第38話


「君の弱点は理解している。赤子と母がそうであるように、喧嘩にすらならないよ」


 彼が右手を上げると、女神はそれに答え、永久的に修復される盃を、躊躇なくイコへと振り下ろした。先程よりも分解が進み、盃の器部分を吸収するも、やはり風圧を消すまでには至らなかった――…が。


「ふん!賊ごときが、よくもうちの部下を随分いじめてくれたわねぇ!「裁決を待つ罪人の除夜(インバリアブル・ジャッジメント・バリア)!」


 イコの眼前に、突如ラナが躍り出ると、防御魔導をマイクロスクロールから起動した。振り下ろされた女神の腕から発生する風圧は、ラナの防御魔導を貫けず、イコの髪を揺らすことさえなかった。アデルの凄まじい魔術を見抜き、持てる最高戦力を持って対応するあたり、ラナの抜け目なさを感じさせる。


「どうしてここに?」

「馬鹿な部下がいないことに気付いて、戻って来たってわけよ」

「警備員の皆さん!こちらに避難して下さい!」


 背後では、冒険者特有の大声でチェリアが避難誘導を行っている。既に恐怖に支配されている彼女たちでは、何もできなかっただろう。


「既に軍隊が動き始めてるわ。耐え切れば勝ちってことよ」


 ラナは、ちらりとイコを見ると、こんな局面でも笑顔で語り掛けた。


「どうですかね。あの人は、軍隊に勝つ気ですよ」

「多勢に無勢だと思うけど。数で圧倒すれば、そのうちボロが出るはず」

「どうかな?私には優秀な息子がいてね。彼の力を借ると仮定すれば、重要なのは数ではなく、魔素量だと思うがね」

「…何を言ってるんだ?」とイコが答えた。

「ここに来るまでに、君の家に行った。軍隊が来ることも想定していたから、対抗策になりそうなのをいくつか見繕ってきたんだ。一日あれば、国を取れるだろうね」


 これまでに自分が開発してきた魔導を鑑みると、イコは苦笑いを浮かべてラナを見た。


「ラナさん、軍隊が来れば死者が増えるだけです。俺達で打破すべきだ」

「…イコ、どれだけ自分の魔導に自信があるのよ?まぁ、そんな隠し玉があれば、当然なのかもしれないけれど」


 イコの手元にある立体駆動魔導陣を見ると、ラナは呆れたように笑った。イコの魔素量については、以前から知っていたことだが、彼がこれほどまでに魔導巧者であることを、ラナは知らなかった。魔導オタクのデバック野郎という印象は、手の内で輝く立体駆動魔導陣に掘削され始めている。


「にしても、雑誌でしか見たことがないわよ。アデル・チャリティーなんて…」


 気負いもせず、過大評価もせず、アデルを等身大で見ているラナは、警備員たちとは異なり、落ち着いた態度のままだった。


「…君がイコの上司かね。随分と場馴れしているようだが…ただの会社員なのかな?」

「どうでしょうね。少なくとも、あなたが私の過去を知る必要はないわね」


 そう言うと、ラナは人差し指を立たせ、右手を天へ伸ばした。何が起きるかと思えば、つい先ほどアデルが空けた天井の穴から、数百の光の矢が、アデルへ向かって放たれた。


「ほう、素晴らしい作戦だ」


 光の矢がアデルに着弾する寸前に、そんな呟きが聞こえてきた。その小さな言葉は、着弾と同時に奏でられた爆音により、直ぐにかき消されてしまった。爆破した床から舞い上がる煙は、アデルと女神の姿を完全に覆いつくしていく。しかし、砂塵の中を貫通する夕日が、女神の黄金の鎧を反射しており、アデルの魔術が解けていないことを伝えた。


「はぁ…これで手傷を負ってくれれば、ずっと楽になるんだけれど。取り合えず、戻って来てちょうだい、ミーム!」


 大声と共に天井を見上げるラナに答えるように、ミームが天井に空いた穴からゆっくりと降りてきた。彼女の足元には、魔導陣が展開されている。ふわりと二人の側に着地すると、やや汗をかいているのが見て取れた。よほど魔素のいる魔導だったようで、連発は期待できそうもない。ミームに引き続いて、警備員の避難を終えて、チェリアも後方から駆け戻ってきた。


