7-A お嬢様と熱


 イヴは背中を丸め、寝台に横たわっていた。


 耳の後ろがズクズクと腐り落ちるようにうずき、二の腕の芯のほう、骨のあたりに激しい痛みが走る。――全身が軋むような暴力的な痛み、焼き尽くされるような熱は、すべての気力を根こそぎ奪い去っていくほどに強烈だった。


 この状態からいつ抜け出せるのか、見当もつかない。なすすべもなく、圧倒的な何かに呑み込まれる。患っている最中はもがいている自覚すらなく――ただただ早く終われと願うしかない。




***




 幼少期は病弱で、大人になるまで生きられないだろうと言われていた。イヴが生き延びることができたのは、神が気まぐれを起こした結果だろうか。外国での長い療養生活をへて、彼女は生まれ持ったそのハンデを見事乗り越えた。


 ――今はもう大丈夫。体力もついたし。大人になったイヴは快活に飛び跳ねることもできるし、あちこち好きな場所へ出かけることもできる。人並みの健康を手に入れた彼女だけれど、それでも時折、こんなふうに体調を崩すこともあった。


 熱に浮かされ、いつの間にかうとうとしていたのだろうか。雨の音が聞こえる。――これは夢? それとも現実?


 苦労して目を開けてみると、いつの間にかすっかり夜になっていることに気づいた。瞬きを繰り返しながら、雨水がガラスを伝って落ちる、不規則な筋を目で追う。


 ――ああ、やはり雨が降っているのね。溜息混じりにそんなことを考えていると、何者かの気配を感じ取った。高い位置に向けていた視線をゆっくりと下に降ろせば、従者のアルベールが窓辺の椅子に腰かけているのが見えた。


 薄暗い部屋にすっかり溶け込んでいて、シルエットからなんとなく彼だなと分かりはするものの、表情までは窺えない。灰がかった静謐な空気の中、彼が手元に落としていた視線を上げ、こちらを見返す気配がした。


 イヴの目がいくらか暗さに慣れたのか、繊細で美しい彼の顔の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がって見えた。


「……アルベール?」


 名前を呼べば、彼は椅子から腰を上げ、こちらに歩み寄って来る。そうして猫のようにしなやかな動作で、そっとベッドの端に腰を下ろすのだった。


 ――なんだかとっても距離が近い。普通であれば不躾なはずのその行為も、洗練された彼がすると、とても自然なことに感じられるのが不思議だった。


「お呼びですか、お嬢様」


 答えるアルベールの声はとても静かで、イヴは幾つか呼吸を繰り返しながら、その余韻を惜しむように、しばらくのあいだ口を閉ざしていた。その間も絶えず雨粒が窓ガラスを打ち続けている。


 耳が遠くなったような、喉のすべてが膨らんでいるような、おかしな感覚がある。彼が水の入ったグラスを渡してくれたので、起き上がる気力もなくて、身体を横に向けてそっと水を口に含んだ。


 そのまましばらくぼうっとしていると、段々と頭がしっかりしてきて、ブレていた像が不意に収束したような感じがした。


「――もう夜ね」


「夜半過ぎです」


「こんな夜更けにレディの部屋に入るのは、感心できないわね」


 グラスを返しながらイヴは冗談めかしてそう言ってみるのだが、それは自分の声じゃないみたいに、小さくて折れそうに感じられた。迷子になった子供みたいな、頼りない声。


 アルベールがくすりと笑みを漏らしたようだ。


「何をしていたの?」


 彼は一冊の本を膝の上に載せている。窓辺に腰かけていた時から、ずっと持っていたのだろう。


「本を眺めていました」


「こんな暗いところで?」


 これでは文字など読めそうにないけれど。特に今夜は悪天候で、月明かりすら差し込んでこない。


「真剣に読んでいたわけでもないんです。ただ紙面を眺めていた」


「それはなんの本?」


「お嬢様が大事になさっていた本ですよ。――恋の物語」


 アルベールの声はとても静かで、闇に溶け込んでしまいそう。


 恋の物語――イヴは乾いた笑いが込み上げてきた。


「お姫様は王子様と出会って、幸せになりました。めでたし、めでたし、というやつね」


「お嬢様が眠れるまで、読んでさしあげましょうか?」


 それはとても素敵な提案に思えた。彼の声を聴きながら眠りにつけたら、良い夢が見られそう。


 ――だけど今は、とイヴは思う。ハッピーエンドの話なんて聞きたくない気分だった。だって自分との温度差を思い知らされるだけだから。物語に純粋に浸れなくなったのは、いつからだろう。


