビーは思わず口元に笑みを浮かべた。彼の父は外にいようが家にいようが、人と関わり合っていて土産話も多い。デイビーは、いつだって父からそんな話を聞くのが好きだった。


「ねぇ、父さんは、休みだろうが関係なく誰かに頼まれたらすぐに飛んで行くし、時には外を散策して困っている人がいないかって探すけれど、それはどうして?」


 ふと、デイビーは思った事を尋ねた。


 すると、父は満面の笑みを浮かべてこう答えた。


「誰かの助けになる事が、私は好きなんだ。そう思える自分もまた、誇らしい。何も出来なかった牛飼いが、人助けをしていくうちに色々な知識や技術を持つようになった、なんて、まぁ自分で言うのもなんだが、とても素敵な事だと思わないか?」


 得てやろう、と構えるのではなく、誰かにそれを分け与えなさい、と父はデイビーに続けた。デイビーは何故かほんのりと胸が温かくなり、そうして、とても泣きたくなった。


 嗚呼(ああ)。そうやって笑っている父さんが、僕はとても誇らしくて、羨ましい。


 目を細めるデイビーの向こう側で、父を呼ぶ母の声が聞こえた。僕にも出来るかな、という言葉を飲みこんだデイビーを残して、父は陽気に家の中へと入って行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る