「ゲッ!?アデルさん!?逃げましょう!!!」


 ようやく砂塵が引くと、その奥から相変わらずの無傷であるアデルが見えた。彼の背後では、黄金の女神が盃を掲げており、その屋根の下にアデルがいる状況だった。チェリアはアデルの姿を見ると、直ぐに大きな声で先ほどの提案をした。


「それは困難だと思います。おそらく、イコさんのアンチマジック?魔導が、今のアデル氏にとってネックなので、ここで仕留めるべく動くはずです」


 冷静なミームの分析を聞くと、アデルは薄く笑みを浮かべていた。


「ご名答。でも君らが逃げる分には構わないよ。但し、イコだけは駄目だ。警戒すべきは何も細菌魔導だけではない。秀でた魔導開発の才覚には、無限の勝ち筋がある。無限の魔素があろうとも、十分に警戒に値するほどにね」


 何を賞賛しているのか、それとも嘲ているのか、アデルは小さく手を叩いていた。


「だって、チェリア。イコを見捨てて逃げるの?」とは、ラナの言葉だ。

「ぐぬぬ…イコさんには、友人を助けられたし…でも命には代えられないし…チッ、戦いましょうかね」


 その舌打ちを、イコは聞き逃さなかった。無事に帰れたなら、仕事を多めに割り振ることを決心した。同時に、深い感謝も抱いたことに間違いはないが。


「さてと、話し合いは終わりかな?予想外の因子だが、私に時間が無い事実だけは変わらないからね。そろそろ本腰を入れさせてもらおう」


 再び女神は、手を振り上げる。もはや、イコの細菌は競技場を満たすほどに増殖しているはずだというのに、アデルの魔術を無力化するに至らない。魔術の可変的な利点を活かすことで、常に分解された箇所を自己修復しているのだろう、とイコは推測していた。既に幾重にも対抗策を思案しているが、適当な策がないのが現状だった。そんなイコらに対して、再び女神は盃を振り下ろした。向上していく分解速度は、盃を削りに削り、遂には女神の指へと進行する。それでも風圧は消せず、ラナが防御魔導を起動して防いだ。そんな窮地のさなか、イコは光明を見出していた。


「…女神が動く度に、魔素間の結合が弱まるのかもしれない。だから、停止中の女神よりも、稼働中の女神の方が、より多く分解が進むんだ。ラナさん、どうにかして女神を大きく動かせませんか?」イコは、ラナを見た。

「…それなら、チェリアを強化すれば…う~ん、一応奥の手はあるけれど、人体実験がまだで、ちょっと不安があるのよねぇ。…チェリア、何日か入院してもらえるかしら?」

「えッ!?嫌ですよ!!!」

「獣魔の権化(ブラックアウト)」


 明らかに拒絶していたチェリアへと、ラナの強化魔導が施された。ギョッとしてイコが見ると、チェリアはぐらりと上体を「く」の字に曲げ、俯きながら涎を垂らしている。同時に、彼女の体からオーラのようなものが立ち上っているのが見えた。数度目を擦り上げてから、もう一度視線を戻せば、それが蒸気であることにイコは気付いた。


「ガァァァァァアアアアアアッッッッ!!!!!!」


 そうして湧き上がる蒸気と共に、チェリアが顔を上げれば、血の気を消した純白の眼球だけが前方を見据え、髪は天へと立ち上っていた。明らかに尋常ではないチェリアの様子に、イコは思わず苦笑いを零した。


「あれ、大丈夫なんですか?」


 イコは、右手を口元に当てて、腫物を見る時の所作でチェリアを指さしていた。


「ストッパーを掛けてあるから死にはしないけど…入院は必要になるかも」

「許してもらえますかね?」

「特別ボーナスを出せばね。イコの給与から差っ引いて」

「…一月分くらいなら無料働きしますよ」

「言質は取ったわよ。ミーム、今のチェリアは意識が無くて…私が操作する必要があるのね。だから繊細な人体操作魔導を起動するから、イコの防御は任せてもいいかしら?」

「さっきの攻撃魔導で、大量に魔素を消費してしまったので、どれくらい持たせられるかわかりませんよ?」

「それでいいわ。じり貧で負けるよりずっとマシよ」


 ラナがニヤリと笑うと、右手をチェリアに向けてマイクロスクロールを起動した。


「背信の意図(ビトレイヤル・インテンション)」


 起動と停止を繰り返す機構のように、チェリアは項垂れ、もう一度顔を上げた。ラジコンになったというよりは、自意識を抹消されてしまったかのようだった。

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