 イヴは軽く眉を顰めたあとで、なんでもないというふうに声を押し出した。


「お話してくれるなら、あなたのことを聞かせて」


「私のことですか?」


「そう。――ねぇ、このあいだ父さまが言っていたの。あなたは今停滞期にあるだけで、そのうちに変化が訪れるのだと。私もそう思うわ。あなたはいずれ羽ばたいて行く」


 今が心地良いからと変化を嫌がるのは、子供じみた行為であるだろう。分かってはいるのだけれど、イヴは変化をどう受け止めていいのか分からない。――ポカポカした日向から去るのはとても勇気がいる。ずるいと分かっていても、イヴはずっとそこに留まりたいと願ってしまうのだ。


 迷うイヴとは対照的に、アルベールが返す言葉はとても落ち着いて響いた。


「私は今が停滞期だとは考えていません。変化は望んでいない。停滞しているという意味では、あなたと出会った七年前が、私にとってはまさにそれでした。あの頃はまだ私自身に甘えがあったし、面倒な問題が都合良くリセットされるのではないかと、馬鹿げた夢を見ていた」


「甘えですって?」


 イヴはびっくりして思わず息を呑んでしまう。


「あなたは現実に向き合おうとして必死だったし、ただ傷ついていただけじゃない。混乱して必死なのは、悪いことなの? そんなはずない。あの頃の自分を否定する必要などない。――あなたはいつだって自分に厳しすぎる。きっとほかの誰でもない、あなた自身が、あなたを許していないのね」


 どうしてなの? 自身を恥じる必要などないのに。あなたは悪くないのに。


 けれどアルベールはかたくなだった。


「貴族社会は私を決して受け入れない。私の両親はそれだけのことをしました。――私はこの境遇を恨んではいない。恨む権利など、はなから私にはないからです」


 彼の声は凪いでいて、とてもとても静かだった。それがイヴにはただ寂しく感じられる。まるで乾ききった傷口のよう。傷跡は消えはしないし、はっきりとそこに残っているのに、それは紛れもない過去なのだ。『今』ではない『過去』。


「――眠れないのなら、恋の話をしましょうか。欲望のままに生きた、愚かな女の話です」


 イヴはひっそりと息をしながら、アルベールが語る話に耳を澄ませた。




***




「五人兄弟の末っ子として育ったその娘は、とびきり美しく、夢見がちでした。賢くはありませんでしたが、その考えの足りなさがちょうどよかったのでしょうか――娘は父親から溺愛されて育ちました。――依存心の強い娘が家で甘やかされ、外ではその容姿ゆえにチヤホヤされて子供時代を過ごしたとしたら、一体どんな人格が形成されるのでしょう?」


 アルベールの低く落ち着いた声が、雨音と溶け合って闇に消えて行く。彼の発した問いは、もしかすると彼自身が解消できていない疑問なのかもしれなかった。


 ――真に愚かだったのは誰なのだろう? 頭が空っぽなご令嬢? それとも彼女を甘やかした保護者? それともただ傍観していただけの、周りの人たち?


 アルベールがぽつりぽつりと他人事のように続ける。


「父親の溺愛、それはある種の育児放棄だったのでしょう。父親は娘をどっぷりと甘い夢に浸し、矯正させることもなく、彼女が成人を迎える前に亡くなってしまいました。そのまま自らを省みることなく、身体だけが大人になった彼女は、やがて子爵位を持つ男性と熱烈な恋に落ち、結婚することになりました」


 二人はとびきり甘い恋人同士だった。しかし互いに熱病に侵されたような状態で結ばれた二人は、やがて現実を知り、夢から覚める。――父が盲目的に愛してくれたようには、伴侶は彼女を特別扱いしてくれない。


 愛をなくした夫婦は、それでも冷え切ったまま、夫婦という形を保って暮らしていく。飽きたアクセサリーと違って、古いのを下取りに出して、すぐに新しいものを買い換えるというわけにはいかないのだから。


「女が選んだ夫もまた、彼女にそっくりな男でした。甘ったれた貴族の子息で贅沢が大好き。いつだって考えが足りない。夫妻はすぐに外に楽しみを求め、互いに浮気をして、散財を繰り返しました」


 話が一番つらいところにさしかかった。イヴはたまらずアルベールのほうに手を伸ばし、彼の手に重ねた。熱を孕んだイヴの手は熱く、アルベールの手は冷え切っていた。


 ――もういいのよ、そう言ってあげたかった。話すことで彼の古傷が開いて、鮮血が噴き出してくる幻影がちらつく。つらいなら何も考えず、逃げてしまえばいい。しっかり向き合う必要なんてない。


 けれど一方では、話したほうが彼のためにはいいのかもしれないとも思った。すべて吐き出して、それきり忘れてしまえればいいのに。絶対にそれはできない人だと分かっているのに、彼が無責任になれない現状が、もどかしく感じられた。


