第6話

 どのぐらい登ったのだろうか。雲が大分近くなっているところまで来た時、デイビーの身体はとても疲労していた。身体中の筋肉が軋み、気を抜くと「下まで落ちていくのでは」という危機感も覚えた。喉もひどく渇き、全身の血が沸騰しているように熱く感じ、時々額から流れてくる汗が目に入って痛い思をした。


 それでも、デイビーは登る事をやめなかった。彼は、ずっとこれに登りたかったのだ。諦めるものかとデイビーは唇を噛みしめ、雲に頭をくっつけている青年に目を向けたまま、ただ必死に進み続けた。


 疲労のせいか、下へと引っ張られる感覚が進むごとに強くなった。まるで数十人に身体を掴まれているような苦しさを感じて、次の一段を登ったところで、デイビーは思わず奥歯を噛みしめた。


「大丈夫かい? 手を貸そうか?」


 頭上から、青年が陽気な声を掛けてくる。


 デイビーは首を横に振ると、「自分で登る」と息も切れ切れにそう答えた。青年のところまであと少しの距離に来ているのに、手足を伸ばすごとに耐えきれない重みがデイビーを襲う。


 まるで、行くな、行くなと、地上から引っ張られているみたいだった。そんな馬鹿の事あるもんかと、見えない何かを振りほどくように身体をよじらせながら、デイビーはとうとう青年の足元まで辿り着いた。


「うん、頑張ったね。とりあえず、登ったところで一休みしよう」


 青年は「もう少しだよ」とデイビーに告げ、先に雲の中へと見えなくなった。一人取り残されたデイビーは、すっかり重くなった身体を引き上げるように腕を伸ばし、するするっと上がっていった青年のあとを必死になって追った。


 頭が雲に差しかかった時、触れた頭から、すうっと重みが抜けたのをデイビーは感じた。真っ白な雲はひんやりと冷たくて、体が入っていくごとに汗が消えていくのが分かった。


 視界は真っ白だった。手元の梯子以外は何も見えなくなってしまったが、デイビーは軽くなった身体を最後の力で上へ上へと持ち上げていった。


 すると、前触れもなく青年の手が上から現れた。「お疲れ様」と声がしたと思うと、その手はデイビーの小さく細い手を掴み、軽々と上へ引っぱり上げてくれる。


 突然、雲の層が開けて、デイビーは白と青の眩しさを感じて一度目を細めた。彼を片手で引き上げた青年は、疲れ一つ見えない顔でにっこりとデイビーに微笑みかける。


「さぁ、水分補給と行こうか」

「うん、是非そうしたいね」


 デイビーは雲の層に降ろされたが、あまりにも弾力のあるもこもことした地面に、思わずバランスを崩してしまった。疲れ切った身体はうまくバランスを保てず、彼は「ぎゃ」と短い声を上げて尻餅をついてしまう。


 それを見た青年が、途端に腹を抱えて笑い出した。


「毎回、君はそれをやるよね。好きなの?」


 そうからかわれたデイビーは、「放っておいてくれ」と唇を尖らせて言い返したところで、ふと、何度か揺れた雲の地面を見下ろした。


「雲というより、分厚い綿のベッドみたいだ」


 感想を述べて、デイビーはまた小首を傾げた。よく知っているはずなのに、まるで自分が初めて来たような感想を述べた事に疑問を覚えた。


「ずいぶん登って、くたくたになっているからなぁ」


 疲れていた事を思い出して、きっとそうなのかもしれないと思う。


 続いて深呼吸してみると、極上とも呼べる美味しい空気が肺に入って来て、途端にデイビーの疑問はすべて吹き飛んだ。彼はほうっと息をつくと、「心地いいなぁ」と呟いて雲の上に横になった。ふわふわと弾力のある雲の地面は、疲れた身体をそっと包み込むようにして優しかった。


 しばらくして、不意に水音が聞こえて彼は飛び起きた。雲の地面を振り返ってみると、途中でその白がぷっつりと途切れている事に気付いた。


 そこからは巨大な湖が広がっていて、白い地平線の手前まで水の青が続いていた。近づいて、しゃがみ込むようにして覗き込んでみると、どこまでも青く光る美しい湖の底には、凹んだ雲のもこもこ加減まで全部透き通って見えた。


「ああ、そうかココは、星を清める場所だったね」


 見つめていたデイビーは、不思議がる事もなくそう呟いていた。すると、すぐそばで屈んできた青年が、コップを持ったままにっこりと笑って頷いた。


「そう、空の欠片が付いたままの星を、天上の乙女がここで洗う。だから、湖も青く清められるんだよ」

「星の滴が溶け出しているのだから、青く光るのも当然だよね。星は透明な銀色で、そこに空の青が溶けて広がっているのだから」


 当然のようにデイビーは言って、青年から透き通る青い水が入ったコップを受け取った。ゆっくりとコップを口元で傾け、ずいぶん飲んでいなかったその味を確かめる。それは、どこまでも冷たく美味しい水だった。


 デイビーは懐かしさに浸ったが、不意にひどく喉が渇いていたのを思い出した。それを一気に喉に流し込んでみれば、喉元から水の冷たさが一気に全身へと広まっていって、先程の疲労さえも忘れてしまいそうなほど身体が軽くなった。


 空のコップを手に持って立ち上がったデイビーは、このまま身体が飛んでいくのではないかと思って、自分の身体を見下ろした。青年が彼からコップを受け取りながら、声を掛ける。


「水袋に入れようか?」


 足先を見つめながらデイビーは頷いた。顔を上げて見つめ返した時、コップがあったはずの青年の手には、いつの間にかデイビーのポケットにあったはずの水袋が握られていた。


「そぉっと、そぉっとね」

「うん。そぉっと、そぉっとだ」


 デイビーの掛け声に、青年が同じように楽しげに答えながら、水袋の口をそっと水面に沈めた。二人の無邪気な笑顔が、揺れた水面に反射して映っている。デイビーはまだ子供で、青年はもうすっかり大人なのだが、それでも二人の浮かべる表情はどこかよく似ていた。


 必要な量だけを水袋に詰めると、デイビーは青年に礼を告げて、それをズボンのベルトに固定した。金の刺繍がされたベルトは、この時のために腰に巻いていたものだ。右側に水袋の口がすっぽりはまり、左側には入れたあとの荷袋が、固定できるような金具がついている。


 水袋を専用のベルトで固定した後、デイビーはそれらを今一度見やって小首を傾げた。


「おや。僕は、いつからこのベルトをしていたんだろう」


 知っているはずのベルトを見て、そう少しだけ不思議に感じていると、青年が背伸びをして「よし!」と楽しげに叫んだ。そこで、デイビーの疑問はふっと消えてしまっていた。


 青年が、デイビーを振り返る。デイビーも青年を見上げ、合図があったわけでもなく、お互い悪戯っ子のような笑みを浮かべて似たような八重歯を覗かせた。


「さてと、次の場所へ行こうか。そこで少し腹ごしらえしよう」

「うん、次の場所へ行こう。僕はそれを食べるのに、ずいぶん待たされたのだから」


 この場所を知っていた青年とデイビーは、一緒に同じ場所へと顔を向けた。


 雲の下から伸び上がった白銀の梯子が、まだ上にある雲の層へと続いている。


 距離は、草原から雲の位置ほどぐらいの高さだったが、デイビーはもう気にはならなかった。「ついてこれられるかな」と茶化した青年に、「次こそは君に遅れないよ」と言葉を返す。


 二人は弾けんばかりの笑顔を浮かべると、同時に走り出していた。

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