 人は賢くないほうが、楽しく暮らせるのではないかとイヴは思う。思慮深さは近しい者に感銘を与えることはあっても、えてして本人を幸せにはしてくれないものだ。


 愚かであっても運さえ良ければ、そこそこの幸せを手に入れることは可能だろう。アルベールが語るその美しく愚かな令嬢だって、恋に落ちた相手が桁外れの大金持ちであったなら、たとえ愛がすぐに消え去ったとしても、きっと悲劇的な結末を辿ることはなかったに違いない。


 アルベールはイヴの手の熱を感じ、ちょっとした困惑と、深いところから突き動かされるような衝動を味わっていた。彼の瞳は苦痛を堪えるように静かに伏せられた。


 そうしてしばらくじっと考え込んでいた彼は、ふたたび話を再開した。


「金銭的に困窮した夫妻は、とある詐欺に引っかかりました。それ自体はとりたてて語ることもないありふれた話で、その時点で踏み止まっていれば、最悪の事態は防げたはずでした。――けれど夫妻は愚かにも、被害者から加害者になることを選択した。自分たちが騙された手口をそのまま転用し、ほかの貴族を騙して金銭を巻き上げることを思いついたのです。彼らにとっても、周囲にとっても不運だったのは、女の兄弟が名士揃いで、上流社会で顔が利いたということでした。五人兄弟の一番上の姉は公爵家に嫁入りしていたし、二番目の兄は莫大な資産を持った伯爵でしたから」


「私の父ね」


 イヴの声は熱のためか、動揺のためか、掠れている。


「父は彼女ではなく、四番目の妹のほうを可愛がっていたそうね。問題児の末っ子と違って、派手な美しさはないけれど、賢い娘だったから」


 今は隣国に嫁いでいる叔母には、療養時イヴも世話になった。血の繋がった親戚というのは実に不思議な存在だと思う。


「そうだね。結局のところ彼女は、兄姉の誰にも相手にされていなかったんだ。同情的に解釈するならば、そういった寂しさが彼女の性根を歪めてしまったのかもしれない。あるいはやはり、生まれついてのろくでなしだったのかも」


 アルベールの口調が少し速まる。


 実の母親をそんなふうに言うしかないなんて、とても不幸なことだ。そしてアルベールがどんなにこき下ろしたとしても足りないほどに、真実、彼の母は愚かで最低な人間なのだった。貴族社会に激震を走らせた巨額詐欺事件は、今でも人々の記憶に根強く残っている。


「母は」アルベールが呟きを漏らした。「しでかしたことの責任を取ることなく、男と逃げてしまった。今でも消息は分からない。父はそのあと自害したことになっているが、真相は藪(やぶ)の中だ」


 アルベールの父であるランクレ子爵は、完全に逃げ時を誤った。そういう詰めの甘いところに、彼のすべてが表れているような気がする。


 見通しの甘いお坊ちゃん気質というのだろうか。悪事であっても上手くやりこなすことができないくせに、それでいて誰かの善良さを鼻で笑うような愚かさが、彼にはあった。結局、中途半端な出来損ないだ。


 おそらく彼の死は、詐欺事件の被害者から、私的に制裁を下された結果なのだろう。しかし表向きは自殺として処理されることとなった。


 負債はイヴの父であるヴァネル伯爵が、大部分を肩代わりしたと伝わっている。――詐欺で金を集める際に、無断で名前を使われたヴァネル伯爵は、彼自身も事件の被害者であるという同情的な見方もされたが、他人事だと静観を決め込むわけにはいかなかった。


「――僕はね、イヴ」


 アルベールが彼女の名を呼ぶ。月の光のように朧で、淡雪のように清廉な笑みを浮かべながら。


 ――彼はもう何も恨んではいない。その段階はとうに過ぎている。イヴは魅入られたように、彼の美しい瞳をじっと見上げることしかできなかった。


「血の繋がりというものを、時折、強烈に意識する。この身体の中にはあのろくでなしの血が流れていて、たまらない気分になる。僕は自分自身が嫌いだ」


「ほかの誰でもない、私があなたを必要だと言っても?」


 イヴは叫び出したい気持ちだった。二人はもうずっと堂々巡りだ。互いに何一つ思いどおりにならない。人生はなんて理不尽なのだろう。


 アルベールの声音があまりに静かだから、イヴが何をしたところで、たとえ目の前で泣き叫ぼうが、彼の心を変えることなどできはしないのだと分かってしまう。


「君が必要としてくれるから、僕はここにいる」


 はぐらかす意図はないのだろうけれど、結果的に彼はイヴの問いには答えてくれなかった。――いや、応えることができないというのが正しいのだろう。


 彼が自分自身を許していないから、ほかの誰かを受け入れることはできない。――できはしないのだ。


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